鬱の時代14・育児放棄と育児を可能たらしめているもの

もう一回だけ、大阪の育児放棄(ネグレクト)事件のことを書いておきます。
「その人」は、「市民の直接性」という。
育児放棄(ネグレクト)という問題は、制度の外に立った「市民の直接性」においてその「罪責」や「倫理」が問われなければならない、と。
とすれば、ここでいう「市民の直接性」とは、「生活感情」というようなことだろうか。
しかしねえ、「制度の外」に「罪責」や「倫理」などというものが成り立つのだろうか。それ自体、制度を成り立たせているものではないのか。
からしたら、「制度の外の罪責や倫理」なんて、言語矛盾としか思えない。
制度の外に、罪責も倫理もあるものか。
この人は「女は育児に対する本能的な衝動をもっており、母としてそれにしたがうことが<市民の直接性>のあり方である」というようなことをいわれる。
冗談じゃない、その衝動そのものが「制度の内」の幻想なのだ。この世に育児放棄する女がいるということは、それが女としての属性ではないことを意味する。そんなものは、育児に耽溺している「勝ち組」の女たちを正当化するための、ただの制度的なお題目にすぎない。笑わせてくれる。何が「母として」だ。彼女は、「母として」、この社会の母という言葉の強迫に耐えかねて育児放棄したのだ。そのことの重さとやりきれなさを、あなたたちも人間なら、少しは考えてやれ。
そしてこの人は、「市民の直接性」は「私は」という問いで語られなければならない、という。つまり、自分は正しい市民でありえているか、正しい市民であるためにはその「罪責」や「倫理」をどのように問うていけばいいのか、という問題として語られねばならない、ということらしい。
どうでもいいけど、僕には、自分は正しい市民でありえているか、とか、正しい市民であるためにはどうすればいいか、というような問題は存在はしない。この人たちみたいに、「自分は?」という問いなんかもっていない。自分なんかどうせ正しい市民にはなれない人間だ、という前提でものを考えている。そんな暑苦しい問いなんか、まさぐっていたくない。
正しい市民だからえらいとも思わないし、この社会は正しい社会であらねばならないとも思っていない。
何が正しいかどうかなんて、どうでもいいことだ。とにかく僕は、そのとき、あのネグレクトした大阪の女と新聞紙面で出会い、おおいに心を動かされた。いったい彼女は何ものなのか、人間はどうしてそんなことができるのか……そんなようなことを考えてみたかっただけだ。そこに彼女と死んでいった子供がいたという、その事実について考えてみようとしただけだ。
自分が正しい市民であるための思索とか、この社会がよい社会であるための論理とか、そんなことはどうでもいいことだ。僕はあほでだらしない人間だから、そんなことに興味などない。
まあね、お前らはそうやっていつも「私は」という問いに執着しているから、問いそのもののレベルがそのていどなのだ、という思いもないわけではありませんよ。
「その人」のことを明かしておきます。「finalvent」というIDネームの人です。ネット界ではカリスマ的な人気があるらしい。 
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生きものの生は、生きようとする衝動の上に成り立っているのではない、身体が生きる「システム」を持っているだけだ。われわれは、「生きようとする」のではない、「すでに生きている」だけだ。
意識を持たない植物状態の患者だって、身体の「システム」だけでちゃんと生きているではないか。そのようなことだ。
したがって、母は子を生きさせようとする本能的な衝動をそなえている、などといってもらっては困るのだ。育児だって、この生の「システム」であって、育児をしようとする根源的な衝動などはない。
つまり、人間社会の育児が「育児をしようとする衝動」の上に成り立っているということは、生きものとしての「育児のシステム」をすでに喪失していることを意味する。
「育児をしようとする衝動」は共同体の制度である。したがってそこから逸脱したものや落伍したものは、「育児をしようとする衝動」をそのとたん喪失することが多い。
「育児をしようとする衝動(意欲)」を持たないものを共同体の制度として裁くのはけっこうである。しかしそれを、人間の根源的普遍的な衝動であるかのように語られるのは、筋違いというものだ。
共同体の制度ではなく、「市民の直接性」すなわち「生活実感」として「育児の衝動の欠如(ネグレクト)」を裁くのはアンフェアである。
共同体の制度から脱落した者は、「生活実感」として「育児の衝動」が持てない。それは、共同体の制度から脱落した鬱病患者が「命の大切さ」を実感できないのと同じことだ。
「育児の衝動」も「命の大切さ」も、勝ち組みの人間の人生を正当化するための制度的なお題目であって、人間性の真実とはまた別のものだ。
人は、制度の外に立った生活実感においては、「育児の衝動」を持っていない。
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彼女が育児放棄したということは、人間の根源に「育児をしようとする本能的な衝動」などはたらいていないことの証しなのだ。そういう人間を人間の範疇から除外して人間の本性を納得してゆこうなんて、フェアではない。そんな思考態度は、意地汚い俗物根性以外の何ものでもない。
彼女は、人間であることから脱落したのではない。「制度の犬」としての善良な市民の位置から脱落しただけのこと。
そうして、人間であることの根源に浸されてしまったのだ。
彼女は、われわれの時代のいけにの羊である、ともいえる。
彼女が新婚当初ひたむきに子育てしていたということは、そのとき彼女は「制度の犬」になりきっていたことを意味する。
制度の犬にならなければ子育てなんかやっていられない社会なのだ。
僕は、制度の犬であることを責めようとは思わないし、そんな資格もない。ひとまずそれは、制度の中の正義なのだ。
しかし、それこそが人間の本姓であるかのような自慢たらしい言い方をされると、大いにむかつく。
子育てなんかめんどくさくてやってられるか、というのが、人間の本性なのだ。したがってこの感情が責められるいわれはないし、たぶん誰もがこの感情と戦いながら子育てをしている。戦うために「制度の犬」になり、「女は本能的に子育ての衝動をそなえている」というお題目にすがりつく。
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人間性の根源は、育児放棄した彼女の方にあるのだ。
そのとき彼女は、「復讐するは我にあり」という気分だった。
彼女がフーゾク嬢の仕事をひといちばい苦痛に感じていたのは、いったんは制度の犬になることの恍惚を体験してしまったものとして苦痛でありたかったのであり、苦痛であることが免罪符だった。
そうして、子供の存在も苦痛になっていった。彼女は、苦痛に憑依していった。苦痛こそが、彼女が生きてあることの免罪符だった。そうして、ホストとセックスをして、かつてないほどのオルガスムスを体験した。オルガスムスも、苦痛という快楽なのだ。
彼女は、ホストを愛したのではない、苦痛というオルガスムスを愛したのだ。
苦痛に憑依してしまったものは、すべてのことがどうでもよくなってしまう。「死にたい」という思いが彼女を生かしていた。そういうダブルバインドの中で、すっかり育児放棄してしまった。
そのダブルバインドこそが、オルガスムスをいっそう深いものにする。
ここのところの絶望的な心の動きを思うなら、それを体験したことがないわれわれ善良な市民に、それを裁く権利も能力もない。
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けっきょく人は、何によって育児をしているのだろう。育児を可能なものにしているほんとうのものとはなんだろう。
妙な使命感に燃えてがんばっている人ほど、挫折しやすい。大阪の彼女だって、その一人だった。それは、看護や養護学校の先生の世界だって同じだろうし、マタニティブルーや育児放棄は経済活動ではないだけにいっそう顕著に現れるのかもしれない。
育児は、母性愛というお題目だけでやっていられるほどかんたんなものじゃない。そんなお題目が、育児を可能にしているのではない。
その艱難辛苦の苦痛からカタルシスを汲み上げてゆくことによって、はじめて可能になる。
しかし彼女はもう、そこからはカタルシスを汲み上げてゆくことができなくなっていた。彼女はすでに、母ではなく、女だった。母であることを捨てて、女になることを余儀なくされていた。
彼女がそのとき育児放棄したということは、使命感だけでは育児はできないということを意味する。使命感だけで育児をしようとして挫折したのだ。
彼女の使命感は、子供に対する他愛ないときめきを失っていった。使命感を持っていると、他愛ないときめきを失ってしまう。
使命感とは、自分のアイデンティティを確立しようとする意識である。そうやって意識が自分にばかり向いてしまったら、他者はもう、自分のアイデンティティを確立するための道具でしかない。道具として監視し検閲しているだけだ。そうして、道具にならない、と絶望し、挫折してゆく。
自分を問わずにいられない者たちの育児には、「母として」「父として」の「使命感」が必要だろう。
「勝ち組」の人間には、そうやって自分をまさぐって生きていこうとする習性が骨の髄まで染み付いている。
まあ、好きにやってくれ。
しかし、それが、育児を可能たらしめている根源であるのではない。
「使命感」など、どうでもいい。
親と子が他愛なくときめき合っていられる状況は、どのように生まれてくるのだろう。今ここの時点で、それをいえることばは僕にはない。
「育てる」のではなく、「一緒に生きてゆく」ということ。われわれが「制度の外」で問いたいのは、そのことだ。「母として」とか「父として」とか、そんなことはどうでもよい。育児を可能たらしめている「生きものとしてのシステム」は、そんな「未来」を目指す「使命感」にあるのではない。「今ここ」に対するときめきなのだ。
とりあえず今のところ僕は、ここまでしかいえない。