欝の時代5・打ちひしがれる

太平洋戦争が終わったのが1945年、太宰治の心中は1948年、そして三島由紀夫の割腹自殺は1970年に起きた。このあたりまでがひとまず「戦後」といわれている時代で、このあたりまでに生まれた世代を「戦後世代」ということができる。
このあと日本は、一気に奇跡的な高度経済成長へと突き進んでいったわけで、その尖兵となったのが、戦後の核家族によって大切に自意識を守り育てられてきた「戦後世代」の人々だった。
ともあれ戦後は、復興のために自意識を守り育てることと、敗戦のけじめとして自意識にけりをつけることという、相矛盾した問題が交錯して推移してきた時代だった。その象徴的な事件として、太宰の心中や三島の割腹自殺があった。
肥大化した自意識にけりをつけようとするなら、自分で自分の命を絶つところまでいってしまうしかない。太宰や三島はそういう教訓を残したが、70年代以降はもう、その教訓を振り捨て、無際限な自意識の拡張とともに高度経済成長に突き進んでいった。
しかし、ひとまずそのダイナミズムが終息した現在、ふたたび戦後の時代が抱えていた自意識の問題がよみがえり、年間3万人以上の自殺者が生まれるという「鬱の時代」を迎えている。時代が自意識にけりをつける作法を見失っているから、こういう事態が起きてくる。
われわれは今、みずからのこの肥大化した自意識から追いつめられている。
世間には相変わらず自意識に耽溺して生きているのうてんきな大人たちはたくさんいて、そういう世間でのさばっている大人たちのあくまで自意識に耽溺して生きていこうという合意が、追いつめられた人々をさらに追いつめている。
われわれは、そうやって二重に追いつめられ、最後の選択はもう死んでゆくことしかなくなってしまう。
そして追いつめるがわにいたあの連中も、やがては年老いて、そのみずからの肥大化した自意識に復讐され鬱に落ちてゆくことも多い。
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戦前に生まれて戦後という時代を生きてきた父親と、戦後に生まれ育って70年代以降に父親になっていった戦後世代とでは、「家族」に対する意識が違う。
戦前派の父親は、戦後の核家族に対する違和感があった。だから太宰は「家庭は諸悪の根源である」といった。
しかし戦後生まれの多くの父親には、そういう意識はない。家族を持つことこそが人間の本質であり、それによって自分の人生が完成する、と思っている。そしてそんな父親に育てられた現在の子供たちの世代は、太宰と同じように「家族」という空間を疑いはじめている。結婚年齢が大幅に上がって結婚しない若者が増えてきているのは、彼らが「家族」という空間を信じていないからであり、「家族」をつくることを怖がっているからだ。
彼らには、「ニューファミリー」ブームを起こした親の世代のような家族に対する執着はない。と同時に、家族はそんな幸せで楽しく物質的にも恵まれた空間であらねばならないという、親の世代がつくっている社会的合意としての「ニューファミリー」思想に追いつめられて怖がっているという部分もあり、だから娘たちも金のある男とばかり結婚しようとする。
近ごろの若い娘は打算的だ、と大人たちはいうが、あなたたちがつくっているその偏頗な社会的合意が、彼女らをそういうところに追いつめているのだ。
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フリーターや派遣社員の男は結婚できないなどといっているやつは、誰だ。収入が少なければ、二人で働けばいいだけのことじゃないか。子供なんかつくろうとつくるまいとどちらでもいいことだ。そんな先のことなんか、どうでもいい。とりあえず「あなた」と「私」が出会った、という事実があるだけだ。その事実以外にどんな理由もいらない。
この社会の大人たちがつくっている「ニューファミリー」思想の合意が、若者たちを追いつめ、結婚できなくさせている。金のある男しか結婚できないような状況をつくってしまっている。
そりゃあ、家族という空間に価値があるのなら、けっきょくそういうことになってしまうだろう。しかし結婚は、ほんらい「家族」をつくるためにするのではない。男と女が、このうっとうしい社会から逃れて身を寄せ合う避難場所としてなされるだけのこと。人類の歴史はそうやって家族を発生させたのであり、まずそこからはじめるのが普遍的な人類の結婚のかたちなのだ。
そのあとのことは、「成り行き」が決めてくれる。
家族なんか、価値でもなんでもない。男と女が出会ってくっついてしまえばしょうがなくできてくる、というだけのこと。家族は、結婚したものたちが背負うほかない運命であるが、そこに何か価値があるのではない。それは、「諸悪の根源」なのだ。
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戦後の大人たちは核家族に違和感を抱いていたが、今どきの戦後世代の父親は、そこにみずからの人生のよりどころを求めている。
「みずからの人生」を意識してこだわること自体が、すでに自意識を肥大化させてしまっていることの証しである。
皮肉なことに、現在の若者たちが、戦後の大人たちのような視線で「家族」を眺めている。
現在が「鬱の時代」だと叫ばれ、年間3万人以上の自殺者を生み出し続けているのは、「核家族=自意識」に耽溺する大人たちがこの社会の中心に居座り、まわりの者たちを追いつめているからだ。
そういうグロテスクな大人たちを、戦後の核家族が生み出した。
「家族の価値」などというスローガンは、現在の若者には荷が重い。そんなスローガンで結婚なんかできない。現在の若者たちが結婚できないのも、「鬱の時代」のひとつ象徴的な現象である。
人はなぜ結婚するのだろう。
何はともあれ、戦争直後は、誰もがかんたんに結婚してどんどん子供を産んでいった時代である。
人はなぜ結婚するのかというプロトタイプのかたちは、おそらくここにある。
戦後、人々は打ちひしがれていた。そうして打ちひしがれた者どうしが身を寄せ合うようにして家族をつくっていった。
惨めな敗戦のあとにやってきたのは、危機的な食糧難である。そうして、誰もが戦争の恐怖や親しい人との別れの悲しみをぬぐいきれないでいた。そんな状況であればもう、誰かと抱き合っているしか耐えるすべがなかった。売春は、戦争が終わって最初に繁盛した商売のひとつである。それは、打ちひしがれた男たちにとっては、食い物を切り詰めてでも必要な体験だった。
戦後は、生へのエネルギーあふれていた時代ではない。誰もが打ちひしがれていたのであり、打ちひしがれていたからこそ、せつに願わずにいられないものがあった。
生へのエネルギーがあふれていれば社会はダイナミックに動くとか、人間はそんな単純な図式で計れる存在ではない。
太宰治のようにひといちばい自意識も生命力も旺盛だった人間が、あっさりと心中して死んでいったのだ。
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誰もが打ちひしがれていたら、誰もがかんたんに結婚してしまう。しかし現在は、打ちひしがれていたらいけない時代である。誰もが、そうなってはならないという強迫観念を抱えて生きている。幸せで楽しいふりばかりして生きてる。
そんな時代に、結婚などできるはずがない。結婚したくなるような気持ちになってはいけない時代なのだ。
「鬱」であってはいけない時代だから、若者は結婚できなくなってしまうし、鬱が進行して追いつめられていった人間はもう死んでゆくしか残された道がなくなってしまう。
終戦直後は、誰もが鬱状態だったのであり、その鬱状態が、誰もが結婚して子供を次々に産んでゆくというダイナミズムを生み出した。そして歌謡曲プロ野球などの他愛ない娯楽に熱中していった。
誰もが打ちひしがれていたからこそ、誰もが他愛なくときめき合っていた。
おそらくこれが、人間が結婚することの基本的なかたちである。人類の歴史は、何かから追いつめられて結婚という形態を生み出したのだ。
氷河期明けの人類の集団の規模は急速に大きくなって密集してゆき、6、7千年前ころから共同体という制度が生まれてきた。そのうっとうしさから逃れるようにして、一対の男と女が身を寄せ合う「家族」という空間が生まれていった。それまでは自由な乱婚社会であり、母子関係はあっても一夫一婦制の家族などというものはなかった。
そして日本列島では、個人を抑圧する共同体という集団の発生が大陸よりも5千年くらい遅く、したがって一夫一婦制の家族もなかなか生まれてこなかった。日本列島で一夫一婦制の家族形態が定着したのは、ようやくここ千年くらいのことである。
共同体の制度から追いつめられた男女が身を寄せ合っていったのが、家族の発生である。はじめに家族があったのではない。そこのところを取り違えるべきではない。家族は、人間の本性に従って先験的に存在していたのではない。
人間が共同体をつくるなどして、しだいに追いつめられていったから、家族が生まれてきたのだ。
家族は、追いつめられている男女が身を寄せ合う避難場所である。原初の人類はその状況から家族を生み出していったのだし、戦後の人々が次々に結婚していったのも、そういう追いつめられ打ちひしがれている状況があったからだ。
人々が打ちひしがれていたら社会が停滞するかといえば、そんなことはない。逆に、現在の社会の停滞状況は、打ちひしがれてあることを否定する社会だからであり、否定しているのは、戦後世代の大人たちだ。
彼らの自意識は、自分の人生は充実しているかと、たえず自分を監視している。そして、自分の人生は充実していると、たえず確認せずにいられない。
充実しているなら、結婚する必要なんかないし、充実していると確認して満足しているから、インポになって女房に逃げられたりするのだ。
何はともあれ戦後社会では、打ちひしがれた者どうしが結婚し、家族をいとなんでいた。戦後のダイナミズムは、そこにあった。
鬱がなくなればそれでいいというものではない。人間は追いつめられて存在している生きものであり、そこから人間らしい生がはじまるのだ。(つづく)