1・関係性の真実
ひとまず、現在の若者の多くは社会的な弱者であるといえるのかもしれない。
とすれば大人たちは彼らに対する強者ということになる。しかしそんな大人たちが強者として彼らを教化し訓育しようとしても、あまり有効には機能していない。
なぜなら若者たちは、大人たちに幻滅してしまっている。強者=勝者として生きようとすることそれ自体に幻滅してしまっている。
現在の大人たちの関係性は病んでしまっており、若者たちはすでにそれに気づいている。
大人たちは、若者の弱さや愚かさを指摘し、それじゃあだめだというが、だめなのは大人たちの方なのだ。何はともあれ人間としてちっとも魅力的じゃないから、若者たちの心を振り向かせることができない。
お手本になっていない、というのか。なっていなくてもいいのだが、なっているつもりでわれわれ大人たちを手本にせよ、と迫る態度がうざったいのだ。
大人たちの生き方のスローガンが「競争に勝つこと」だとすれば、現在の若者たちは、敗者=弱者であることそれ自体を生きようとしている。そこから、人と人の関係性の真実を見出そうとしている。
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   2・「生きられるかどうか」という問い
現在の大人たちと若者たちのどこが違うかといえば、大人たちが「いかに生きるべきか」という技術の問題を問うているとすれば、若者たちは、「生きられるかどうか」という根源の問題に向かっている。それほどに彼らはイノセントであると同時に、時代から追いつめられてもいる。
自殺者が年間3万人以上のこんな時代に置かれてあれば、もうそこを問うしかないではないか。
そしてどんな平和で豊かな時代であれ、人間であるかぎりわれわれは、心の底につねにそういう根源的でせっぱつまった問題を抱えて生きているのだ。
若者たちはもう、高度経済成長期の人々のように「いかに生きるべきか」という技術論・方法論だけでは生きてゆけないことに気づいてしまった。
そりゃあ、いまどきの大人たちのように、何かを獲得したいとか、いかに生きるべきかという利害目的が共有できれば、とりあえず関係は成り立つのだろう。しかしそんな関係であっても、人と人は、どこかしらで「癒される」という体験を共有している。それが問題だ。
「いかに生きるべきか」とあくせく生きているものどうしの関係にだって、友情も愛情もあるだろう。
人は、「癒される」という体験がなければ関係は結べないし、「癒される」という体験が人を生かしている。
ただのビジネスライクな割り切った関係だって、人と人は微笑み合おうとするし、逆に、親や上司に怖い顔で叱られたらひどく傷つきもする。なぜ傷つくかといえば、人は「癒される」という体験がなければ生きられない存在だからだ。また「癒される」体験を必要としている存在だから、その欠落や喪失にいらだち「怒る」という行為も起きてくる。
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   3・「癒される」という体験を喪失している時代
「癒される」とは、「関係が完結する」ということ。人間的な関係は、正面から向き合うことによって完結する。
横並びの関係で、競争しても、なかよしこよしをしても、関係は完結しない。
人と人の関係は、正面から向き合い、たがいの「嘆き」をさらし合うことによって完結する。
原初の人類が二本の足で立ち上がることは、不安定な姿勢のまま胸・腹・性器等の急所をさらし合うことだった。つまり「嘆き」をさらし合うこと、これが、人と人の関係の根源的なかたちなのだ。
正面から向き合うことは、「嘆き=弱み」をさらし合うことである。だから人はその関係を回避しようともするし、その関係になって「癒される」という体験もする。
横並びの競争やなかよしこよしのヒューマニズム止揚する現代社会においては、人と人が正面から向き合う関係が希薄になっている。
戦後のこの国は、この横並びの関係によって高度経済成長を果たしてきたが、同時に「癒される」という体験を喪失してしまった。高度成長しているときはそれでもいいが、その勢いが止まれば、「癒される」体験を喪失していることの病理が露出してくる。
つまり、「いかに生きるべきか」という問いだけで突っ走ってきて、「生きられるかどうか」というせっぱつまった問いを捨ててきた。立ち止まってそういうことを問う文化を失ったから、年間の自殺者が3万人以上という事態になっているのかもしれない。
これは、戦争か平和か、という問題ではないのだ。平和な世の中だから自殺者が増えているのではない。「生きられるかどうか」と問う文化を喪失しているからだ。
「生きられるかどうか」と問う文化は、「嘆き=弱み」をさらして向き合う関係から生まれてくる。べつに戦争で死にそうな体験をすることによってはじめて出会う問いであるのではない。人間は、存在そのものにおいて、すでにそういう問いの上に立たされているのだ。
「癒される」という体験は、「生きられるかどうか」という問いの上で起きている。戦争なんかしなくても、人間はすでにそういう問いの上に立たされて存在している。
人と人が「嘆き=弱み」をさらして正面から向き合うことは、「生きられるかどうか」という問題にさらされることであり、そこから「癒される」という体験が生まれてくる。
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   4・追いつめられる
バブル以後、若者たちによって見出されていったのは「嘆き=弱み」をさらし合う文化であり、そこから「癒し」とか「萌え」という言葉が生まれてきた。
それはたぶん、自殺者が年間3万人以上という時代の空気からのプレッシャーでもあるのだろう。
こんな平和な時代であっても、この国では「生きられるかどうか」というせっぱつまった問題と向き合わされている。そうしてそこから「ジャパンクール」といわれるこの国特有の若者文化が生まれてきた。
それは、ひとつの奇跡かもしれない。世界中の先進国は、「いかに生きるべきか」という問題が時代の空気になっている。資本主義が高度化しグローバル化すれば、とうぜん世界中が横並びでそういう方向に向かって走ってゆく。
なのにこの国の若者たちだけが、横並びの競争を無化した「かわいい」や「癒し」や「萌え」の文化を生み出している。それほどにこの国の若者たちはせっぱつまっているし、先端的でもある。
彼らの「かわいい」というときめきや萌えや癒しは、基本的にキッチュで、何が高級で上品上等かという物差しを無化している。つまり、「何が高価か」と問うていない。
これは、非資本主義的だ。それも資本主義のうちだ、という理屈もあろうかと思うが、とにかくそれは「弱者=敗者」が「生きられるかどうか」と問うたところ生まれてくる文化なのだ。そこに、決定的な新しさがある。
ポストモダンとは、「生きられるかどうか」と問うことなのだ。
この国の若者たちは、それほどに追いつめられている。そこのところを問わなければ「かわいい」の文化の真実には届かない。お気楽でのうてんきなのではない。大人たちがどんなに悲憤慷慨してみせても、お気楽でのうてんきなのは大人たちの方だろう。
いつだって新しい時代の文化は、もっとも追いつめられているものたちによって生まれてくる。
人類が直立二足歩行をはじめたことも、ネアンデルタールが火の使用や埋葬をはじめたことも、それほどに生きてあることから追いつめられていたからだ。
この国の若者の「幸せ度」なんか問うてもナンセンスだ。彼らはたしかに時代からも大人たちからも追いつめられているし、追いつめられているから新しい文化を生み出す感受性を獲得したのだ。
言いかえれば、大人たちは、追いつめられていないからだめなのだ。追いつめられているくせに、そのことに見て見ぬふりしながら強者=勝者然として「いかに生きるべきか」と問うてばかりいるからだめなのだ。彼らは、「弱者=敗者」の視線を持っていないからだめなのだ。
清らかぶって、弱者を救うとか、人間の幸せがどうとか、断定的な批判はよくないとか、そんなことばかりいっているおまえらの人格のどこが高潔だというのか。笑わせてくれるよ。その清らかぶるという態度が下品なんだよ。そうやって「いかに生きるべきか」と自分をまさぐってばかりいるということは、人と正面から向き合う感受性をすでに喪失している、ということだ。
そうやって横並びになり、おたがいの幸せを確認し合う、てか。けっこうなナルシズムだこと。人との関係を持っていればナルシズムを免れているとはいえない。ナルシズムをまさぐるためにこそ人との関係が必要なのだ。
幸せなんか、どうでもいいんだよ。現在の若者たちは、せっぱつまって「生きられるかどうか」と問うているのだ。幸せかどうかと問うているのではない。
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   5・「あはれ」と「はかなし」の文化
現在のこの国の若者たちの新しさは、「弱者=敗者」の視線を持っていることにある。
この高度資本主義社会でそうした視線を持つことは決定的に不利なことであり、ほとんど不可能のはずだが、それでも彼らは持ってしまった。
なぜか?
日本列島の伝統として、もともとそういう文化風土があるからだろう。
基本的のこの国は、「弱者=敗者」の文化である。じつはそういう伝統が、縄文時代以来現在まで続いていたことがここに来て露出してきたのかもしれない。
生きてあるこの世界を「あはれ」とも「はかなし」とも見るのは、「弱者=敗者」の視線にちがいない。それは、資本主義的な価値観=存在感を消去している視線である。「かわいい」とときめき、萌えや癒しを感じる体験は、そういうところから生まれてくる。と同時に、そういう文化を体に持っているから、かんたんに自殺してしまうということも起きてくる。そういう文化を持っている民族なのに、資本主義的な価値観=存在感に覆われた社会をつくってしまっているから、この生やこの世界を「あはれ」とも「はかなし」とも見た瞬間から生きられなくなってしまう。その視線を他者と共有できないのなら生きられなくなってしまうし、共有できるのなら、生きてあることの深いカタルシス=癒しが得られる。
もともとそういう文化風土を持った民族が、戦後、資本主義的な価値観=存在感を求めて一心に突っ走ってきた。その反動が、バブル以後のこの「失われた二〇年」に露出してきたのではないだろうか。
そして、そういう文化風土の民族が資本主義的な価値観=存在感に染まってもちっとも魅力的ではなく、若者はもうそんな大人たちのあとを追いかけることができなくなってしまった。
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   6・弱みをさらすということ
バブルの時代は、史上もっとも大人と若者が一体化している時代であった。仕事においても遊びにおいても、両者は結束して繁栄を謳歌していた。アフターファイブには、上司と部下がつるんで夜の盛り場に繰り出していた時代だった。
しかしそれは最後のあだ花だったのであり、われわれはそれによってみずからの存在根拠としての「伝統」を大きく喪失し、その反動として、この生を「あはれ」とも「はかなし」とも嘆く現在の若者たちが登場してきた。
われわれは、不景気になってもアメリカ人のようにまだ横並びの資本主義的な価値観=存在感で突っ張ることのできるような民族ではないのだ。
今や、この「あはれ」や「はかなし」の文化風土に追いつめられて、年間3万人以上の自殺者を生み出したり、さまざまな現代病や社会矛盾を引き起こしている。
「嘆き=弱み」をさらして向き合うことのできない社会であれば、もう自殺するかドロップアウトするしかないではないか。
しかしそういう世の中だから、「ジャパンクール」という、資本主義的な横並びの競争を無化したまったく新しい文化的なムーブメントも生まれてきた。
われわれはもう「いかに生きるべきか」と問うている余裕などなく、「生きられるかどうか」と問うほかないところに追いつめられているのだ。
若者の「幸せ度」なんか問うてもナンセンスだ。のんきに幸せに浸っているのなら、その文化的な営為に新しい展開などない。人類の新しい文化は、「弱み」をさらし合ってこの生を深く嘆いているものたちのところから生まれてくるのであり、われわれ人間は、根源的にそういうせっぱつまった問いの中で生きている存在なのだ。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
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