悪あがき・ネアンデルタール人論124

ネアンデルタール人にとっての死は、この生の向こう側のものであると同時に、この生の中に隠されたものでもあった。それほど死が身近なものとしてあった。多くの人類学者は、彼らが頑丈な体型や体質だけで生き残っていたかのように考えているらしいが、そんな人をなめたようなことをいってもらっては困る。だったら、そんな体を持っていない女子供はみな死んでゆかねばならない。じっさい乳幼児の半数以上が死んでいったし、大人でも女の人口のほうが少なかった。そんな女子供でもなんとか生き残ることができる文化生態を持っていたからこそ生き残ってきたのだ。そんな環境なら、そんな文化生態が発達しないはずがない。
そこは、人がかんたんに死んでゆく環境だった。彼らはその死者の数以上に繁殖して生き残っていっただけで、正確には生き延びることができる体を持っていたとはいえない。人間だもの、そんな環境でそうかんたんに生きられるはずがない。彼らは、その環境のもとでもっとも生き延びる能力が脆弱な生きものたちだった。
すなわち彼らは、死に対する親密な感慨でそこに住み着いていたのだ。
ネアンデルタール人の生は、苛酷で悲惨だった。彼らは、そういう「悲劇」を生きていた。人は「悲劇」を生きようとする。原初の人類が二本の足で立ち上がったこと自体が、すでに猿としての生き延びる能力を喪失するという「悲劇」だったのだもの。
学問ををするということは、「わからない」という「悲劇」を生きることだ。芸術やスポーツや恋をすることだって、そうした困難な生の「悲劇」に身を浸しながら新しい地平に分け入ってゆくことだろう。困難であればあるほど、新しい地平にたどり着いたときめきも豊かになる。学者も芸術家もスポーツ選手も恋する男女も、その困難な生の向こうに隠された新しい地平に憧れときめいている。それはおそらく、人間性の自然としての死に対する親密な感慨が基礎になっている。
才能とは、「困難な生=悲劇」を生きる能力だともいえる。
学問や芸術やスポーツは、予定調和の秩序に潜り込んでゆくことではなく、新しい地平に分け入ってゆくことだ、人と人の関係においても、予定調和の秩序の潜り込んでゆこうとする人は、親しくなればなるほど相手に逃げられる。そんな密着した関係からは、ときめきは生まれない。鬱陶しいだけだ。そういう人は恋をする才能がない。
困難な恋ほど、激しく燃え上がる。恋をすることだって才能がいる。しかしそういう「悲劇」を生きる才能は、じつは人間なら誰だって持っている。誰だって死に対する親密な感慨を持っている。


人類の文化は、死に対する親密な感慨とともに進化発展してきた。
心は、死に対する親密な感慨とともにかなしみしぐれてゆく。
死に対する親密な感慨こそ、人間性の基礎になっている。人類はその感慨を携えて進化発展の歴史を歩んできたのであって、現代人のように、あくせく生き延びようとする欲望を膨らませてきたのではない。心も命のはたらきも、その欲望によって停滞・衰弱してゆくのだ。
人の心は、死に対する親密な感慨とともにしぐれていったところから華やぎ活性化してゆく。
人と人がときめき合うとき、たがいの心の底で「死に対する親密な感慨=かなしみ」を共有している。なぜなら、それがなければ心はときめいてゆかないのだ。
たとえば道ですれ違ったときにあいさつするだけのような、どんなささやかな関係であれ、人と人は、つまるところ「もう死んでもいい」という勢いでときめき合っている。自分や自分の生に執着していたら、意識は自分に向いてばかりいるのだから、そこからときめきなんか生まれてくるはずがない。自分も自分の生も忘れてときめいてゆく。人は死に対する親密な感慨を持っているから、自分も自分の生も忘れてしまうことができる。忘れてしまうことができるから、「ときめく」という体験をする。そうやって「もう死んでもいい」という勢いでときめいてゆく。もちろんそんなことを意識しているわけではないが、そういう勢いで心が飛躍してゆくことを「ときめく」という。その、死に対する親密な感慨にこそ人間性の基礎がある。


今どきは、生き延びようとする欲望や自己意識を人間性の基礎として語りたがる知識人が多いのだが、そんなものは、現代社会に蔓延しているたんなる病理的な心の動きにすぎない。
現代社会においては、その欲望や自己意識を武器にして社会的に成功するものもいれば、まさにその欲望や自己意識によって心を病んでゆくものも少なくない。どちらにしても意識は自分に向いているだけなのだから、どんなに成功しても、それによって自分に満足することはあっても、世界の輝きにときめいてゆく体験が豊かに得られるわけではない。そんな欲望や自己意識に人間性の基礎があるのではないし、そんな欲望や自己意識で人類の文化が生まれ育ってきたのではない。
人の心も命のはたらきも、「かなしみ」とともにしぐれていったところから華やぎ活性化してくる。
生き延びようとするなんて「悪あがき」だし、生き延びたからといってめでたいわけでもなんでもない。心にとっても命のはたらきにおいても、「消えてゆく」ことこそもっともめでたいのであり、そこにこそ生きてあることのカタルシス(浄化作用)=快楽がある。
息苦しいから、息をするという悪あがきをしなければならない。それが高じて過呼吸症候群などという病理が起きている。スムーズに呼吸ができていれば、呼吸をしているという意識なんかない。そうやって体のことなんか忘れている。すなわち体は、「消えている」のだ。
けがや病気をしなければ、体のことなんか意識しない。体は「消えている」のだ。
気持ちよく歩いているときは、足のことなんか意識していない。疲れて棒のようになってきたときに、ようやく苦痛として意識する。命のはたらきは、体を消してゆくことによって活性化している。すなわち、生き延びようとする欲望が消去されているときにこそ、命のはたらきがもっとも活性化している。
命のはたらきが活性化していないから、生き延びようとする欲望をたぎらせないといけないのだ。
命のはたらきとは、「消えてゆく」はたらきなのだ。
人がなぜ衣装を着るかといえば、それによって身体を意識しない状態、すなわち身体が「消えている」状態になれるからだ。
意識にとって衣装の下の身体は、「肉体」ではなく「からっぽの空間」なのだ。
「消えてゆく=しぐれてゆく」ことのカタルシス(浄化作用)が人を生かしている。人がなぜそんなにも「消えてゆく」心地を豊かに体験できるかといえば、生きてあることがいたたまれないからだ。二本の足で立っていることは、不安定で危険で無力で、いたたまれないのだ。
生き延びようと悪あがきすることが人間性の基礎であるのではない。
人間性の基礎は、「もう死んでもいい」という無意識の感慨ともに「消えてゆく=しぐれてゆく」ことのカタルシス(浄化作用)を汲み上げてゆくことにある。


社会的に零落しようとするまいと、生きてあることの「かなしみ」を持っていない人は魅力的じゃない。人と人は、「かなしみ」を共有しながらときめき合っているのだ。
ややこしい話じゃない。とにかく、「人はなぜ世界の輝きにときめいてゆくのか」「人と人はなぜときめき合うのか」という問題こそが気になる。
人は、ときめくことができなくなって心を病んでゆく。
自分に執着するばかりでろくにときめく心もときめかれる魅力もない今どきの大人たちに、「人間性の基礎は生き延びようとすることにある」とか「人は自尊心を保つことができないと生きられない」などといわれると、ほんとにうんざりする。どれほど社会的に成功した存在であろうと、そんな愚劣で俗っぽい理屈を振り回すこと自体、すでに心を病んでいるのだ。生き延びようとする欲望をたぎらせ、自尊心を保つことでやっとこさ生きているだけじゃないか。その悪あがきのどこに人間性の自然があるというのか。