鬱の時代13・女は艱難辛苦に憑依する

先日起きた大阪の育児放棄(ネグレクト)事件に対して、ある女性のブロガー(ちきりんさん)が犯人を擁護するような記事を書いておられた。
若い無名の女がひとりで二人の小さな子を育ててゆくのはほとんど不可能で、離婚した男や、彼女を育てた父親のデフォルト(=債務不履行)や、行政の対応のまずさにだって責任はあるだろう、と。
それに対して、前回のエントリーで言及したブログの管理人の「その人」が、批判的な感想を述べておられた。
こんなふうに。
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この問題はしかし、「あなたとわたし」という市民の直接性の枠組みのなかで市民が罪責を問う形にしないと、経済の外で問われている部分に気がつかないし、暗黙に問われた他者として疎外された倫理の弁解の延長に、市民の直接から乖離した正義が生まれることになる。(慈愛の王を自然に生み出す。)
正義が制度を超えて顕示される怖さを知るなら、正義を制度の中にきちんと閉じ込め、その先に倫理を問うのであれば市民の直接性に依拠するしかない。つまり、「わたし」はという問いで問われなくてはならない。「ちきりんさん」という女性であるなら、産むものとして。「……(注・管理人氏の名)」という男であるなら、産ませるものとして。つまり母であり父として。(母としてというなら、おそらく大半の女性がこうしたネグレクトに内省的な共感を持っているはずで、その感受を隠しているちきりんさんは欺瞞なのだが。父としていうなら、ファルスを引き受けるということ)
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ここでいう「経済の外で問われている部分」とは、「罪責を問う」ことか。悪いけど僕は、そんなことにはあまり興味はないのだ。その事実の重みをどう受け止めるかということと、「罪責を問う」こととは、また別の問題だろう。恥ずかしながら僕には、そういう「良心」がないのですよ。
知的な階層の人の文章は、われわれ庶民には読みにくい。一読しただけは、言っていることの内容を取り違えたりする。正直いって、この人がいおうとしていることの真意が、いまいちよくわからない。
「罪責」とか「倫理」という言葉は、できることなら「制度の中にきちんと閉じ込め」ておいていただきたいのですよ。制度の外に、「人はいかに生きるべきか」という問題なんかあるものか。
とにかく「その人」としては、「ちきりん」さんは制度や他者に責任をかぶせすぎる、といいたいのだろう。何もかも世の中や他人のせいばかりにしているから、わけのわからないカルト宗教(慈愛の王)に走ってしまうのだ、ということだろうか。
だからそうならないためには、自分自身の問題として「倫理」を問うてゆくしかない。そしてそう問うなら「おそらく大半の女性がこうしたネグレクトに内省的(批判的?)な共感(共通の意識?)を持っているはず」だという。
まあ、そんなところだろう。普通の女なら、私ならそんなことはしない、というにちがいない。しかし、そんな正義など、母性というより、ただの制度性かもしれない、と僕は思う。それを告白することをあえて思いとどまった「ちきりん」さんの誠実もあると思う。もしかしたら世の奥さん方の「私なら絶対そんなことはしない」という「内省的な共感」のほうがよほど欺瞞かもしれない。
僕としては、そんなえらそうなことをいう前にそんなことをしないですんだ自分の幸運に感謝しろ、といいたい。
そんな「共感」が女の根底にある普遍的な意識だとは、僕は思っていない。
世界には、子供が泣き叫ぼうとほったらかしにしている文化だって、いくらでもある。お母さんがおっぱいをあげるのは、根源的というか生物学的には、オッパイが張ってうっとうしいからであって、そこにしゃらくさい「母性愛」などという正義などくっつけてもしょうがない、と僕は思っている。
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制度的には、善良な市民どうしのそういう母性愛の共感があるかもしれないが、一方では、そんな母性愛という制度を前提にして「ネグレクトはいけない」という「倫理」を押し付けられたらたまらない、という気分だって女たちにないとはいえないだろう。
生きものの世界には母親が子供を育てるという行為が存在するが、母親の意識の根源に「命」という概念があるかといえば、あるはずもないだろう。そんなスローガンを掲げて子供を育てているわけでもないだろう。そのとき母親は子供を育てるという「行為」をしているのであって、育てようとする意識を根源に持っているのではない。
意識の根源においては、目の前に起きていることに反応しているだけであって、「命の大切さ」とか「育てる」というようなスローガンを持っているのではない。育てるも育てないも、それぞれの生きもののそれぞれの人生の成り行きの問題であり、人間の社会では、育てようとする気になれない、という成り行きもある。われわれは、そういう成り行きが起きてくる可能性(=運命)を負って人間社会をいとなんでいるのだ。
いや、猿や猫の社会でも、育児放棄(ネグレクト)はいくらでも起きている。こんなややこしい人間社会なら、なおさらのことだろう。
子供を育てるという行為は、子供を育てようとする衝動の上に成り立っているのではない。オッパイを与える行為は、子供を育てようとする衝動によってではなく、オッパイを与えようとする衝動によって起きている。
「母として」というなら、「子供を生きさせる」というテーマなど負っていない。「子供との関係に置かれている」というだけのこと。そして人間社会では、その関係に耽溺することもあれば、その関係から追いつめられることもある。
根源的には、「倫理」などという問題はない。二人の幼い子供が死んだということ、その事実の重さは、誰の罪がどうのという問題とは関係ない。
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僕は、何が凶悪な心で何が善良な心かということがよくわからない。むごたらしい事件というのはたしかにあるが、
流れる星は生きている」という、終戦後の満州から子供三人を抱えて艱難辛苦の果てに引き上げてきた体験の自伝小説があり、それをを書いた「藤原てい」という作家と犯人の女との差に深い感慨を覚えた、というコメントがあり、管理人も同感だといっておられた。
この小説は戦後の大ベストセラーになり、三益愛子主演で映画化もされた。
極限状況の母の愛、六歳と三歳の子と、もうひとりの一番下の生後一ヶ月の子はリュックサックに詰め、飢えと、いつソ連軍に捕まるかもしれないという恐怖に震えながらひたすら歩き続けた。そうして、リュックの中のこの子がもし死んでくれたら残りの二人の子が生き延びる道が開ける、と思いつつ、一日一日「まだ生きている」と確認していた。半分は死んでくれたらいいのにと思いながら、他の子の食料を削ってでも毎日なんとか大豆の煮汁などでミルクを作ったりして飲ませながら、一年かけて朝鮮半島を縦断してやっと日本にたどり着いた。
まあ、そういう話なのだが、「その人」はかつてこ本の書評も書いており、「子供を生かそうとする厳粛で残酷な鬼気迫る母性」というような感想を述べておられた。
まあそういうことなのだろうけど、僕は戦後生まれだから、子供をほったらかしにしてホストクラブ通いすることだって、母性のうちだろうと思っている。
べつに、藤原ていがえらいとも思わない。そういう「状況」があっただけのことだし、その「状況」に感動することはあっても、大阪のあの母親との、母親としてとか人間としてとかというような「差」なんか僕は感じない。
それが、「残酷」だとも思わない。当事者のお母さんはたっぷり後悔すればいいけど、第三者からすれば、江戸時代の農民が生まれた子を間引きすること以上でも以下でもない、と思う。僕は、それをよう責めない。よう裁かない。そんなことは、人間の歴史のいとなみのひとつだろう。おそらくアマゾンの原住民も縄文人も、平気な顔をして堕胎していたし、ネアンデルタールは、産んだ子のほとんどが寒さで死んでしまう状況で産み続けていたのだ。
そうやって死んでいった歴史上の無数の子供たちに対して、われわれは、いったいどんな感想を持ち、どんな態度をとればいいのか。もう「汝のさがのつたなさを嘆け」といって合掌瞑目する以外に、どんな思いよう、どんな態度のとりようがあるのだろうか。
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死んでしまった子供はもう、誰も生き返らせることはできない。彼女を責めたって、もう生き返らない。その運命の重さというものがあるだろう。
死んでしまった子供はもう、生きさせる必要がない存在である。マンションに戻って子供が死んでいるのを確認した彼女が、そのとき思考停止に陥ったのはなんとなくわかる。彼女は、そういうかたちで運命の重さに打ちひしがれたのだ。彼女は「命の大切さ」などというわけのわからない概念に振り回されすぎていたのだ。新婚当初は子供を必死で生きさせようとしていたから、その反動も大きかった。
母として父としての「倫理」などというものは、よくわからない。僕は、親子がそんなものでつながっているとは思わない。母として引き受けるべきことも、父として引き受けるべきことも、よくわからない。
生きていれば「成りゆき」というものがある、それだけのこと。
藤原ていが決死の引き揚げ行を敢行したことだって、「成り行き」だったのだろう。
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女は熱中する生きものだからこそ、さっぱりと「どうでもいい」と思ってしまうことができる。
女は、艱難辛苦に熱中する。そうやって子を産む。10ヶ月の妊娠と出産だって、満州から引き揚げてくることの苦労以上でも以下でもないさ。
子供を生かそうとする鬼気迫る母性は大阪の彼女だって持っているし、何もかもどうでもいい、子供なんてさっさと死んでしまえという母性だって持っている。
太平の世のただののうてんきなネグレクトだとしても、それが彼女に負わされた歴史的な運命だったのだもの、何をどう裁けというのか。みんな、歴史の中で生きている。立派な人生だけが歴史の中にあるのではない。
何はともあれ人間は「艱難辛苦」が好きなのだ。「流れる星は生きている」という小説ほどの艱難辛苦の物語は歴史上なかった。だからベストセラーになった。「命の大切さ」などという正義は、制度の中に閉じ込めておいたほうがいい。そのとき藤原ていがなぜそんなにも自分を捨てて子供を守ったかといえば、自分の命なんかどうでもよかったからだ。女は、自分の命なんかどうでもよくなってしまうくらい艱難辛苦に憑依できる生きものであり、それくらい命なんかどうでもいいと思ってしまえる生きものなのだ。
妊娠した女は、そのとき艱難辛苦に憑依するのであって、命の大切さに憑依するのではない。「命の大切さ」なんて、その生々しい苦難のたんなるお題目のお飾りのようなものだ。「命の大切さ」というお題目だけで、妊娠出産という艱難辛苦を克服できるものか。子供三人抱えて満州から引き上げてくる地獄のような日々を生き抜くことができるものか。
それらは、艱難辛苦に憑依することによってはじめて可能になるのだ。
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人間は、何かのはずみで果てしなく「何もかもどうでもいい」と思ってしまう生きものだと思うし、その「どうでもいい」という認識は正当だとも思っている。それはたしかに「ネグレクト」で「デフォルト」なんだろうけど、それを裁く権利は僕にはない。
女は、男以上に子供をかわいいと思い大切にすると同時に、男以上に子供に冷淡で残酷なところもある。
僕なんか、若いころからしょうもない女ばかり好きになって、女房なんてその最たる存在だから、女の薄情さや残酷さを肯定しないと、家族生活なんかやっていけなかった。そしてそれはたぶん、僕だけではないだろうとも思っている。
たとえ世界中の女が「そうしたネグレクトに内省的な」意識を共有していることを表明しても、僕は信じない。「おそれいります」とひれ伏しつつも、そんなもの、お前らの欺瞞さ、とどこかで思っている。
女は子供の命を生かそうとする本能的な情熱を持っている、などという陳腐で善良な人間観なんか、僕は信用しない。そんなものは、今どきの「勝ち組」の女たちの制度的な幻想にすぎない。戦後の核家族の制度によって捏造された共同幻想なのだ。
育児放棄した彼女は、一度はその幻想に耽溺し、最終的にその制度的な幻想に追いつめられて何もかもがどうでもいいという気分になっていった。
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彼女だって、最初の子が生まれた前後のころは、ひといちばい「子供を生かす」ことに熱心だった。だからこそ、離婚してその暮らしに挫折したあとの反動も大きかった。
ともあれ彼女は、離婚した後も、自分だけで子供二人を育てていこうと突っ張った。
「子供の命を生かそう」とする意欲に関しては、並みの母親以上に強かったのだ。
ただそれは、女としての根源的な衝動ではなく、制度的な幻想に過ぎなかった。結婚して子を産んだ「勝ち組」の女たちは、そういう「母の愛」という幻想を共有している。
彼女の「母の愛」は、「夫婦+子供」という核家族の上に立ってはじめて成り立つものだった。離婚してそれを思い知らされた。
彼女は、みずからの中の「母の愛」を失った。とうぜんである。そんなものは、家族という制度から生まれてくるものだからだ。
母であることをやめて、女であろうとした。彼女の家族に対する意識は、屈折している。幼いときに両親が離婚して崩壊した家庭で育ったから、家族に対する愛も憎悪もひといちばい強い。そして母親は子供捨てて出ていったから、母親のいないさびしさもよく知っている。だから、離婚したときは、無理して自分が子供二人を引き取った。
しかし、離婚することは女に戻ることだ、という意識もとうぜんやどっている。
離婚した母親に、女に戻ろうとすることは、誰も責められない。
いかに道徳的に許されないことであれ、彼女は、決然として戻っていったのだ。彼女がフーゾク嬢なったということは、そういうことだった。
道徳的なことをいうなら、別れた夫にも、夫婦双方の親たちにも責任はある。みんなして幼い二人の子を見殺しにしたのだ。
そのとき彼女は、夫や両方の親たちの身勝手を恨んだだろうか。いや、すべてはもう、どうでもよかった。
恨んでいたら、あなたたちも少しは責任を分担してくださいよ、という態度をとる。しかし、すべてはどうでもいい、と思い定めてフーゾクの世界に飛び込んでいった。
また、自分は子供と一緒に暮らしているという負担を負っているのだから子供の面倒までは見なくてもいい、という妙な理屈が生まれてくる。
頭の中が、だんだん真っ白になってゆく。一種の鬱状態だろうか。何もかもどうでもいい……という気分。
そして、彼女はフーゾク嬢の仕事がとても苦痛だった、という。それは、一度なりとも家族の幸せとやらに耽溺してしまったからだろう。たぶん彼女は、苦痛にならなくてもすむように自分をコントロールしていこうとする意志がなかった。苦痛でありたかった。苦痛であることによって、女に戻ることも育児放棄することも許されていった。
彼女は、苦痛を抱え込むことによって、すべてのことはどうでもいい、という気分になっていった。
女は、艱難辛苦に憑依する。そうして「命なんかどうでもいい」と思ってゆく。
子供の命を守るのが女の本能だなんて、僕は信じない。ある意味で、女のほうが男よりずっと命に冷淡なのだ。現実的というか。
当たり前の女なら育児放棄(ネグレクト)しないとか、そんなことが人間としての倫理だとか、それが人間の歴史だとか、僕は思わない。それもあり、の歴史をわれわれは生きてきたのであり、たぶんこれからもそんなところだろう。