鬱の時代10・生きにくい

したがって、生きにくいことが生きてあることの基本的なかたちなのだ。
生きてあることのダイナミズムは、そこにこそある。
追いつめられてあることそれ自体を生きることができなければならない。追いつめられなくなればそれですべてが解決するというわけではない。そんなものは、まやかしだ。人間は「追いつめられる」というかたちから逃れて生きることはできないし、逃れたつもりで生きて、鈍くさい運動オンチやインポのままでいてもいいというわけにもいかないだろう。
人間は、追いつめられる不幸を引き受けてしまう生きものだ。原初の人類は、その不幸を引き受けて二本の足で立ち上がった。そうして、不幸を引き受けながら、住みにくいところ住みにくいところへと移住してゆき、とうとう地球の隅々まで住み着いてしまった。
時代は、どんどん変わってゆく。それは、生きにくさを生きるほうが、生きた心地が深いからだ。人間は、生きにくさの到来に、驚きときめいてしまう。
不幸な未来を想像するとその通りになる、などとよくいうが、未来など想像しなくても人間は不幸と出会えば引き受けてしまうようにできている。だいたいこういうことをいう人間ばかりの世の中だから、追いつめられている人がよけいに追いつめられて、追いつめられてあることそれ自体を生きることができなくなってしまう。
幸せであるだけではすまないのがこの生のかたちなのだ。
じっとしていても息をしなければ息苦しくなるし、腹も減ってうっとうしくなってくる。そういう生きにくさを受け入れなければ、生きてあることができない。人間は、生きにくさを受け入れてしまうようにできているのだし、そこから快楽が紡ぎだされる。飯を食って美味いと思う快楽は、腹が減るうっとうしさを受け入れていればこそだ。
赤いりんごを見て、黄色いバナナだと思うことはできない。意識は、みずからが出会っている「状況」を受け入れている。受け入れているから、赤いりんごを見て、赤いりんごだと認識することができる。そのようにして、人は、不幸な状況だって受け入れてしまう。
内田先生は、だから不幸な未来を想像してはいけません、という。
しかし無力なわれわれは、人間であることはしんどいなあ、せつないなあ、と思うばかりだ。人間は、不幸と出会えば不幸を受け入れてしまう。死と出会えば死を受け入れてしまう。意識はそのようにできてあるのだし、しかしそこにこそ人間であることの醍醐味もダイナミズムもある。少なくともわれわれは、内田先生より、目にしみる空の青さを知っているし、先生よりずっとスムーズに体を動かすことができる。