鬱の時代8・若者は家族という空間を怖がっている

今どきの若者たちが結婚したがらないのは、家族をつくることを怖がっているからだろう。
べつに、金がない若者だけが結婚しないのではない。金があってもできない若者がたくさんいる。
なぜ怖がるのか。
家族の価値を教えてやれば解決するというような問題ではない。内田樹先生はすぐそういう発想をするのだが、人間は、価値にしたがってだけ行動しているのではない。そんな損得勘定だけで生きていられる俗物は、内田先生、あなただけだ。いや「だけ」ということはないけどさ、そういう俗物根性は団塊世代の特徴的な行動様式の一つであり、誰もがそうとはかぎらない。
人間は、それだけではすまない生きものだ。少なくとも無意識のところでは、そんなものはなんの意味もない。
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というか、今の若者たちは、その「家族の価値」というスローガンそのものに追いつめらて結婚できなくなっているのだ。
人間は、「価値」に従って行動している存在か?
現代社会は、ひとまずそのように動いているかのように見える。
価値は、無価値なものとの対比の上に成り立っている。それは、貨幣経済だ。ひとまず、金の世の中だ。
だから、「命の価値」だの「家族の価値」だの、そんな言い方がこの社会の合意(スローガン)になってゆく。内田先生も、盛んにそれを力説しておられる。なんのかのといっても先生は、へそ曲がりを気取って見せても、けっきょくそういう社会的合意のの上に発言しておられるから人気があるのだ。
で、だったら、家族をつくらない生き方は、無価値なのか。内田先生をはじめ家族が価値だというスローガンの人は、皆さんそう思っておられるらしい。
しかしそんなスローガンを押し付けられたら、子供は、家族から巣立ってゆけなくなってしまう。家族の外に興味がなくなってしまう。その息苦しさを、彼らはわかっていない。
そんなスローガンを押し付けられても、子供はけっきょく家族の外に友達や恋人をつくるわけで、彼らはそのことに、家族を裏切っているといううしろめたさを持っている。だから、怖くて結婚できない。
親にはいわなくても、友達には打ち明けることがある。そして、お母さんや妹よりも、ガールフレンドを抱きしめたいと思う。そういう衝動は、家族は価値だというスローガンによって否定されている。そうやって追いつめられながら育ってきたから彼らは、もう結婚できない。
家族の価値を信奉する現代の核家族は、そういうところに若者たちを追いつめている。
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家族なんて、ろくでもない空間だ。「諸悪の根源」だ。それでも女房とはエッチしたいし、子供はほおっておけないと思うのなら、一緒に暮らすしかない。
一年中発情している生き物である人間には、セックスする相手は必要だ。
無力な存在として生まれてくる人間の子供は、ほったらかしにされたら生きてゆけない。
それだけのことさ。家族がなくても生きてゆけるのなら、それはそれでけっこうなことだ。
家族なんか、価値でもなんでもない。それぞれが、引き受けられる範囲で引き受ければいいだけのこと。
内田先生は、こういう。家族に「共感」や「親密さ」はいらない、家族は価値であるという合意を確認できる「儀礼」こそいちばん大切なものだ、と。
何をくだらないことを……。
家族は価値でもなんでもなく、夫婦はあかの他人だし、子供はいずれそこを巣立ってゆく存在であればこそ、とりあえずその空間を維持するためには「共感」や「親密さ」が必要になってくるのだ。家族とは、「家族の価値」などという信仰が成り立たない空間なのだ。それでもその信仰を成り立たせるためには、「価値」があるかないかなどという損得勘定だけで生きる俗物にならなければならない。
内田先生と違ってそんないやらしい俗物になりきれない人間はもう、何はともあれ、この果てしない宇宙の歴史の中で「あなた」と「私」が出会っていることの奇跡にときめき合うという「共感」は、最低限必要になってくる。それがなければ、このろくでもない家族なんかやっていけるものではない。
内田先生、あなたはそうやって「家族の価値」とか「儀礼」などというわけのわからない概念を振り回して、そういうプリミティブな「共感」というものに対する切実さがなかったから、前の奥さんに逃げられたのではないのですか。
儀礼」などというもので、人をしばるな。結婚式も葬式も、どうでもいいことだ。家族なんか、あってもなくてもどうでもいいものだ。
結婚なんて、「はずみ」でしてしまうものだ。
家族の価値なんか振りまわすな。
人間は「価値」にしたがって行動しているのではない。そのときその場の「はずみ」というか「成り行き」というものがある。
人間は、損得勘定だけで生きているのではない。
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家族の価値を止揚する内田先生は、最初のうち家族がどんなにしんどくわずらわしくとも、いつかきっとその価値を達成したことの充足がもたらされる、という(「街場の現代思想」)。
冗談じゃない。若者たちには、そんなスケベ根性はない。「今ここ」を生きている彼らにとって、そんなあるかどうかわからない未来の充足などどうでもいい。
先のことなんか、誰にもわからない。えらそうにお前が決めるな。充足を獲得する人間もいれば、むなしさばかりを感じて死んでゆく人もいる。人生の運命は、不確かで、ときに残酷でもある。それでも、そのときその場の「はずみ」というか「成り行き」というものがある。人間なんて、いつだってそのようにして結婚してきただけだ。だから、見合い結婚や政略結婚も成り立った。
そういう「成り行き」に現代の若者たちが怖がっているのは、大人たちの「家族は価値である」という社会的合意に追いつめられているからだ。
内田先生、そんなことばかりいっていると、また女房に逃げられるかもしれないですよ。
家族の誰であれ「家族の価値」に執着されると、まわりはどうしようもなくうっとうしくなってしまうのだ。先生、まだわからないのですか。わからないというより、認めたくないのだろう。そこが、団塊世代の限界なのだ。
ともあれ、「家族の価値」などというわけのわからない概念を第一のものとして生きてゆくなんて、よほど損得勘定の旺盛な俗物にしかできない。
家族なんて、ただ一緒にいることに他愛なくときめき合っていればいいだけだし、言い換えれば、どんなに幸せでもそれがないとやっていけない。
戦後の核家族は、「家族の幸せ」という「価値」を信奉してゆくことによって、家族のひとりひとりの無邪気なときめきを失っていった。そうして今、若者たちが結婚することを怖がっている。「婚活」といったって、金がないと結婚できない、という強迫観念と別のものでもないだろう。
「はずみ」でやっちゃえばいいだけなのにさ。やつらがしゃらくさい家族肯定論ばかりぶち上げているから、怖くなってしまう。
ほんとに、家族の幸せか存在価値に執着されたら、ほんとにまわりは息苦しくなってしまうのですよ、先生。
家族なんて、ろくでもない空間なのだから。
若者の結婚なんて、毎晩やりまくればいいだけなのだけれど、戦後の核家族は、そんな能力のない若者をたくさん生み出した。そんな能力がないから、幸せにしないと、とか、あれこれの強迫観念におそわれて怖くなってしまうのだろう。
解決策なんか、わからない。ただ、太宰治のいった「家庭は諸悪の根源である」といったのは当たっていると思うし、しかしそれが結婚を阻む理由にはならないとも思う。
それでも人は、結婚し、家族をつくってしまうわけで、ただ、家族をつくっている人間にえらそうな「家族の価値」論を振りまわされたくないだけだ。
とりあえず、追いつめられている人間には、避難場所は必要だ。その避難場所を心中に求めた太宰の選択も、それはそれでありだよなあ、と思う。家族が彼を追いつめたのだもの。
「家族の価値」などということをいっているかぎり、人は妙な追いつめられ方をしてしまう。