鬱の時代15・さらにもう一度「育児放棄(ネグレクト)」のこと
どうもさっぱりしないから、もう一度育児放棄にまつわることを書いておきます。
・・・・・・・・・・・・・・
ケネディの有名な大統領就任演説の一節。
「親愛なるアメリカ市民諸君。諸君はアメリカが諸君のために何をなしうるかを問いたもうな。諸君がアメリカのために何をなしうるかを問いたまえ」
この一節は、アメリカ人の自己意識を深いところで揺さぶったのだとか。
自分はアメリカのために何をなしうるか、と彼らは問うた。
そしてこれは、戦後の日本人の心も、大いに揺さぶった。
そのとき日本人もまた、自分は日本のために何をなしうるか、と問うていた。
その自意識は、敗戦の反省によってもたらされた。
われわれは、国がわれわれのために何をしてくれるか、ということばかり考えていた。だから、徴兵を拒否できなかった。戦争を拒否できなかった。それは、自分たちが国のために何をなしをなしうるか。という問いを持っていなかったからだ。
自分たちにそうした主体性があったら戦争に反対できた、徴兵を拒否できた……と考えた。
われわれはそうした「主体性=自己意識」がなさ過ぎた、と反省した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
あなたたちは、悪い戦争は反対して、よい戦争は賛成するというのか。その戦争のよいか悪いかを判断できる能力と権利があなたたちにはあるというのか。
日本人にとって太平洋戦争は、悪い戦争だったのか。そんな反省をしていいのか。そんなことを自分で決めていいのか。そんな正義など、われわれの趣味じゃない。
飯を食うという行為を決定しているのは、腹が減ったという状況であって、それがよいか悪いかという倫理でもなければ、生き延びようとする衝動があったからでもない。そんなようなことだ。
この生の根源において、自分は何をなすべきかという問題など存在しない。そんなことは、「状況」が決定する。人間の行為を決定しているのは「意志」ではなく、「状況」なのだ。
「私の意志」を決定しているのは、「私」ではなく、「状況」なのだ。
われわれの行為は、状況によってすでに決定されている。したがって「何をなすべきか」という「私の意志」など存在しない。そうするほかないこと、どうしようもなくそうしてしまうことがあるだけだ。
それは、すでに「状況」によって決定されている。
この国が戦争をしたのも、彼女が育児放棄したのも、われわれが飯を食うのも、つまるところ、そうするほかない「状況」の中に置かれていたからだ。それは、避けることのできない「運命」だったのだ。
過去の過ちを悔い改めて……などといっても、そうしようとする「意志」以前に、そうしてしまうほかない「状況」があったからだ。そう考えるなら、過去の戦争や育児放棄の「倫理」や「罪責」を問うという問題などもはや成り立たない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私は何をなすべきか、という問題など存在しない。
人それぞれの「状況」がある。その「状況」が、それぞれの行為を決定する。
たとえば、近隣に育児放棄や幼児虐待があったとき、行政機関に通報した人としなかった人がいる。通報するべき場合とするべきではない場合がある。集団の善意による強制が個人を助けることもあれば、追いつめてしまうこともある。倫理的に何が正しい行為かどうかなどわからない。何をなすべきかという問題など存在しない、存在させるべきではない。何もしない、ということが許されないとはかぎらない。「知らんぷりするしかなかった」という「状況」も、人それぞれの事情としてある。
けっきょく、「そうするしかなかった」という行為があるだけだ。そういう「状況」は、それぞれが運命として負わされるものであり、「何をなすべきか」という問題などない。
われわれが状況をつくるのではない、状況がわれわれをつくる。
「何をなすべきか」と問うことが普遍的な正義のつもりの人がたくさんいるらしいが、そういうつもりの人がたくさんいるという「状況」がある、というだけのこと。
どうして、「何をなすべきか」と問うことが正義のつもりになってしまうのだろう。
もっとも献身的なサポートは「せずにいられない」思いのもとにあるのであって、「何をなすべきか」問う「使命感」のもとにあるのではない。
そういう意味で、「何をなすべきか」という問いなど、どうでもいいのだ。そういうどうでもいいことを振りかざす社会だから、「何もする気になれない」人を生み出してしまうのだ。
人間社会は、「何をなすべきか」という問いで盛り上がるのではない、「せずにいられない」ことで盛り上がるのだ。
人間は、「せずにいられない」ことを思いとどまることはなかなかできないし、「せずにいられない」ことによってしか盛り上がれない。
だから僕は、彼女が育児放棄せずにいられなくなったことを裁くことはできない。
「なすべきこと」ばかりで「せずにいられないこと」を持っていない人間にはわかるまいが。
「なすべきこと」を放棄しないかぎり、「せずにいられないこと」を持つことはできない。