鬱の時代11・日本的な鬱

運命を受け入れる、というのは、日本的な感性であるらしい。
西洋かぶれした内田樹先生は「運命は、幸せな未来を想像しながらつくりだしてゆくものだ」といっておられる。そんなこといったって先生、明日から秋になればいい、と思ったって、そうはいかないでしょう。目の前のりんごがみかんに変わるわけでもないでしょう。
運命を受け入れる、とは、青い空を眺めてそのまま青い空だと受け入れ認識することだ。そのとき青い空が広がっていることは、われわれの「運命」である。意識とは、運命を受け入れるはたらきである。
運命を受け入れなければ、誰も生きていられない。
そういう根源的な意識のはたらきを観念のはたらきにまで広げて洗練させていったのが、日本的な感性である。
日本列島の住民はことのほか運命に従順である、といわれている。
たとえば西洋の庭園は、自然を征服して幾何学的なかたちを作り出す。それは、運命を征服しようとすることでもある。
一方日本庭園は、自然をそのまま模倣しようとする。そのようにしてわれわれは、運命を受け入れている。そしてそれは、自然のありさまに対してとても敏感である、ということでもある。自分勝手に作り変えることができるのなら、そこまで敏感になる必要はない。作り変えることができない運命であると思うからこそ、細部まで敏感になってゆく。
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自分の心や人格だって、作り変えることができるのなら、あまり気にする必要もない。
しかし作り変えることのできない運命だと思うのなら、気にしないではいられない。そういう無力感と細かな心理のあやを気にする傾向がわれわれにはあって、日本的な「鬱」の病をしつこくややこしいものにしている。
西洋人は、心や人格など作り変えることができると思っているから、作り変えたことを表現しようとする。言い換えれば、表現すればそれが作り変えたことの証明になる。腹の中で何を思っていてもかまやしない。とにかく表現すれば、それが心になり人格になる。
だから彼らは、見つめ合い、表情で心を表現し合ってあいさつする。
言い換えれば、表現さえすれば、何を思っていてもかまわないのだ。たえず異民族との関係に置かれてきた彼らは、そういう流儀で人と人の関係をつくってきた。微笑んでくれば敵意がないと解釈するしかなかったし、微笑んでおけば敵意がないことの証明になる、ということにした。
表現さえすれば、腹の中で何を思っていてもかまわない、というのが、彼らの人間関係の流儀である。
しかし、日本列島ではそうはいかない。みんな同じ文化風土で生まれ育ってきたものどうしなのだから、良くも悪くも、みんな同じように思うに決まっている、という前提がある。
だから、表現なんかしない。深くお辞儀をして挨拶する。昔の人は、体を90度以上折り曲げてあいさつしていたのであり、それがあたりまえだった。
それは、自分を表現しないし、相手の表現を確認することもしない、という態度だ。相手と出会ったことを喜び祝福しているのは当然のことだ、という前提でなされている。この国には、腹の中で何を思っていてもかまわない、という約束はない。お辞儀をするからには、心の底から喜び祝福していなければならない、という、悪く言えば強迫観念がある。良く言えば、そういう率直な合意がある。
西洋人は、腹の底のことは問わない。そんなものは、いかようにも作り変えられると思っている。しかし日本列島の住民は、作り変えることのできない運命だと思っているから、とても気にする。日本列島の住民は、大陸の人々よりずっと心の機微に敏感である。
西洋のフランスでは、近代になって「心理小説」というものが生まれてきた。だが日本列島では、千年も前からすでに「源氏物語」という本格的な「心理小説」や、個人的な心理のあやを微細に綴った女流の「日記文学」が流布していた。
近ごろの「青い花」という揺れる乙女心を綴ったマンガだって、そういう伝統の上に支持されているのだろう。
それは、目の前の風景を世界のすべてとして受け入れ、それを微細に見てゆく民族の伝統なのだ。
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鬱病の患者を見舞って、やさしく微笑みながら「がんばってね」と声をかける。
しかし患者のほうは、「こんなになってしまって、かわいそうに」といわれたような気分になり、かえって傷ついたりする。
この国では、腹の中で何を思っていても態度でちゃんと示せばいい、などという理屈は成り立たない。また、「がんばって自分の心を改造せよ」などという励まし方が成り立つ国でもない。
「引きこもり」だって同じだ。本人に自分の心を改造しようというような意志はないのに、まわりは改造せよと迫ってゆく。お前らのその「改造できる」という思考こそ、鈍感で倒錯的なのだ。心を改造する、などということはしょせん、腹の底を隠して笑って見せる技術がうまくなるだけのことだ。西洋人は、そうすることによってほんとにその気になってゆく純情を持っているが、われわれはそこまで成りきることができなくて、卑屈になるかずるがしこくなるかのどちらかが関の山だ。
われわれの課題はたぶん、心を改造することではなく、どこまで根源に向かって遡行できるか、ということにあるのではないだろうか。
自分の心の動きは自分の運命であり、改造しようもない。それを、改造せよというような励まし方をされたらたまったものではないし、西洋と違ってこの国では、そんな押し付けがましい「微笑み」などなんの値打ちでもない。
態度で示せばいいってものじゃない、自分の優越感をまさぐっているだけのような、そんな慇懃無礼な励まし方はするな……少なくともこの国では、そういう論理的帰結になる。
老人介護とか養護学校の先生とか、「かわいそう」と思いながらの「使命感」でやっている人は、たいてい挫折する。なぜなら、自分の同情と使命感に見合うだけの感謝や親密感を相手が返してこないからだ。
ただもう、同じ時間の同じ場所の「いまここ」を共にしていることによろこび祝福できる人が長続きするのだろう。「あなた」と一緒に今ここを生きていることのよろこび、そういう他愛ないときめきをもてるかどうかが勝負なのだ。使命感なんか、どうでもいい。他愛ないときめきには、他愛ないときめきが返ってくる。それ以上の、いったい何が必要というのか。
鬱病の患者にだって、必要なのはおそらくそのことであって、がんばって心を改造することではない。
こっちがときめかなければ、向こうだってときめいてこないさ。他人の感謝なんか当てにするな。優越感なんか、いっさい捨てろ。使命感もいらない。ただ金のために働けばいいだけさ。その代わり、患者と一緒にいるときだけは、心の底から一緒にいることをよろこべ。
まあ、僕にできるかといえばほとんど自信はないのだけれど、世の中にはできる人がいるんだよね。それはすごいことだと思うし、この国には、そういう人が登場してくるような歴史の水脈がある。
この国には、態度で示す文化はない。示さないのがこの国の流儀なのだ。その代わり、すでに心の底から喜び祝福している、という前提を持っている。この国では、使命感に燃えたナイチンゲールなど必要ない。他愛なくときめくことができればいいだけで、そういう素質を持った人がたくさんいる文化風土なのだ、たぶん。
でも内田先生、あんたじゃないぜ。あんたは、態度や言葉であらわすのは上手だけど、腹の底では何を思っているのかわからない人間だ。
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この国には、自分の心を作り変えることができる、というような文化はない。この国では、心は作り変えることができないもので、その心のあやを微細に観察する。そういう文化風土になっているから、鬱病になると立ち直るのがとても困難になってしまう。心なんか作り変えればいい、というような文化風土ではないのだ。
以前吉本隆明という人が「精神を病んだ人はもっと自分と戦うべきだ」というようなことをいっていた。あんたじゃあるまいし、そんなあつかましい自己撞着があったら精神は病まない。
この国では、自分の心を作り変えることはできない。そういう心を持ってしまった「運命」にしたがって生きてゆくしかないのだ。そういう「運命」にしたがおうとする態度が、立ち直りを困難にしている。だがまわりは、したがおうとするその態度を否定して、「改造せよ」と迫ってゆく。医者だって、改造しようとたくらんでいる。そういう西洋かぶれした社会的合意から、彼らはさらに追いつめられてゆく。
この国には、「自分と戦う」ような文化風土はない。そして、自分の心を微細に観察する視線を持ってしまっている。そういうわけで、自分だけでなく人の心のあやにとても敏感なのだ。腹の底を隠したおためごかしの態度に、ものすごく傷ついてしまう。大陸のように、そういう態度が通用するような文化風土ではないのだ。
患者に、自分を改造しようというような意志はないし、持たせようとしてもなかなか効果は上がらない。この国の医者や介護士たちは、患者を改造しようとばかりたくらんでいる。「こう考えたほうがいいですよ」だって?。大きなお世話だ。お前らのその優越感が、患者を追いつめているのだ。お前らには、他者の存在に対する敬意というものがないのか。
もちろん僕に解決策などあるはずもないが、悪いけど僕は、やつらの「使命感」があまり好きにはなれない。「使命感」なんて、「優越感」の別名なんじゃないの。
患者や老人は、あんたの「優越感」をちゃんと見ているんだぜ。この国では、アメリカの患者や老人よりも、もっと敏感に見抜いているんだぜ。
アメリカでは、スパイダーマンみたいな使命感が有効だし賛美されもするのだろうが、この国では、そんな大げさなものより、心の底の他愛ないときめきを忘れてはなかなかうまくゆかないのではないだろうか。
微笑もうとするな。心の底に他愛ないときめきを持っているものは、ただ「微笑んでしまう」のだ。運命を受け入れているものは、この世界に対して、はにかみ微笑んでいる。日本人だろうと出稼ぎのフィリピン人だろうと、まあそういう微笑みというかはにかみを持っている人が、看護の天才なのだろうと思う。内田先生みたいに、世界を征服しようというような、くそあつかましい「使命感」に燃えている人間ではない。
看護をする人に「使命感」なんか要求するな。それが仕事なら、金のためにやればいいだけさ。心の底に他愛ないときめきを持っているなら、それが最上の資格になる。
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介護や治療の現場にいる人たちには、失礼なことばかり書いてすみません。とりあえずの覚書として、提出してみます。日本列島的な鬱のかたちを、もう少し考えてみたいわけで。