鬱の時代9・知性の活動

人間は、存在そのものにおいて、すでに追いつめられている。
原初の人類は、群れの密集状態に追いつめられて、二本の足で立ち上がっていった。そして二本の足で立っていることは、胸・腹・性器等の急所を外にさらし、他者の視線から追いつめられている姿勢にほかならないのであり、その居心地の悪さから衣装をまとうようになっていった。
そのようなかたちで他者の視線にさらされている人間存在は、したがってつねに「自分はここにいてはいけないのではないか」と問いながら生きるほかない宿命を背負ってしまっている。
原初の人類が地球の隅々まで拡散していったのも、「ここにいてはいけない」と追いつめられている存在だったからだ。未知の世界に対する好奇心にせかされて、とか、そういうことではない。そういうスケベ根性が人間の根源的な自意識であるのではない。人間の根源的な自意識は、「ここにいてはいけない」というかたちで追いつめられていることにある。
人類の歴史は、追いつめられているものたちによってつくられてきた。
未来を目指すスケベ根性によってではない。人間は、未来を目指しているのではない、ただ、「ここにいてはいけない」と追いつめられてあるのだ。
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追いつめられている人には、生きていてほしいと思う。なぜならそれこそが人類の希望であり、生きてあることの根源的なかたちだと思えるからだ。追いつめられている人は、人間社会の生け贄の羊だ。
お前らの暑苦しい幸せ自慢や人格自慢など、なんにもすばらしいともうらやましいとも思わない。
お前らのしゃらくさい「より良い未来への展望」など、なんの希望にもならない。そんなことを、お前らが決めるな。それは、時代の運命として決定されるのだ。その運命を黙って受け入れることができる人がいることこそ、われわれの希望なのだ。
この社会が生き延びるのか滅びるのか、それは、お前らが決めることではない。時代の運命として決定される。勝手にえらそげにほざいていろ。僕の仕事は、お前らの脳みその薄っぺらなことや愚劣さをあぶりだすことにある。
人間であることの存在証明は、この世の追いつめられている人のもとにある。
人は、幾重にも追いつめられて生きている。自分自身から、他人から、家族から、学校から、会社から、社会から、あらゆる場面で監視され検閲されている。存在そのものにおいて、すでに監視され検閲されている。ただ、そのことに気づいている人といない人がいる、というだけのことであり、追いつめられてあることそれ自体を生きることができる人とできない人がいる、というだけである。
追いつめらて生きることができない人は、自己愛や他人に対する優越感をよりどころに生きようとする。戦後の核家族は、そういう人間を育ててきたと同時に、追いつめられたまま死の世界に引き寄せられてゆく人間も多く生み出した。太宰治は、そういう未来を予言する存在として、心中して死んでいった。
追いつめられてあることが人間存在ほんらいのかたちなのだから、われわれの社会は、とうぜんそういう代償(生け贄)も支払わなければならなくなる。自己愛や優越感で生きている人がたくさんいてのさばっている社会だから、その社会的合意(共同幻想)から追いつめられてしまう。お前らの、その俗物根性が追いつめているのだ。
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人間は、自己完結できない存在である。したがって、自己愛とか自尊感情などという自己完結した心の動きはほんらい持つことができない。その欠損感を埋める対象として、世界や他者が現われる。
たとえばわれわれが何かを知識として学ぶことの契機を、内田先生はこういう。
「幼児的なものの見方から抜け出して、風通しのよい、ひろびろとした場所に出られるという期待が人をして学びへと誘うのである」
ほんものの学者ともあろう人が「知識」というものをこんなふうに考えているなんて、いったいどういうことだろう、田舎の中学校の校長先生のお説教じゃあるまいし。
知識を得ようとする動機なんか、犯罪者になるためだろうと、オタクになって狭い世界に閉じこもるためだろうと、子供の見方を学ぶためだろうと、いろいろあるさ。毒になる知識もあれば、不幸になる知識もある。知識によってもたらされるものはさまざまだ。「風通しのよいひろびろとした場所」に立って優越感に浸りたいのか。スケベ根性丸出しの言い草だな。俗物だなあ。人間が知識というものを持つということに対する真剣な考察なんて、どこにもない。
その知識が自分をどこに連れて行ってくれるかなんて、わかるはずもない。
べつに、大人になりたいわけでもない。
本を読んだり人と話していれば、心にしみてくるような言葉やイメージがある。そういう出会いがある。学ぶとは、知識と結婚することだ。知識と心中することだ。
内田先生のいう「それがいつか役に立つだろうという期待がある」とか、そんなことは関係ない。
人間は、知識を吸収してしまうような存在の仕方をしている。人間は、自分を忘れて知識にときめいてゆく。自分を忘れるとは、自分が消えてゆくことだ。人間は、消えてゆきたがっている。消えてゆこうとすることが生きることのダイナミズムになっている。
またわれわれの体は、自分の体のことなど忘れて世界や他者に驚きときめいてゆくことによって、はじめてスムーズにダイナミックに動く。まあ、こういうタッチは、鈍くさい運動オンチである内田先生にはわかるまい。運動神経とは、自分の体を消すセンスのことだ。
「ここにいてはいけない」存在である人間が、その与件を克服する方法は二つある。ひとつは、自己愛や優越感によって「ここにいてもいい」存在になること。そしてもうひとつは、ここにいることそれ自体を忘れてしまうことだ。
だから人間は、われを忘れて世界や他者にときめいたり、何かに熱中したりする。またセックスのときの女は、自分の存在そのものが消えてなくなってしまうようなオルガスムスをを体験する。
快楽とは、自分が消えてしまう心的体験のこと。つまり、「ここにてはいけない」と追いつめられた人間の避難場所は、自分を忘れてしまう体験が生まれる場所のことだ。
生きてあることのダイナミズムは、死の誘惑とともにある。それはもうたしかにそうなのであり、「生きていてもいい」存在になったら、ちんちんなんか立たなくなってしまうのだ。若者のちんちんと大人のそれとの違いは、単純に若さだけのことではなく、「ここにいてはいけない」という思いで生きているか、「生きていてもいい」とふんぞり返って生きているかの違いとしてもあらわれているのだ。
人間は、自分を忘れてしまう体験によって、人間になる。セックスすることも心中することも知識を学ぶことも、自分を忘れてしまう体験にほかならない。
歴史は、追いつめられてあるものによってつくられてきた。
追いつめられているものはもう、消えることによってしか逃れるすべはない。蛇に睨まれた蛙は、消えるしか逃れるすべがない。追いつめられているものは、消えようとする衝動を持っている。そうやって人は知識を吸収してゆくのであり、また太宰治はそうやって消えてしまいたい一心で心中していった。
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内田先生は、こういう。「知性の活動とは、極言すれば、<与えられた判断枠組みを超え出る>自己超越の緊張以外の何ものでもないのである」、と。
つまり、そうやって「優越感=自己超越」をつむいでいくことが「知性の活動」なんだってさ。
そうじゃないのですよ、先生。「知性の活動」とは、「与えられた判断枠組み」をそのままみずからの運命として受け入れてゆくことなのですよ。青い空を見れば、その青いということをそのまま受け入れることによって「空が青い」という認識が成り立つ。これが、「知性の活動」の根源のかたちなのだ。
先生は「今の英語の授業はろくでもなくて英語嫌いの生徒をたくさん生み出し、彼らの知性の活動の機会を奪っている」というが、それこそまさに「与えられた判断枠組みを超え出る自己超越の緊張」の中に身を置いているのだから、彼らは内田先生のいう「知性の活動」をしていることになる。
そうやって先生は、ろくに考えもしないで口からでまかせばかりいっているから、こういう矛盾をさらしてしまう。
悪いけど僕は、そんな「与えられた判断枠組みを超え出る自己超越」などというスケベったらしい能力なんか知らない。青い空を眺めて青いと認識する能力しか持ち合わせていない。しかしだからこそ先生、あなたは僕よりも思考が薄っぺらなのですよ。
たとえば、寝床でおもしろい小説に読みふけって眠れなくなる、という。それは、小説の主人公に感情移入して自分が主人公のような気分になり、自分のことばかり考えてしまっているからだ。そうやって人は、「自己超越」してゆく。
これに対して、哲学の本を読むとすぐ眠くなる、という。それは、自分を捨てて「与えられた判断枠組み」を受け入れてゆくからだ。眠くなるとは、自分が消失してゆく体験にほかならない。
「知性の活動」とは、「与えられた判断枠組み」を受け入れて眠くなることだ。だから、知的な人は、内田先生のような騒々しいワーカーホリックになんかならない。仕事なんか、みんないやいややっている。
何が「自己超越」だ。あなたは、知性についての真実を、自分を捨てて受け入れてゆくということができていない。自分の都合のいいようにでっち上げているだけじゃないか。
ほんとうの「知性=知識」と学力とは違う。先生は、自分に都合のいい結論をみちびきだすために、そこのところを混同して語っている。ほんとうの「知性=知識」やほんとうの学ぶという体験は、追いつめられているものたちの避難場所(消失感覚)であって、自己愛や優越感に耽溺しているものたちの「学力」とは別のものだ。
ほんとうの「知性=知識」は、追いつめられているもののもとにある。人間の歴史は、追いつめられているものによってつくられてきた。追いつめられていることが、人間が生きてあることのかたちなのだ。