鬱の時代12・育児放棄(ネグレクト)

ゆうべNHKで、母親による幼児殺害のニュースを延々とやっていて気が重くなった……と、あるブログで語っていた。
ひとこと「気が重くなった」それだけである。そのひとことですますところに、このブログの管理人の知性と人格の高潔さがにじみ出ているらしい。
管理人は五十代の人らしく、ここではおもに新聞の政治記事などの寸評を毎日語っていて、知的な階級の多くの若者の支持を得ている。寸評の切れ味とともに、この人の人格の高潔さも大いに評価されているらしい。
わりと以前からあったブログで、最初は、日本列島が極東の島国であることをもう一度考え直してみようよ、というちょっと右翼的なスタンスの思想を表明していて、僕も気になっていたのだが、最近は政治向きの記事に対する寸評がメインになってきた。
若者たちのオピニオンリーダー、というところだろうか。若者たちは、彼の考え方や知性や人格に憧れている。
僕はもっと日本列島が極東の島国であることの思想を語って欲しいのだが、本人がいうには、それはもう最初の数年間で語りつくしてしまったのだとか。
だから、政治の記事に対する寸評に移行してきたのだが、僕としては、そんなものかねえ、と思う。
僕なんかあほだから、寸評できる知識も思想も持ち合わせていない。それは、とりあえず今ここで掘り進んでみたことの結果として、はじめてあらわれてくる。
披瀝できる「引き出し」なんか、何もございませんよ。
僕よりもたぶんひとつあとの世代の人なのに、すでに「語るべきことは語りつくした」んだってさ。
だから、そんなものかねえ、と思う。
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先日大阪で起きたその事件の当事者である二十三歳の母親は、離婚したあとに風俗店で働いていて、一歳と三歳の子供二人の面倒をみるのがほとほといやになったあげくに、自分の住むマンションを出て1ヶ月以上子供をほったらかしにしてしまったのだとか。
そのあいだに、二人の子供は餓死してしまった。
こんな記事に出会ったら、誰だってショックだろう。
気が重くなった……のひとことですむのかねえ。そんなことより、政治向きの記事に対する寸評のほうが大事なのかねえ。そのひとことで自分の知性と人格の高潔さをさりげなくにじませて見せれば、それですむのかねえ。
そしてそれを読んだ多くの若者たちも、そんな態度に、何か人間としての潔さやかなしみみたいなものを感じているのだろうか。それが、今どきの知的な人種の生きる流儀なのだろうか。
そうなんだろうね。
僕としては、納得できないけどね。
言わぬが花、確かにそうだ。でも彼は、「気が重くなった」とひとこと語ってしまった。語ってしまったら、もはやそれだけではすまないだろう。それなりに言葉を尽くして語るか、何もいわないかのどちらかだろう。
このブログにときどきコメントを寄せてくれる「杉山巡」さんも政治向きのことにときどき寸評を書いておられるのだが、彼は、今なお掘り進んでいる。「DIG」ということ。掘り進んで、政治家の心の中の闇をわしづかみにしてしまう。そういう寸評である。
僕にはできない。そういう権力闘争などというグロテスクなものに付き合うことができない。勝手にやってくれ、と思うばかりだ。だから、杉山巡さんの寸評は、とても勉強になり、ときどきはっとさせられる。
彼は、政治家のグロテスクな闇の部分には容赦はないが、庶民の生きるいとなみには、たぶんもっと別の感慨があるはずだ。
僕だって、そこのところを、極東の島国の歴史の水脈として腑分けしてゆきたいと思っている。
気が重くなった、ではすまない。
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こういう事件が起きてしまったことは、われわれの時代の運命であって、彼女の人間性を否定すればそれですむという問題でもない。
気が重くなった、だけではすまない。そのブログの聡明な管理人からすれば、語ろうと思えばいくらでも語れるけど、今は語らない、ということかもしれない。だったら、何もいうな。そんな気取った態度をされると、僕なんかあほだから、あなたはこの世の出来事の何もかもを自分の知性や人格を表現するための道具くらいにしか思っていないのだろう、といいたくなってしまう。
思想を表現するとは、自分の人格を表現するいとなみなのか。
そりゃあ、そういうことを上手に表現してみせれば、若者は憧れるだろう。
あなたは、知識オタクの星だ。知識オタクもそこまでたどり着くことができればたいしたものだ。ただの知識オタクでは終わっていない。誰にも負けない知識の上に、ちゃんと高潔な人格もそなえている。そこまでたどり着ける知識オタクは、そうそういない。
でもやっぱり、それでいいのかねえ、と僕は思ってしまう。
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僕は、彼女の育児放棄したくなる気持ちが、わからないでもないような気がする。だから、ショックなのだ。
そういう時代なのだろうし、ちゃんと育児を全うしたからえらいというものでもない。どちらになっても、人間としての成り行きの問題だろう。育児を全うしたあんただけがえらいんじゃない。それくらいのことで、優越感に浸るな。
育児なんか、したくなければ、しなくてもいいのだ。さっさとしてくれるところやしたがっている人に預けたって、僕はよう責めない。
しかし、社会は、そんなことは非人間的な行為だ、という。そういう社会的合意に追いつめられて彼女は、ぐずぐずと子供と一緒の暮らしを続けてしまった。
生きてゆくことなんか何もかも面倒くさいことなのに、とりあえず人は、生きてゆくしかない状況に置かれている。
腹が減ったら飯を食いたくなるし、息苦しければ息を吸ってしまう。そして人や楽しい物事に出会えば、ついときめいてしまう。
朝起きて空が青く晴れていただけで、ついときめいてしまう。生きることなんか面倒くさいだけなのに。ときめかなければ、さっさと死んでゆけるのに。
それでも人間は、生きている。この体は、生きてゆくようにできている。
おそらく離婚した彼女の挫折感は深い。
とにかく、最終的にそういうことをしてしまうくらい挫折感は深かったのだ。この先はもう、生きていってもしょうがない、という思いになったかもしれない。そうして今、自分も子供も、生きていなくてもいいのに、まだ生きていやがる……。
掃除なんか、やっていられるか。育児なんかやっていられるか……その気持ちは、僕にも思い当たるふしがないわけではない。人間なら、そんな気持ちになってしまうんだよね。
子供はいないけど、そんな、何もかも「どうでもいい」というような気持ちになってしまう人間は、今の世の中にいくらでもいる。いなければ、鬱病など存在しない。
彼女は、子供の存在から追いつめられ、生きるということそれ自体からも追いつめられていた。
そして、この世のご清潔でご立派な社会的合意から追いつめられていた。
何もかもどうでもいい、育児なんかわずらわしいだけだ、と思っているのに、それを放棄したら人間ではないかのように迫ってくる社会的合意に追いつめられ、中途半端にぐずぐずと子供との暮らしを続けてしまった。そうして、疲れ果ててしまった。
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追いつめられた者の、もっとも有効な逃れる方法は、自分の姿を消してしまうことである。追いつめられている者は、自分の姿を消してしまおうとする衝動を持っている。その原理にしたがって彼女は、子供たちの前から姿を消した。
誰だって、追いつめられたら消えようとするじゃないか。消えた、ということは、追いつめられていた、ということだ。
お前らが、人から責められて散々言い訳をたれたり他人に責任をおっかぶせたりすることだって、消えようとする衝動以外の何ものでもない。たいしてちがいないさ。
こんな世の中で、あんな状況に置かれたら、あんな気持ちになってあんなことをしてしまう運命を彼女は背負ってしまっていた。彼女はもう、消える以外に思いようがなかった。
この事件に対する新聞の扱いは、小さくはないが、そう大きくもない。気が重くなって思考停止してしまった、というところが、平均的な反応の仕方だったのだろうか。
朝日新聞だけが、わりと大きく扱っていた。
ともあれ幼児虐待が問題化している世の中だから、住民は何度も役所に通報したのに、けっきょく適切な対応はしてもらえなかった。
日本人の公共心は薄い。行政のがわにはしっかりしてもらいたいが、行政のがわだって公共心はたかが知れている。欧米のようなわけにはいかない。
けっきょく地域住民どうしの連携で何とかするしかないのだろうが、「命の価値」だの「家族の大切さ」などと西洋風なことばかりいっている世の中なら、こんなことが起きてくるのも仕方がないし、連携のモチベーションもいまいち上がらない。育児放棄するやつは人間じゃないんだもの、そんなやつのことは行政で何とかしてくれ、われわれの知ったことじゃない、という思いがどこかにある。
育児放棄したらいけない、ということは、育児放棄するのは人間じゃない、といっているのと同じだ。そういう社会的合意に、彼女は追いつめられた。
子供なんか、捨ててもいいのだ。親の愛なんかあろうとなかろうと、生きてゆけるに越したことはない
お前らのちんけな「親の愛」など、えらそうに自慢するな。「親の愛」が子供を追いつめている現実は、いくらでもある。
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彼女のまわりには、他の人が子供を引き受けてくれる現実的な環境も、人に預けてしまってもかまわないといってくれる人もなかった。それが彼女の不幸であり、彼女を追いつめた。
「どうでもいい」、と思ってしまうこと。人間がどれほど深く「どうでもいい」と思ってしまえる存在であるかということに対する認識が、現代人はじつに希薄である。人々は、人間が、「欲望」とか「使命感」とか「生きようとする本能」などというもので生きていると決めてかかっている。
しかし人間は、生きようとする衝動で生きているのではない。そんなものは、共同幻想という観念のはたらきにすぎない。生きることなんか、ただの「結果」であって、生きようとする衝動という「原因」を持っているのではない。
生きることなんか、体がちゃんとしてくれている。お前らの意識や観念の手柄ではない。
生きてあることは、われわれの運命であって、われわれの意識や観念の手柄ではない。
生きることに、価値も無価値もない。すでに体が勝手にしてしまっていることだ。
われわれの意識や観念には、生きることの価値も無価値も決める権利はない。
すべては、「どうでもいい」のだ。それでも人は、生きている。
人間の心は、どこまでも深く「どうでもいい」と思ってしまうようにできている。その事実に気づくことのできない鈍感な連中が、「命の価値」だの「家族の大切さ」などといって大騒ぎしている。
ちゃんと育児をしようとするまいと、「どうでもいい」のだ。人が「生きてある」という事実の前には、すべては、「どうでもいい」のだ。すべては「どうでもいい」のに、それでも人は、生きてあるほかない「与件=運命」を背負って生きてある。生きてあれば、生きてあるという事実を誰もが受け入れてしまう。そして、必ず死んでしまうという事実も受け入れている。生きようと死のうと、すべては「どうでもいい」のだ。人間は、深く「どうでもいい」と思ってしまう生きものなのだ。
彼女は、人間であることのそうした「与件=運命」をまるごと受け入れてしまった。
その結果が、このざまだった。
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彼女のことを「非人間的」などというな。お前らこそ、そうした「どうでもいい」という人間であることの「与件=運命」を受け入れることができなくて、あれこれ倒錯したへりくつでっち上げているだけじゃないか。
すべては、「どうでもいい」のだ。これは、僕の個人的な意見ではない。日本列島の「無常観」という歴史の水脈は、そういう認識の上に成り立っている。
たぶん今でも、日本列島の住民の意識の根底のところでは、そういう気分で生き、そういう気分で人と人の付き合いの流儀が成り立っている。
それは、観念的論理的な認識ではない。「どうでもいい」という気分なのだ。昔も今も日本列島では、どんな冷静な哲学者や宗教家でも、「無常観」のことになるると、とたんに詠嘆調美文調になってしまう。
この国には、人を「どうでもいい」という気分にさせてしまう空気が覆っている。
日本列島の歴史は、「どうでもいい」という気分を共有しながら人と人の連携が果たされてきた。日本人は付和雷同してすぐひとかたまりになってしまう、というのは、「どうでもいい」という気分をみんなが共有しているからだ。こうでなければならない、というような個人としての主張など、誰も持っていない。
われわれにとって、けっきょくのところすべては「どうでもいい」のだ。
そしてその「どうでもいい」という気分こそ、もっとも人と人をひとつにまとめてしまう共感になる。
日本列島では、子供を間引きしても、誰も責めなかった。それは、誰もが、そんなことは「どうでもいい」と思っていたからだ。
日本列島の地域住民の連携は、「どうでもいい」という気分を共有してゆくことの上に実現してきた。
「命の価値」だの「家族の大切さ」だの「個人の尊厳」などというスローガンでそれが実現すると思うのならやってみればいい。実現するはずがない。戦後社会は、そういうスローガンを強化してくることによって、地域住民の連携を失っていったのだ。それぞれがそんなスローガンに執着しながら「優越感」の張り合いっこをしてまとまらなくなっていったのだ。まあ、その意欲によって戦後の高度経済成長が果たされていったのだが。
人間は、「どうでもいい」と思うから連携しないのではない。優越感や自己愛を持ちたいから連携しないのだ。
まったく、「金持ちけんかせず」とは、よくいったものだ。「気が重くなった」とだけいっておけば、優越感は安泰だ。
しかし僕は、恥をさらしてでも、人と対立することになっても、ひとまず自分の反応は書いておく。僕には「引き出し」なんか何もなくて、こうして書きながら掘り進むことによってしか、いえることが浮かんでこない。
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子供がかわいそうだ、という気持ちくらい、僕にだってあるさ。でも、その事態を解決する方法は、彼女を救出することだったはずだ。
「餓鬼以下の餓鬼だ」、といっていた人がいる。お前なんぞに、彼女の人間としての絶望や女としての絶望はわからない。もちろん僕にだってわからないが、僕がもしその立場になってもそうはしない、といえる自信はない。お前みたいなのうてんきな「正義の味方」に何がわかる?「正義の味方」になることでしか生きてゆけない意地汚い人間に何がわかるというのか。
そのときもし彼女を助けてあげられる人間がいたとしたら、「命の価値」や「家族の大切さ」を叫ぶ「正義の味方」ではなく、そんなことは「どうでもいい」と思える人だ。
そんなやつは人間じゃない、と思っている「正義の味方」は、知らん振りをする。
そんなやつは人間じゃない、と思っている時点で、すでに彼女を抹殺している。
人間じゃない人間なんかいない。
非人間的な心など存在しない。
生きてあることなど「どうでもいい」のに、それでも人は生きてある。そういうことのやるせなさってあるじゃないですか。
そして、われわれが今、失ってしまった地域住民の連携を取り戻したいというのなら、そういう日本列島の歴史の水脈を今一度問い直してみてもよい。
「気が重くなった」といって気取っているかぎり、いつまでたっても優越感をまさぐっている人間ばかりの世の中だろう。