言葉の輝き・ネアンデルタール人論215

ここではひとまず生命の起源のところまでさかのぼりながら「進化論」を考えているわけだが、それは現代を生きるわれわれの、飯を食ったり服を着たりおしゃべりをしたり何かに感動してときめいたりセックスをしたり生きて死んでいったりすることの問題でもある。その、命のはたらきや心のはたらきの自然=本質はどのようなかたちになっているのだろうか、と問うている。
まあ、政治とか経済というよくわからない問題はさておくとして。
いや、政治や経済だって、つまるところ命のはたらきの本質の問題かもしれないわけで。
ともあれ、「生きものの本能は生き延びようとすることにある」などというような俗っぽい問題設定では話にならない。
たとえば命のはたらきであれ心の動きであれ、その自然・本質においては、「満足」を欲しがっているのではなく、「けり(決着)」をつけようとしているだけではないだろうか。命も心も、「満足」という事態に漂っていたいのではなく、ほんとうは燃え尽きてしまいたいのだ。自我の充足・安定を目指すのが人間性の自然だというが、じつはそこから生きはじめて自我など忘れてしまうのが心の動きの自然ななりゆきではないだろうか。自我など忘れてときめき、何かに夢中になってゆく。
息を吸い込めばもう、息をする必要はない。それは命が充足・安定している状態だろうが、命のはたらきは起きていない。ただ停滞し、漂っているだけ、そういう「ゆるーい幸せ」が欲しいわけでもあるまい。命のはたらきは、そこからその息を消費してゆく。生きることは、息がなくなってしまう事態の無限の繰り返しであり、それが命のはたらきなのだ。息がたまっていても「はたらき」にはならない。そのエネルギーを使い果たしてゆくのが「はたらき」であり、「生きる」といういとなみではないだろうか。そうやって血が流れ、体が動く。
「生きる」ことに「けり(決着)」をつけてしまうのが「生きる」ことだ。そういう「もう死んでもいい」という勢いで、命のはたらきや心の動きのダイナミズムが生まれてくる。
ここでいう「もう死んでもいいという勢い」とはつまり、「自分=この生を忘れてしまう」ことであり、そうやって女を前にした男はときめき勃起してゆく。命のはたらきや心の動きの自然は、この生のエネルギーを消費することであり、「もう死んでもいい」という勢いを持っている。

人は、もうすぐ死んでゆく人のそばに寄り添ってけんめいに介護をしたりする。死がただの「けがれ」でしかないのなら、そばになんかいたくないだろう。まあ、そばにいたくない人もいれば、なおのこと寄り添ってゆこうとする人もいる。
人類が「介護」という習性を持っているということは、寄り添ってゆこうとするのが人間性の自然だということを意味するのではないだろうか。べつに高邁な倫理道徳の観念で寄り添っているのではない。どちらかというとそれは、原始的な衝動なのだろう。
おそらくネアンデルタール人は、その寄り添ってゆこうとする心模様が、現代人よりもずっと切実で豊かだったに違いなく、そうやって他者を生かそうとする生態の文化が育っていった。育っていかなければ、あんな苛酷な地で生き残ってこられるはずがない。
現代人のように、生き延びようとする欲望をたぎらせて生命賛歌ばかりしていたら、死んでゆく人のそばにいたくなくなってしまう。ことに延命治療が発達した現代においては、痩せこけて生ける屍のようになった人と向き合うことは、怖いし気味悪いし、耐えられないに違いない。身内はともかく、他人なら、一度見舞いに行けばじゅうぶん、という気になってしまう。元気なときは、やれ仲間だ友達だと親しくしていても、いざそうなると、とたんに疎遠になっていったりする。まあ、そういう人と会話する言葉を持っていない。相手の心を癒したりときめかせたりしてやれる言葉を持っていないというか、自分が相手から癒されたり相手にときめいていったりすることがないのだから、そういう言葉を持てるはずがない。
それに対して誰もが「生きられなさ」を生きていたネアンデルタール人にとって死はひとつの解放だったわけで、彼らは死んでゆく人から癒され死んでゆく人にときめいていた。
われわれは、死んでゆく人と対話をすることができるか?それは、どんな言葉を用意して見舞いに行くか、というような問題ではない。用意した言葉の二つや三つで対話が成り立つはずもないし、その言葉ひとつで相手が救われるというのでもない。伝家の宝刀のようなとっておきの言葉などというものはない。ときめき合うことができるかということ、それによってたがいに癒され救われるという体験ができるかということ、言葉なんか出たとこ勝負でいいのだ。どんな他愛ない言葉であれ、そういう「即興性」とともに生まれてくる言葉によって人と人はときめき合い癒され合うのではないだろうか。そこでこそ「言葉=世界」は輝くのではないだろうか。