1・教育することは正義か。
「教育する」ということを正義のようにいうのは、ほんとに下品でいやらしいと思う。それが人間社会の普遍的ないとなみだというわけではない。
人間社会は、共同体(国家)を持ったことによって人を支配するそういう制度性が生まれてきた、というだけのこと。
サルの社会では、いちばん強いものが「俺がリーダーだ、俺にしたがえ」と宣言し、みんなは「ああそうですか、ではそうします」と納得してゆく。これが、教育というものの基本的なかたちだ。
それに対してオオカミの社会では、誰もが、自分でリーダーを選ぶ。リーダーは、強いものどうしの権力闘争から生まれてくるのではない。自分のリーダーは自分で選ぶ。誰もが、いちばん強いものではなく、いちばん群れの結束を生み出すことのできるものを選ぶ。
オオカミは、自分のリーダーは自分で選ぶ主義だから、基本的にはそれぞれが孤立しているが、いざとなると同じリーダーを共有して群れとして行動する。そうして自分で選んだリーダーだから、徹底的にリーダーに忠誠をつくす。
サルの社会は、上から押し付けられたリーダーだから、隙あらば勝手なことをしようとするし、リーダーの座を取って代ろうともするが、オオカミはそんなことはしない。
俺がいちばん強いのだから俺のいうことを聞け、というのは、ひとつの「教育」である。
それに対してオオカミは自分で選ぶ主義だから、誰も教育しようとしない。それぞれの「他者に深く気づく」感性を尊重し合うことによって群れが成り立っている。そうやって気づき合う行為として遠吠えをする。
荒野の真っただ中にたたずんでいる一頭のオオカミが遠吠えする。すると、どこからともなくたくさんのオオカミが一頭ずつ集まってくる。
それは、自分の居場所を教えているのでもなければ、「みんな集まって来い」と伝えているのでもない。オオカミは自分のリーダーは自分で選ぶ主義だから、本能としてそういう伝達をしようとする衝動を持っているはずがなない。オオカミの群れは、それぞれの「自分で選ぶ」という態度を尊重し合うことの上に成り立っている。
それは、人間の赤ん坊の泣き声が伝染するのと同じ現象なのだ。みんなが他者の鳴き声に反応し合っている。
遠吠えの合唱をはじめる最初の一頭であるリーダーだって、みんなが集まってきている気配を感じて鳴きはじめるのであって、呼び寄せているのではない。
そして人間は、そういう「深く他者に気づく」ということをオオカミ=イヌから学んできた。
はじめに「教える」ということがあるのではない。この生は、この世界や他者に「深く気づく=反応する」ということからはじまる。
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   2・他者に深く気づくということ
人間社会だって、根源的には、ひとりひとりの「他者に深く気づく」という心の動きの上に成り立っている。
人は学ぶ。学ぶとは、この世界や他者に「深く気づく」ということだ。教えることによって、学ぶことを喪失する。教えることは学ぶことを阻害し、伝達することは気づくことを阻害する。
教えることや伝達することが正義の世の中では、「他者に深く気づく」という能力が衰退し、人と人の関係が壊れてゆく。
いいかえれば、「他者に深く気づく」という能力を喪失したものが、教えたがり、自分をプレゼンテーションしたがるのだ。
人類は、教育=支配という制度を獲得したことによって、「他者に深く気づく」能力を喪失していった。社会を運営するにはそれが便利かもしれないが、人と人の関係の根源が「教育=支配」ということにあるわけではない。
「世間」という言葉がある。世間のいとなみは「教育=支配」という関係とは別のいとなみである。家族や恋人や友人や隣近所の付き合いはもとより、街中での見知らぬ人との関係だって、人間の「他者に深く気づく」という能力の上に成り立っている。それがなければ、渡る世間はぎすぎすしたものになってしまう。共同体(国家)の制度と違って「世間」は、「教育=支配」の関係の上に成り立っているのではない。
人間社会が見知らぬ人とも挨拶を交わす習性を持っているのは、「他者に深く気づく」能力によるのだ。コンビニの店員が「ありがとうございました」といい、両手でお釣りを渡すのも、 「他者に深く気づく」という心の動きから生まれてきたことだ。
「教育」などという言葉を振りかざしたがるのは、人間の「他者に深く気づく=学ぶ」という能力を信じていないからだ。
人類社会は、他者に深く気づいたり他者に深く気づかれたりする体験が希薄になることと引き換えに、「教育」という制度を発達させてきた。「教育」という制度に執着したがる、というか、どうやらこれが現代人の傾向らしい。
そうして、年間3万人以上の自殺者が出る国になった。
強いものが「弱いものを助ける」などといっているからだ。弱いものが生きられない社会だから、強いものが助けねばならない。
弱いものどうしが助け合って生きられるのなら、強いものにも国にも助けてもらう必要がない。そうして、みんなが弱いものだったら、みんなが生きられる。
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   4・弱い生き物であるということ
氷河期の北ヨーロッパのオオカミの群れは、みんなが弱いものである社会だった。冬になれば、みんなで鹿の狩をしないと生きられなかった。誰も孤立しては生きられなかった。だから、ひとまず誰もが弱いものとして助け合う社会の構造をつくっていったのであり、ネアンデルタール人はそれを学びながらオオカミを家畜にしていった。
オオカミが群れとして生きるもっとも基本的なコンセプトは、誰もが他者に深く気づいてゆくことにある。彼らは、大人が子供を「教育する」ということはしなかった。子供どうし遊ばせた。これはネアンデルタールの社会も同じであり、その遊びの中から、どの子どもも自発的にリーダーを選んでいった。
遊びは、利潤を追求する行為ではない。だから、利潤を得ることのできる強いものが尊敬されるわけではない。みんなが楽しく遊べるようにみんなに献身してゆくことのできるものが、自然にリーダーになっていった。
だから、オオカミは強いものが弱いものに追いかけまわされていじめられてやるという遊びをよくする。そうやって誰もがひとまず「弱いもの」になってゆくことが習性化している社会なのだ。
「弱いもの」にならなければ、「他者に深く気づく」能力は育たない。たとえば、病気がちでいつも寝込んでばかりいる子供は、異様に人を見る目が鋭敏になってゆく。まあ、そのようなことだ。
オオカミは、「他者に深く気づく」能力を磨いてゆくことによって群れを成り立たせていった。だからオオカミ=イヌは、異常に嗅覚が発達している。
教育=支配したら、「他者に深く気づく」能力は育たない。
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   5・この国の現在
この国の現在においても、「弱いものどうしがおたがいさまで助け合う社会」というコンセプトが模索されている状況はいくらでもあるにちがいない。ワーキングプアの若者どうしとか、シングルマザーどうしとか、ホームレスどうしとか、まあ色々あるのだろうが、何より、人と人の関係の根源がそういうかたちになっている、と僕はいいたいのであり、それはもうここで直立二足歩行とネアンデルタール人のことを書きはじめたときから、ずっと言ってきたことだ。
他者の存在に深く気づき、人と人がときめき合う関係の根源的なかたち、と言い換えてもいい。
道徳(倫理)の問題じゃない。
生きてあることのカタルシス=快楽の問題だ。
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   6・追いつめるものと追いつめられるもの
僕は、教育する側の人間がその行為によってみずからを免責し正当化してゆき、それがあたかも正義であるかのような合意が定着してしまうのはとても怖いことだと思う。現在の親と子の問題にしろ、男と女の結婚の問題にしろ、教師と生徒の問題にしろ、いじめの問題にしろ、この国の自殺者が年間3万人以上いるという問題にしろ、あらゆる人と人の関係の問題をゆがんだものにしているのは、勝者=強者の「自己を免責し正当化する」という態度が正義として大手を振ってのさばり、敗者=弱者を追いつめている社会だからではないだろうか。
だから、勝間和代とかいう人の愚にもつかないハウツー本がベストセラーになったりする。
内田樹先生が書いているものだって、まあ似たようなハウツー本のたぐいだが、誰もが、勝者=強者になって自己を免責し正当化しようとしている社会であるらしい。そうでないと生きられないような強迫観念を誰もが持たされてしまっている。
内田先生の語る「社会的な倫理」など、まさしくこの社会でそうした強迫観念が肥大化してゆくことにひと役もふた役もかっている。その「脅し」の手法の巧妙なことは、ほとほと感心させられる。あなたは天罰が当たりますよ、と脅してカルト宗教に誘うのと同じ手口だ。内容はただのカルト宗教と同じなのに、宗教として語っていないから、よけいにたちが悪い。
内田先生の「自己を免責し正当化する」態度は他者を追いつめる。「内田ファン」とか「内田シンパ」といったって、ようするに内田先生に追いつめられている人たちなのだ。彼らもまた「自己を免責し正当化している」善男善女だから、追いつめられやすいというのか、同じ穴のムジナだというのか。
「自己を免責し正当化する」ものは、他者を追いつめる。
内田先生から逃げていった前の奥さんや娘だって、そうやって追いつめられたのかもしれない。先生の書きざまは、にこにこしながら腹の底では「俺を免責し正当化せよ」と脅迫している。そうやって前の奥さんや娘は追いつめられていったのかもしれない。
正義の善人は、人を追いつめる。おまけに先生の場合は、口あたりのよい言葉を並べるのがうまいときている。
いや僕は、内田先生の個人的なこと語りたいのではない。敗者=弱者が追いつめられる社会の構造がある、ということがいいたいのだ。そうやって追いつめられてハウツー本を買い漁っている人もいれば、引きこもりになる若者もいれば、自殺してしまう人もいる。
どうしてこんなにも人が追いつめられる社会になってしまったのだろう。
内田先生のご託宣にしたがって、追いつめる側の人間になればいいのか。そういうわけにもいかないだろう。それでこの社会から追いつめられる人がいなくなるわけでもないし、他者に深く気づいて生きてあることのカタルシス=快楽を汲み上げてゆくことができるようになるわけでもない。
追いつめられているから、誰もがご託宣を欲しがっている。そうしてハウツー本が流行る。
「そうやって手っ取り早い解決を求めるなんて安直過ぎる」といっても、それほどに誰もが追いつめられている世の中なのだ。
内田先生は「若者の知性が退化している」といわれるが、そういう問題じゃないのですよ。それは、心の問題であり、人と人の関係の問題なのだ。
他者の存在に深く気づき、弱いものどうしがおたがいさまで助け合う文化が衰退しているから追いつめられてしまうのだ。
それは、アメリカのように弱いものどうしが根性出して競争し合う文化の伝統を持たないこの国で、そうやって競争し合うしかない社会の構造になっているからであり、すなわち「弱いものどうしがおたがいさまで助け合う」という伝統を喪失しているからだ。それはもう、人類700万年の歴史の普遍的な伝統だというのに。
普遍的だから、日本人はこの文化をなかなか捨てられないのだ。捨てられないからわれわれは、追いつめられねばならない。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
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