1・生きてあることの後ろめたさ
承前
この国の現在は、追いつめられて自殺してしまう人の数の割合がとても多いのだとか。
追いつめるものと追いつめられるもの、という構図がある。
人間社会であるかぎりそれはもうしょうがないことかもしれないが、しかしいったい誰が追いつめているのか?
内田樹先生などは、この問題を、もっともらしい社会分析をしてみせながら、けっきょくのところ自殺するのは浅はかで思慮が足りないからだという前提で語っておられる。こういう言い方をされると、ほんとにむかつく。そういう言い方をするおまえらがのさばっている世の中だから、追いつめられて死を選んでしまう人が後を絶たないんだぞ。おまえらのその愚鈍でグロテスクな生き方と思考が、「負け組」といわれる人々を追いつめ、そういう現状を引き起こしているんだぞ。アホな脳みそしか持っていないくせに、何をえらそうにほざいていやがる。
結論を先にいってしまえば、まあそういうことだ。
「勝ち組」として、たくさんお金があってぬくぬくと安楽に生きているものたちのところに正義も幸せも生きがいもあると合意されている世の中なら、「負け組」はもう、生きていられないとも生きていたくないとも思ってしまう。
弱いものを助けることが正義であるのなら、「弱いもの」とは正義から置き去りにされたものだということになる。
弱いものを助けることが正義であるのなら、最低賃金で働かせても、それ自体弱いものを助けていることになるのだから正義だ。安い賃金で働かせているほど、弱いものを助けてやっているという実感が得られる。安い賃金でも働くような人間でなければ「弱いもの」とはいえない。
そうして、金だけが幸せじゃない、という道徳で縛るのがやつらの常套手段なのだが、金を持っている人間にそれをいう資格はない。この恥知らずめ。それをいう資格がないという後ろめたさを持っていないことの、なんと厚かましいことか。
不景気だから最低賃金で働かせるのではなく、最低賃金で働かせても後ろめたくないからだ。彼らは、自分を免責し正当化する習性がしみついている。
正規雇用はやめるべきだ、と叫んで、彼らの後ろめたさを当てにしても無駄なことだ。
彼らには、「負け組」のものたちが持っているような、生きてあることに対する後ろめたさがない。そのように、日本人が二極化し、階層化しはじめている。
生きてあることの嘆きや後ろめたさが共有できないのなら、この社会の結束なんかつくれるはずがない。われわれは、そうやって結束してゆく歴史を歩んできた民族なのだ。
人間とはもともと生きてあることを嘆いている存在であり、その嘆きから生きてあることのカタルシス=快楽が汲み上げられるのだ。つまり、脳のはたらきはまず「トラブル」として起こり、それを消去してゆくことにある、ということだ。
生きてあることを嘆くことによって人はより深く生きるのであり、そこでこそ生ききてあることを味わいつくしているのだ。
生きてあることを嘆くことによってこそ人は生きられるのだ。なのに、生きてあることを嘆く人が生きられない社会になってしまっている。そこのところがおかしいのだ。
生きてあることの嘆きを止揚する文化を持った民族なのに、その嘆きを否定し、嘆いている人が生きられない社会をつくってしまっている。
この生は、「わけがわからない」と思い惑うところからはじまる。「もう生きられない」とせっぱつまったところから、豊かに心が動いてゆく。
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   2・せっぱつまっている
原発反対でヒステリックに大騒ぎすることにせよ、近ごろのこの国では団塊世代をはじめとする困ったおじさんたちの傍若無人な態度や犯罪が増えていることにせよ、それほどに人々の心がせっぱつまってきている時代なのだろう。
今や、世界中の人間の心がせっぱつまってきている。
まあ人類は、直立二足歩行をはじめたときから、すでにせっぱつまっていたともいえる。せっぱつまって生きるのが人間存在の普遍的なかたちであるのかもしれない。
「生きられるかどうか」とせっぱつまっているものたちにとって、自分を免責し正当化する大人たちや勝ち組のものたちの「いかに生きるべきか」という問いなど、ただの空々しいものでしかない。生きることの意味や尊厳なんかどうでもいいのだ。せっぱつまった「生きられるかどうか」という問いが露出してきた時代である。誰もがその胸のどこかしらにそういう問いを抱えて生きている。それが、年間の自殺者が3万人以上になっている、ということの意味するところである。
この生の意味や尊厳を止揚してゆくことによって人は生きられるだなんて、根源的に間違っている。「生きられるかどうか」という問いの答えは、そんなところにあるのではない。
それは、「もう生きられない」ということのくるおしさを生きることにある。そのくるおしさから世界や他者に対するときめきが生まれ、この生を味わいつくしている。
つまりわれわれの社会は、この生の意味や尊厳を止揚してゆくという合意を持ったことによって、人と人の関係をおかしなものにしてしまった。
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   3・「あはれ」と「はかなし」の文化
外国では、現在のこの国の自殺率の高さを評して、「死ぬことを名誉とする文化の国だからだ」などといっているらしい。切腹とか神風特攻隊のイメージがあるからだろうが、ことの本質はおそらくそういうことではない。
いまどき、死ぬことが名誉だと思って自殺している人などほとんどいないだろう。「もう生きられない」とか「生きていたくない」と追いつめられているからにちがいない。そういう思いを携えて生きる民族が、そういう思いを否定してしまっている社会の構造から追いつめられてしまうのだろう。
名誉だというのなら、たとえば「うちの愚妻が」といったり「つまらないものですが」といって贈り物を差し出したりするように、自分を免責し正当化しないことをある意味で名誉のようにして歴史を歩んできた民族なのに、いつのまにか自分を免責し正当化する人間がわがもの顔でのさばる社会をつくってしまったことに問題がある。
自分を免責し正当化することなく「弱いもの」として生きるということができない社会になってしまった。そうやって「弱いものどうしがおたがいさまで助け合って生きる」という伝統的な社会構造を失いつつある。そういう文化は残っているのに、そういう社会構造ではなくなってしまっている。そこに問題がある。
そういう美意識の伝統が残っているのに、そういう美意識が否定される社会になってしまった。
とにかくわれわれは、かんたんに「もう生きられない」とか「生きていたくない」と思ってしまう民族なのだ。それほどやわな民族であると同時に、そこのところで生きられるほどしたたかな民族でもある。そうやってこの国の伝統(美意識)がつくられてきた。
つまりわれわれは、つねに「生きられるかどうか」というせっぱつまった問いを携えて生きているのであり、そういう問いの中からこの国の文化が生まれ育ってきた。
西洋のような「いかに生きるべきか」という文化ではないのである。
いや西洋だって、ネアンデルタール人の社会では、氷河期の北ヨーロッパというその厳しい環境のもとで「生きられるかどうか」とけんめいに問いながら、そういう問いを持たずにいられない弱いものどうしがおたがいさまで助け合う社会を形成していた。これは、直立二足歩行の起源以来の、人類社会の普遍的な伝統である。
にもかかわらず現在のこの国においては、勝ち組や大人たちは「いかに生きるべきか」と問い、負け組や若者たちは「生きられるかどうか」と問う、というかたちで二極化階層化してきている。そうしてこの社会をつくっているのは当然勝ち組や大人たちなのだから、せっぱつまって「生きられるかどうか」と問うているものたちはどんどん追いつめられてゆかねばならない。
この国においては、勝ち組や大人にならなければ自分を免責し正当化してゆくことはできない。そして自分を免責し正当化しないと生きられない状況になってしまっている。
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   4・伝統が身体化していないものたち
内田樹先生は、勝ち組は賢明で負け組は愚かだという図式でいつも語っておられる。だから負け組や若者たちは「教育」してやらないといけないのだとか。
そうじゃないのですよ、先生。あなたは賢明だから勝ち組におさまっているのではなく、自分を免責し正当化してゆくというその意欲の猛々しさというか、そうしないと生きられない強迫観念を強く持っているからなのですよ。
あなたたちは、この国の伝統が身体化していないのですよ。付け焼刃で武道だの能の謡だのを習ったって、そんなのはただの見せかけの衣装にすぎない。
勝ち組は、自分を免責し正当化しないと生きられないのが人間だ、それが人間の真実であり正義だ、と居直る。いや負け組みだって、今や、そうやってのし上がっていこうとしたり自分を守ろうとしたりしている。負け組というか、能力のない弱いものたちまで巻き込んでそういう合意が形成されている。
しかしそれは、戦後のこの社会の構造がそうなっているというだけで、それが人間社会の普遍的な真実であるわけでも、さらにはこの国の伝統文化であるのでもない。
この国の伝統文化が身にしみていない人間が、そういう路線を突っ走ることができるし、そうやって居直ることができる。
そして「生きられるかどうか」と問うものたちは、そうやって居直りながら正義を振りかざしているものたちの群れからどんどん追いつめられてゆく。彼らはもともと自分を免責し正当化することができないものたちなのだから、ますます追いつめられてゆく。
自分を免責し正当化しないことそれ自体を生きることができないのなら、もうみずから死を選ぶしかない。この国は、自分を免責し正当化しない文化の伝統だからやっかいなのだ。
この国の自殺者が異様に多いのは、平和だからでも、死ぬことが名誉の国だからでもない。内田先生のようなアホでブサイクな人間たちがのさばり、追いつめるものと追いつめられるものという二極化の構図が出来上がってしまっているからだ。
誰だって、みずから死を選ぶのは、何かから追いつめられているからだろう。現在のこの国には、そうやって彼らを追いつめる共同幻想がうごめいている。
自殺は卑怯だとか考えが間違っているとか、そんなふうにいってすませているなんて、ただの思考停止であり愚劣だ。そんなことをいいたがるのは、死ぬことを怖がっている自分を免責し正当化しようとしているだけのへりくつでしかない。
死ぬことを怖がることが正義になっている世の中らしい。
何はともあれ、追いつめられてみずから死を選ぶのだ。だったらまず、「何が彼らを追いつめているのか」と問うのが筋だろう。生きている自分たちが死んでしまった彼らよりも利巧だなんて思うなよ。彼らから何を学ぶことができるかと問うしかない。そこからしか議論ははじまらない。
おまえらの薄っぺらな脳みそで解決がつくのなら、こんな問題は起きてこない。
ともあれ自殺が頻発するという現在のこの国の現象には、伝統文化という、この国ならではのやっかいな問題が潜んでいるのだろうと僕は思う。
そして伝統文化が潜んでいるということはつまり、誰もがそういうことをしてしまう可能性を抱えて生きているということだ。
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