鬱の時代7・優越感と劣等感

現在の戦後世代の大人たちが子供時代にぬくぬくと自意識をふくらませてくることができたのは、おそらく幾重にも幸運が重なっているのだろう。社会そのものが自我の拡大を止揚する時代だったし、親も学校もむやみな監視をして抑圧することがなかった。とくに団塊世代は、人数が多かったから、一人一人に監視が行き届かなかった。また親たち(とくに父親)もみずからのつくった「核家族」に対する戸惑いがあった。
それに対して、現在の「ニューファミリー」の子供世代は、親がみずからの家族の価値に執着して、子供を監視し抑圧してきた。彼らはもう、自意識を薄くしてゆくことしかそれに耐えるすべはなかった。そして、大人になっても、家族をつくろうとする意欲を持つことができなくなっている。
親たちの「家族は価値である」というスローガンが、子供たちから家族をつくろうとする意欲を奪った。
そして逆に、戦後社会の父親のように「家族は諸悪の根源である」という感慨を抱いて家族から逃げ回っていると、母子関係がタイトになりすぎて子供の自意識が野放しになって「家族は価値である」というスローガンを持たせてしまう。
どちらも、ある意味でろくなことにはならなかった。
解決策など、わからない。もしかしたら、「わからない」というそのことが解決策かもしれない。
少なくとも、大人の世代が「家族は価値である」というようなスローガンをむやみに振り回さないほうがよい。そんなスローガンでよい社会がやってくるかということの回答が、現在の「非婚の時代」であり、「鬱の時代」である。
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日本列島の歴史的な家族制度は、家族の成員一人一人が自意識を薄くしてゆくシステムを持っていた。
そのシステムが戦後に壊れ、女子供の自意識が野放しになってしまった。現在の若者たちがなかなか結婚しようとしないのは、そのツケを払っていることにほかならない。
それでもまだ、子供の自意識を守り育てる家族こそ価値である、というような論理を振りかざしてスローガンにしている知識人がいる。それが、内田樹先生だ。
団塊世代は、すぐ「昔はよかった」といいたがる。自分たちの育ってきた過程を全面肯定し、それを基準のものさしにしてあれこれいっている。
また、「全共闘運動」や「三丁目の夕日」に憧れてしまう若者もたくさんいる。まあ、大人たちが「昔はよかった」と自慢ばかりしている世の中だから、ナイーブな若者たちがそれに憧れてしまうのも無理ないのかもしれない。
四十代の最後の戦後世代の大人たちだって、自分たちがその時代に乗り遅れてしまったことを残念がっている。
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戦後は、経済発展とともに、子供や若者の競争心も旺盛な時代だった。
知識欲といっても、彼らの場合は一種の自意識であり、たくさん知識を持って人より優位に立ちたいという意欲の上に成り立っていた。
内田先生は、子供とはそのようにしていつも仲間に対する優越感を持とうとしている存在であるという。それは、自分がそういう子供だったからだ。そして自分は大人になったからそんな傾向を払拭している、という。だめですよ先生、「三つ子の魂百まで」で、もしそんな子供だったらあなたはもう死ぬまで優越感をよりどころにして生きてゆくしかない人種なのですよ。
現在の子供や若者にそんな傾向があるとすれば、それは、大人たちの意識を反映しているに過ぎない。
とりあえず核家族の中で育てば、子供の自意識は守り育てられてゆく。そうして、「俺様化」する若者も少なくないのだろう。
しかし、現在の子供や若者の学力が低下しているということは、それだけ優越感を持とうとする自意識を消去しようとする衝動も生まれてきていることを意味する。
「空気を読む」とか「俺たち頭悪いから」といっていることとか、彼らは彼らなりにそうした自意識を消去しようとしている。
純粋な知識欲ということなら、昔も今も人間なら誰だってどこかしらではたらかせている。たとえば今どきの普通のバカギャルだって、携帯電話の機能に対する学習能力は驚異的である。僕なんか、人間の脳みそがどうしてそこまで対応できるのか、まったく信じられない。人間技とは思えない能力で彼女らは、携帯電話を操っている。それは、彼女らの知識欲である。
内田先生は、知識欲とは「知に対する飢えである」という。そして、現在の若者や子供にはそれが欠落しているともいう。まったく、あほじゃないかと思う。知識欲ということばをそのまま言い換えているじゃないか。で、その「飢え」がどこからわいてくるのかといえば、知識を持てば世界が広くなるという予感があるからなんでってさ。そんなスケベ根性で知識をため込んでいるのは、あなたたちくらいのものさ。
人はどうしようもない存在の不安があって、その不安を消去しようとして知識を取り込んでいってしまう。ギャルの携帯電話に対する知識だって、まぎれもなく存在の不安と知識欲のたまものさ。人間なら誰だって、そんな存在の不安を抱えて生きているのだ。他人を安く見積もるのもいい加減にしろ。
学力なんか、たくさんの人数で競争すれば、そりゃあ高くなるさ。そして戦後世代は、競争心が旺盛だった。
現在の若者や子供は、自分が将来高収入の社会的地位を得られなくなるだろうという不安な予感を支払ってでも、無理に学力を上げようとがんばることはしない。
若者とは、ほんらい、大人になったときのことなど忘れて「今ここ」に全身で反応していってしまう人種なのだ。だから、すぐ会社をやめてしまうし、フリーターであることにも甘んじてしまう。
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戦後世代の大人たちだって、内田先生をはじめ、いっぱしのことをいってもただの衒学趣味の知識オタクばかりじゃないか。その衒学趣味を特化させたものが知識人になり、このネット社会で活躍している知的な素人だって、けっきょく衒学趣味でしかない限界を抱えてしまっている。
その有り余る知識と教養で現在を寸評して見せても、そこからさらに掘り進んでゆくことができている人は、そうそういない。寸評するだけなら、お前らより学者先生やあまたの売文業者のほうがうまいって。
だから山姥さんから「このネット社会に、心の中に闇を抱えている人などめったにいない」といわれなければならない。お前らよりケータイの名手のバカギャルのほうが、ずっと「心の闇=存在の不安」を抱えて生きている。
学力と知識欲とは、また別のことらしい。この二つのことばの厳密な解釈ともかくとして、学力だけがあって知識欲に乏しい大人たちは、たくさんいる。学力によって満たされるのは他人に対する優越感であって、知識欲ではない。
他人に対する優越感を持とうとする意欲が強ければ、学力は上がる。そういう意欲が強い子供の学力はほおっておいても上がるし、意欲が薄い子供は金で釣るとかいろいろ餌をまくしかない。
学力が高ければ将来の社会的地位は約束されるし、そういう子供は将来の社会の繁栄に貢献するだろう。しかしそういう子供たちに思考能力が身につくかといえば、その回答は、現在の衒学趣味の大人たちによって示されている。
そんな大人たちばかりだから、子供たちの学習意欲が育たない。あなたたちの衒学趣味なんか、うらやましくもなんともないんだよ。だから彼らは、「俺たち頭悪いから」といって苦笑いしている。
あなたたちには、人間としての根源的な「存在の不安」の上に立った知識欲=思考力がない。
現在の若者や子供たちだって、せつに知りたいことに対しては、驚くほど豊かな知識を備えている。
学力なんか高くなくても、たとえば一定レベルの本を読む能力さえあれば、知識はいくらでも深くすることができる。
優越感に耽溺しようとする意欲さえ強ければ、いくらでも学力は上がる。
しかし「存在の不安」の上に立っているものでなければ思考は深くならない。
「鬱」の上に立っているものでなければ、思考は深くならない。
そういうところで今の大人たちは、悟ったようなことばかりいっているから、若者や子供に尊敬されないのだ。学力なんか上げてもしょうがない、と思われてしまうのだ。
あなたたちは、その学力に見合うだけの思考の深みを持っていない。ただの衒学趣味に終わってしまっている。それじゃあ、既成の学者に対抗できないし、既成の学者たちはますます付け上がってくる。
戦後の核家族は、こんな大人ばかり生み出した。彼らの一部は、学力優秀で大いに社会の繁栄に寄与したが、思考の深みを持っているわけではない。彼らの知識のよりどころになっているのはたんなる「優越感」であって、人間としての「存在の不安」ではない。「存在の不安」を消して「優越感」を紡いでゆくことは達者だが、「存在の不安」そのものを生きる思考力はない。それは、彼らが「核家族」に耽溺して生きてきたからだ。
彼らよりも「俺たち頭悪いから」という若者のほうが、ずっと人間としての「存在の不安」そのものを生きている。心の中に「闇」を持っている。それは、大人たちのように「核家族」に耽溺することができていないからだ。