1・生きにくい
生きにくい世の中になってきているらしい。
僕は、戦前の昭和も明治時代も江戸時代も奈良時代も生きたことがないから、それらの時代と今とどちらが生きにくいのかということはよくわからない。
いや、今ここで同じ時代を共有しているあなたと僕自身だって、どちらがより生きにくい思いを抱えているのかということはわからない。
それでも、年間の自殺者が3万人以上というこの国の現実をどう解釈すればいいのかという問いは、どうしても残る。
どうすれば自殺しないですむかという答えなんか僕は知らない。そんなことはケースバイケースだろうし、人それぞれだろう。それに、自殺してもいいのかいけないのかということだって、僕にはよくわからない。
ただ、その人に「死なないでほしい」と切に願っている親しい間柄の人もいることだろうと思うだけだ。
追いつめられたら死ぬしかない。生き物は「消えようとする」衝動を持っている。「自分はこの世に生きていてはいけないのではないか」という思いのいくぶんかは、誰もが心の底のどこかしらに疼かせているのではないだろうか。
僕は、そういう思いを持っていないという人間なんか信じないし、そういう思いを打ち消して、生命の尊厳だとか生き物は生き延びようとするのが当然の「本能」だなど言っている人間に対しては、おまえらほんとにアホだなあ、と思ってしまう。
・・・・・・・・・・・・・・・・
   2・消えようとする
生き物には、生き延びようとする本能などないのだ。「消えようとする」本能があるだけであり。「消えようとする」ことが生きるいとなみになっている。
「これはリンゴである」と認識することは、「これは何か?」という問いを消すことである。
腹が減って鬱陶しいなら、物を食ってその鬱陶しい体を消そうとする。
生きるいとなみは「消えようとする」いとなみであり、われわれはふだん、みずからの身体を「物体」としてではなく、「非存在の空間」として自覚している。ほんらいは「物体」であるはずのみずからの身体を、意識の主観性において、その物性を消去して「非存在の空間」にすることが生きるいとなみなのだ。
まあこのことはかんたんにはいいつくせないのだが、とにかくわれわれは、みずからの身体を「非存在の空間」として動かしているのであり、鈍くさい運動オンチほど身体の物性にとらわれてしまっている。
身体の物性を消すことが、生きるいとなみなのだ。
だから、自殺して自分の身体を消してしまおうとする衝動だって、とうぜん起きてくる。追いつめられて、この意識そのものを消してしまおうとする衝動だって起きてくる。
消えようとするのが生き物の本能なのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・
   3・この生は、「わけがわからない」という反応からはじまる
脳のはたらきは、まず「トラブル」として発生する。ストレス、と言い換えてもよい。
われわれの視覚は、その対象を、まずはじめに「何がなんだかわからないもの」としてとらえ、そのために脳のはたらきに混乱が生じる。その混乱を、次の瞬間に「それは赤いものだ」と認識することによって収拾している。
しかし、それを、たんなるモノクロームの濃淡として収拾=認識している動物もいる。たぶん人間もその動物も、同じ脳のはずである。ただ、どうやって認識するのが生きるのに具合がいいかという進化の歴史が違うだけだろう。どちらも、ひとまずそうやって、脳に起きたストレス=トラブルを収拾しているのだ。
この「消去=収拾」するというはたらきこそ、脳のはたらきの実質なのではないだろうか。そうやってわれわれは、腹が減ったらもの食うというかたちで、脳のストレス=トラブルを消去=収拾している。
まず、脳がざわざわする。
しかしそれを脳神経の伝達の流れがどう収拾してゆくのかという構造については、僕にはわからなない。ただ、見た瞬間にたちまち認識するのなら、脳の一点だけで処理できるはずである。
しかし実際にはそうではなく、そこで神経の伝達の流れが起こるということは、「混乱を収拾している」ということを意味するのではないだろうか。よくはわからない。しかし、対象がそのまま認識されているのではなく、それぞれの動物の生きる流儀にしたがっていちばんストレスがおさまりやすいかたちで収拾されているのだろうと思えてならない。この「消去=収拾」というはたらきが起きているから、それぞれの動物によって見え方が違ってくるのではないだろうか。
人間だって、赤なのに緑のように見えてしまったりする「色盲」の人もいる。これは、意識がまず「ストレス=混乱」として発生することを意味している。いきなり「赤だ」と認識するのではない。色盲は先天的な遺伝子の欠陥だったりたんなる後天的な場合もあるらしいのだが、いずれにせよ脳は、そのようにして「収拾」しているのだ。
ススキの穂をお化けだと思ったり、見えるはずがないものが見えたりするように、「収拾」に失敗してしまうこともある。
意識の発生、すなわちわれわれの生は、「わけがわからない」というところからはじまっている。そういう意識のはたらきの「混乱」と「収拾」を、われわれは一日のあいだでも無限に繰り返して生きている。
その繰り返しの果てに、疲れて眠る。眠るとは、「もう生きられない」という状態のことだ。そしてそれは、ひとつの快楽である。
生きるとは、「混乱」と「収拾」の無限の繰り返しなのだ。そうしてこの生をうまく収拾できないのなら、死んでしまいたくもなるだろう。死ぬことが救いだと思うことを、僕はよう否定しない。
・・・・・・・・・・・・・・
   4・もう生きられない
誰だって、「もう生きられない」とか「生きていたくない」と思う瞬間はあるだろう。
消えようとするのが意識のはたらきの基本なのだから、人はどうしてもそういうかたちでこの生を収拾しようとしてしまう。
かんたんに「生きようとするのが生き物の本能だ」などといわれても、僕は信じない。そんなの嘘だ、と思う。
人間がなぜ生きようと必死にがんばってしまうかといえば、トラブルを消去しようとするのが生き物の本能であり、がんばったほうが生きてあるこの身体のことを忘れてしまえるからだ。すなわち、生きてあることを忘れようとして、生きようとがんばってしまうのだ。
自殺することもトラブル消去のひとつの方法であり、そうやってわれわれは、本能的習慣的に「もう生きられない」とか「生きていたくない」と思ったりする。
そして、実際に自殺してしまう人が3万人以上いるということは、現在の日本人は、生活感情として「もう生きられない」とか「生きていたくない」という思いをよその国の人々よりも深く共有しているということを意味する。じつに多くの人々がそんな思いを抱えて生きている。それは、死んでしまった人だけの心の動きではない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   5・誰が追いつめているのか
この国には、「もう生きられない」とか「生きていたくない」という思いがたやすく生まれてくるような、この世を「あはれ」とも「はかなし」とも嘆く文化の伝統がある。そういう思いが生まれてくることの意味を、われわれはちゃんと考えているだろうか。日本人であろうとあるまいと、じつはそういう思いの中でこそ、人はこの生を深く体験しているのではないだろうか。
生きることが正義であることにして、「あはれ」とか「はかなし」とか「もう生きられない」というような思いが生まれてこない国にすればそれですべてが解決されるというわけではないだろう。そんな解決ですむなら、今すぐ戦争をはじめればいいのだ。
解決する前に、われわれはまずこの事実を受け止めなければならない。
「平和だから」、というのは理由にならない。平和であれば必ずそうなるとはかぎらない。
今やわれわれ日本人の多くは、かんたんに「もう生きられない」とか「生きていたくない」と思ってしまうほど追いつめられている、ということだ。そして追いつめられるのは、正義を手にして自分を免責し正当化しながらそんなことをつゆほども思わない人たちが一方の極をつくっている社会だからだ。というか、そういう人たちによって、自分を免責し正当化できない人間は生きている資格がないという合意がつくられている社会だからだ。
人間なんかかんたんに「もう生きられない」とか「生きていたくない」と思ってしまう生き物なのに、そう思うことが生きる資格がないかのように合意されている世の中なら、ますますそう思わされてしまう。
「もう生きられない」とか「生きていたくない」というところからカタルシスを汲み上げることができないのなら、ほんとうに生きていられなくなってしまう。
人間はそうやって薄い氷の上を歩くようにして生きている存在だという合意がないのなら、自殺するものはあとを絶たない。
生命の尊厳なんか合唱しても無駄なことだ。その合唱こそが、薄い氷の上を歩いている人たちを追いつめる。
「生命の尊厳」などという言葉は、「勝ち組」の人間を免責し正当化するために機能しているだけのこと。
「もう生きられない」とか「生きていたくない」と思うことと和解できない社会なら、そりゃあ自殺してしまう人はあとを絶たないさ。
もともとこの国の人間は、「もう生きられない」とか「生きていたくない」とかんたんに思ってしまう傾向を持っている。
なのに現在の社会は、「生の尊厳」という言葉で人々の心を縛ろうとしている。そんなことを合唱しているから、よけいに生きていられなくなるし、生きていたくないと思ってしまう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一日一回のクリック、どうかよろしくお願いします。

人気ブログランキングへ
_________________________________
_________________________________
しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

幻冬舎書籍詳細
http://www.gentosha-r.com/products/9784779060205/
Amazon商品詳細
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4779060206/