しぐれる・ネアンデルタール人論125

「しぐれる」という言葉のニュアンスは、なんとも味わい深い。
「しぐれる」とは、消えてゆく過程のこと。フェードアウト、という言葉もあるが、ただそういう現象だけを指しているのではない。「しぐれる」は、かなしみに濡れている。だから、雨がしとしと降ることを「しぐれる」ともいう。
「しぐれる」の「しぐ=しく」は、「しくしく泣く」の「しく」でもあり、これもまたひとつの「しぐれる」状態にほかならない。
やまとことばの「し」は、「しんみり」「しずか」の「し」、「孤独」「静寂」の語義。
「く」は、「組む」「汲む」の「く」、「収束」というか「ひとつにおさまること」をあらわす。水を汲むことは、水というかたちのないものをひとつの空間におさめる行為。「暮れる」とは、太陽がひとつのところに沈んでゆくこと。「暗い」は、見える範囲が収束して狭くなっている状態。「蔵(くら)」は、大切なものをおさめる場所。ひとつのことが気になって鬱陶しい状態を「くさくさする」というし、「草(くさ)」はまさにそういう状態で繁茂している。「口(くち)」は、食い物や息や言葉をおさめる場所。
もともとは、楽しいにせよ鬱陶しいにせよ、気持ちがひとつにおさまってゆくことを「く」といった。口の中に音声をおさめておくようにしながら「く」と発声する。
「しぐれる」とは、ひっそりと沈んでゆくこと。「しっくりする」の「しく」、「おさまるべきところにおさまる」というかたちで「ひっそりと沈んでゆく」こと。まあ語源においては、そういう感慨をあらわす言葉だったはずだ。心がしぐれることも、天気がしぐれることも、人生がしぐれることも、ひとまずそういうニュアンスに違いない。


人生が「しぐれる」というかたちでひとつにおさまってゆく……種田山頭火の「うしろすがたのしぐれてゆくか」という句は、そういうニュアンスに解釈することもできる。
人生がおさまるべきところにおさまってゆくことは、しぐれてゆくことだ。出家僧であった山頭火にとってしぐれてゆくことは、ひとつの宿願であり祈りだった。それを山頭火の自嘲や自虐だと解釈するのは、俗人たちの俗物根性にすぎない。平和で豊かな社会に住むこの国の現代人は、幸せの充足に浸ってゆくことが人生のおさまるべきところだと考えているわけだが、しかしそうやってあくせくしながら認知症鬱病やインポテンツなってゆくのだ。生き延びようとする欲望が叶った幸せにはしゃぎながら、しかし知性や感性はどんどん衰弱していっている。そうやって作為的に生きることを「主体性」などといったりするが、まさにそのことによって「反応する」知性や感性、すなわち世界の輝きに気づきときめく心を失ってゆく。
人の心は、「しぐれてゆく」ことによって華やぎときめいてゆく。「しぐれてゆく」という「かなしみ」、それを共有しながら人と人はときめき合っている。
歳を取ると、忘れてしまったはずの子供のころの情景が突然よみがえってくるという。まあ、そのようなことだ。それは、心の中に大切におさめてあったこと。心は、「しぐれてゆく」ことによってそういう「隠されてあるもの」に対してどんどん敏感になってゆく。
人の心は、生きてあることの「かなしみ」が隠されてある。人と人がときめき合っているとき、心の中に隠されてある「かなしみ」が共有されている。心は、「かなしみ」を契機にして華やぎときめいてゆく。つまり、心の中に隠されてある「かなしみ」に遡行してゆくことによって華やぎときめいてゆく、ということ。


この世に生まれ出てきたことは理不尽なことで、いたたまれないことだ。しかしそれは、怒りや憎しみによっては、何も解決しない。人の心は、怒りや憎しみを膨らませながら病んでゆく。それは認知症の典型例のひとつで、今どきはそういう迷惑老人がどんどん増えている。べつに認知症でなくても、人が怒りや憎しみを持つのはしょうがないことで、それをエネルギーにして社会的に成功してゆく人もいる。文明社会はそういう構造を持っており、革命は人々の怒りと憎しみを組織して起きてくる。
他者との関係の「一体感」は、怒りと憎しみの源泉だ。怒りと憎しみを共有してゆくことによって「一体感」が生まれるし、「一体感」という原体験を持っているから、他者に対してそういう密着した感情を抱くようにもなる。
怒りと憎しみほどなれなれしい感情もない。それは、他者を支配しようとする衝動でもある。支配と被支配という一体感の関係、文明社会は、人と人をそういう密着した関係にさせてしまう構造を持っている。
秋葉原事件の加藤君は、おそらく幼児体験として、母親からきつく支配されながら母親との「一体感」を持たされてしまい、それが社会や人に対する怒りや憎しみの支配欲として爆発した。幼児体験としてインプットされた、その密着した感情を抱いてしまう性向から、どうしても逃れられなかった。
そしてそれは何も加藤君ひとりの問題ではなく、文明社会は、人と人の関係を支配と被支配という「一体感」の密着した関係に向かわせる構造を持っている。「一体感」として怒りや憎しみが生まれてくるのだし、怒りや憎しみをを共有しながら「一体感」の集団になってゆく。
怒りや憎しみを飼い慣らしている人や、怒りや憎しみを持て余している人は、この世にいくらでもいる。
今どきの原発反対の市民運動だって、原発推進に向かう政府や電力会社に対する怒りや憎しみを共有しながら「一体感」として盛り上がってゆこうとしているのだろうが、しかしその「一体感」はときめき合っているのではない。人の心は、怒りや憎しみを募らせながら病んでゆく。その「一体感」に希望はあるか?「救済=解放」はあるか?


まあ西洋人は、「神」とのあいだの支配と被支配の「一体感」で生きている部分がある。だから、怒りや憎しみを組織しながら革命を起こすこともできるし、ひとりひとりが「孤独」を持っているから、「一体感」だけになってしまうこともない。革命が成就すれば、次の日からまたひとりひとりに戻ってゆく。彼らはそういうことができる。
ともあれ日本列島には、そうした「一体感」の伝統はない。神道の神は、基本的に「支配者」ではない。古事記によれば、この世界をつくっただけで「隠れて(消えて)」しまった、ということになっている。日本列島の「かみ」は、「隠れて(消えて)」いる。だから、「神との一体感」など持ちようがない。
西洋文明を輸入していった明治以降にそうした「一体感」を持たされる社会の構造にもなってきたが、もともとは怒りや憎しみという密着した関係意識の希薄な文化の歴史を歩んできたのだ。
国家という共同体は、「一体感」を持たないと成り立たない。そうやって国歌や国旗が機能しているわけだが、日本列島においては、明治になるまでそれを持たなかった。みんな同じ日本人として他愛なくときめき合ってきたのに、それを持たなかった。
「隠れて(消えて)」ゆく文化……つまり日本列島では、生きてあることの実存的ないたたまれなさを怒りや憎しみへと発展させるのではなく、「しぐれて」ゆきながら「かなしみ」へと昇華してゆく文化の歴史を歩んできた、ということだ。「一体感」で盛り上がるのではなく、「しぐれてゆく=隠れてゆく=消えてゆく」ことの「かなしみ」を共有しながらときめき合ってゆく文化を育ててきた。日本列島の文化の伝統においては、「しぐれてゆく=隠れてゆく=消えてゆく」ことこそ「おさまるべきところにおさまる」かたちだった。
西洋人の祖先であるネアンデルタール人だって、集団そのものはかんたんに離合集散を起こしながら、人と人が他愛なくときめき合うフリーセックスの社会をつくっていた。おそらく彼らもまた、「かなしみ」を共有しながらときめき合っていた。そこは苛酷な寒さのために人がどんどん死んでゆく環境だったのであれば、「かなしみ」と無縁に生きられるはずもなかった。
死んでゆくことは、「しぐれてゆく=隠れてゆく=消えてゆく」こと。
死という「隠れている」ものに対する親密な感慨こそ、人類史の普遍であり、日本列島の伝統のかたちにほかならない。死という「隠れている」ものに対する親密な感慨を深くしてゆくことを「しぐれる」という。
日本列島の伝統において、「おさまるべきところにおさまる」ことは「隠れている」ことであって、密着し「一体化」してゆくことではない。この生のいとなみの究極のかたちは、この生に執着してこの生と一体化してゆくことではない。人と人の関係においても、水のように淡くゆるやかなものに保つことを大切にしてきたのであって、密着し一体化してゆこうとしてきたのではない。
人間性の自然=普遍として、人と人の関係は、密着し「一体化」してゆくと、停滞し淀んでゆく。そうやって心を病んでゆく。だから西洋人は「孤独」を大切にする文化の歴史を歩んできたし、日本人は「隠れているもの」に対して親密になってゆく文化を育ててきた。
はにかむという羞恥心の文化。羞恥心とは、隠れようとすること。「秘すれば花なり(世阿弥)」ということ。人と人は、その隔たった関係においてこそときめき合うことができる。その隔たりを飛び越えてときめいてゆく。そこのところは、西洋も日本列島も同じなのだ。