「かなしみ」という解放・ネアンデルタール人論129

ヴィンセント・ギャロの『バッファロー66』という映画の主人公は、ラスト近くで進退窮まったように「もう生きられない」とつぶやいて泣き崩れるのだが、そこから心が華やぎ、つまりどうしようもなく愚かなひねくれ者にすぎなかった主人公が愛とか世界の輝きとかに目覚めて再生してゆく、という展開になっている。まあそれは映画の物語展開の常道だが、それ自体が、人の心はしぐれてゆくところから華やいでくるという人間性の普遍のあらわれだともいえる。
貴種流離譚」とか、人が紡ぎ出す物語は、普遍的にそうやって「しぐれてゆく」ということが挿入される仕組みになっている。
人は、しぐれてゆく心を携えて旅に出て、そこから心が華やぎ再生してゆく。原始時代の人類拡散だってそういう問題だったのであって、凡庸な人類学者たちが合唱しているような、たとえば「住みよい土地を求めて」などという現代的な自我の欲望が契機になっていたのではない。人類は、どんどん「住みにくい土地」に移住していったのだ。それはもう近代のヨーロッパ人によるアメリカ大陸移住だって同じで、みんな住みにくいことを覚悟で移住してゆき、けんめいに住みにくさに耐えながら住み着いていったのだ。なぜそんなことができたかといえば、その住みにくさとともに心が華やぎ人と人が豊かにときめき合う関係が生まれ、それによって住み着いていったのだ。もしも4万年前のアフリカが以前よりも住みにくい土地になっていたとすれば、その住みにくさによってこそ人と人が豊かにときめき合う関係が生まれ、さらに懸命にそこに住み着いてゆこうとしたことだろう。「住みにくさ」はそこに住み着いてゆくことの契機になりこそすれ、そこから旅立ってゆく契機にはならない。その法則によって「人類拡散」という現象が起きてきたのであり、したがってそのときアフリカ人が大挙して旅立っていったということなどありえないのだ。
しぐれてゆくことが「解放=救済」になる。しぐれてゆくことの「かなしみ=嘆き」を基礎にして、人の心は華やぎ解き放たれてゆく。


神は乞食姿に身をやつして人間社会に現れる。これも一種の「貴種流離譚」であり、そういう話はもう、世界中にある。キリストや釈迦だって、乞食姿に身をやつして人々の前に現れたということになっている。
「しぐれてゆく」ことは「消えてゆく」ことであり、それが直立二足歩行の開始以来の人類伝統の世界観や死生観の基礎になっている。「しぐれてゆく=消えてゆく」ことのカタルシス(浄化作用)が、人類の思考や行動の基礎になってきた。
直立二足歩行の開始も人類拡散も、つまりは「しぐれてゆく=消えてゆく」という体験だったのであり、世の人類学者が考えるような、この生を拡張してゆく体験だったのではない。そんな生き延びようとする欲望は現代の文明人の病的な自意識であって、普遍的な人間性の自然だとはいえない。
この生のいたたまれなさからの「解放=救済」は、そのいたたまれなさを「かなしみ」にまで昇華してゆくことにある。心は、そこから華やぎときめいてゆく。
しかし、そんな深い「かなしみ」は、誰にでも持てるというわけではない。われわれは、いつまでたってもいたたまれなさの海の中で右往左往しながら生きている。
その「かなしみ」は、「もう生きられない」というところまでたどり着いたもののもとに訪れる。
この世の生きられないもっとも弱いものたちは、その「かなしみ」を知っている。そして、彼らの前の世界は輝いている。猿よりも弱い猿だった原初の人類は、生きられない「かなしみ」を共有しながらときめき合い、つまり生き延びる能力によってではなく、そのときめき合いから一年中発情している猿になり、そこから生まれてくる圧倒的な繁殖力によって生き残っていった。
そういう「かなしみ」は、人間なら誰の心の中にも息づいている。ただ、文明社会の構造が、そこに遡行してゆくことを阻んでいる。文明社会に生きていると、生き延びようとする欲望が肥大化して、いつの間にか「しぐれてゆくことのかなしみ」を見失ってしまう。


現在のこの国の市民運動は、権力者や悪に対する怒りや憎しみを組織しながら国民的な大きな広がりを持とうと企画しているのだが、はたしてその通りになるだろうか。怒りや憎しみを抱いて生きることは、はたして人の心の「解放=救済」になるだろうか。怒りや憎しみを共有してゆくことによって、人と人はときめき合う関係になれるだろうか。まあそうやって異民族に対する怒りや憎しみを共有しながら国家文明が生まれてきたわけだが、同時に人は、みずからの内なる怒りや憎しみを処理しようとする心の動きを人間性の自然として持っているわけで、怒りや憎しみをたぎらせて生きていればいずれ発狂する。その全能感によって人の心は病んでゆくのだし、その唯我独尊の態度によって人から嫌われる。
古代の国家文明は、怒りや憎しみをたぎらせて生きる権力者という狂人が、民衆の「しぐれてゆく」心模様の上に覆い被さって生まれてきた。そのとき民衆は、しぐれてゆきながら支配を受け入れていった。民衆は、しぐれてゆく心を共有しながら寄り集まってゆく。
国家文明の発祥に際して、大陸では権力者と民衆が支配と被支配の関係になる「契約」を取り結んだが、この国の国家文明(大和朝廷)は、民衆自身がしぐれてゆく心を共有しながら華やいでゆくことのよりどころとして天皇という祭祀をみずから祀り上げ、その関係に権力者が寄生してゆくというかたちで生まれてきた。
この国の権力者は、民衆と天皇の関係に寄生している。藤原道長平清盛織田信長徳川家康も、みんなそうだったし、現在の総理大臣だって同じに違いない。
この国の権力者と民衆のあいだには「契約関係」がないから、民衆も権力者と同じような怒りや憎しみすなわち「正義」を持つという伝統がない。そんな正義ばかり振りかざしていると人から嫌われるというのが、この国の浮世=憂き世の習わしだ。
だから革命なんか起きないし、現在の安保法制反対や原発反対の市民運動だって、国民的な盛り上がりというにはほど遠い。
怒りや憎しみの温床としての「正義」、われわれは、そんなものをむやみに振りかざされると、「かなわんなあ」と思ってしまう。
日本列島であれ西洋であれ、民衆の生態の基礎になっているのは、しぐれてゆくことの「かなしみ」を共有しながら華やぎ寄り集まってゆくということにある。民衆は、悪に対する怒りや憎しみで結束している存在ではない。
ことに日本列島の民衆は、なんであれ、怒りや憎しみを持続することは苦手だし、怒りや憎しみすなわち「正義」を共有して盛り上がるということもうまくできない。「おたがいさま」で生きているのだから、悪は許さないなどという正義はもう、お上にお任せするしかない。


この生のいたたまれなさを「かなしみ」にまで昇華してゆくことができないと、怒りや憎しみを抱え込んだままますますいたたまれないものになってしまう。
共同体の制度性は、人の心に怒りや憎しみを芽生えさせる構造を持っている。心が制度性に侵食されて、怒りや憎しみから逃れられなくなってしまう。社会や他者との「一体感」を強く持っているものは、その外の世界に対する警戒心や緊張感とともに、怒りや憎しみを持つ心が肥大化してくる。
みずからの内なる怒りや憎しみをどう処理するかという問題は、こんな社会の中に置かれているかぎり多かれ少なかれ誰もが抱えているが、その自意識を処理できる人とできない人がいる。もともとそんな自意識が希薄な人もいれば、いつまでたっても心の中に自意識の嵐が吹き荒れている人もいる。それはもう、人としての品性の問題でもあるのかもしれない。
ともあれ、生き延びるための処世術を手放したら生きられない世の中だ。生き延びようとする欲望が強ければ、どんなにカッコつけても何かのはずみにそのいじましさが露呈してしまうし、自我という聖域をかたくなに守ろうして他人から嫌われたり鬱陶しがられたりしている人も少なくない。まあそういう人たちの心の中で怒りや憎しみのもとになるルサンチマンが飼い馴らされている。飼い馴らしながら、表面的には他人とうまくやってゆく処世術を身につけてゆく。まあ社会的な付き合いはそれですんでも、生身の親密な関係になったら、それだけではすまない。そのグロテスクな自意識が露呈してしまうし、見透かされてしまう。
支配=被支配の関係に浸されることによって一体感が生まれる。そしてその一体感が壊れると、怒りや憎しみに変わる。一体感を持ちたがる人は支配欲が強いし、支配されたがりもする。怒りや憎しみとは、つまるところひとつの支配欲だ。彼らは、人と人の関係が「たがいの一方的な<憧れ>を交歓し合うものであって一体感に浸れるような密着したものではない」ということを知らない。一体感など望んでも、けっきょくは得られない。たとえば母子関係とか、家族の中にそんな幻想が成り立つ関係があるとしても、その外に出れば失望を繰り返して生きてゆくしかない。失望を繰り返しながら怒りや憎しみを飼い慣らしてゆく。
国家の一体感、家族の一体感、母子関係の一体感、まあその一体感に浸ってゆこうとする傾向が、社会的に成功するための武器にもなれば、怒りや憎しみにほんろうされて心を病んでゆく契機にもなっている。
血がつながっているという家族のなれなれしさは、そのまま同じ日本人だというなれなれしさにもなる。そういう関係になりながら人は、自意識を肥大化させてゆく。そうして自意識を肥大化させながら、怒りや憎しみの感情を持て余すようになってゆく。それが成長するとか大人にになってゆくということだとしたら、なんだかみすぼらしい話ではないか。


極端な言い方をすれば、この世の中には二種類の人間がいて、生きてあることのいたたまれなさを怒りや憎しみにまで発展させてしまうものもいれば、そのいたたまれなさを「かなしみ」にまで昇華し、そこから心が華やぎときめいてゆく体験をしているものもいる。閉塞感に対する解放感、と言い換えてもよい。まあ、誰の心の中にもその二種類の人間が棲んでいる、ということかもしれない。そうやって人の世は、いつの時代においても、、いろいろややこしい人間模様になっている。
ともあれ、「あはれ」とか「はかなし」とか「わび」とか「さび」とか、しぐれてゆく文化の伝統のこの国においては、「正義」を振りかざして悪に対する怒りや憎しみを組織しようとしてもそうそう大きな広がりにはなりえないのであり、かんたんに「アラブの春」のようにはいかないのだ。
正直にいおう。今どきの市民運動なんて自意識過剰のやつらばかりだなあ、と思わないでもない。そんな上から目線の正義ぶって排他的なネットワークでこの国を変えられると思っているのだとしたらとんだ思い上がりだ、と思わないでもない。
その「悪に対する怒りや憎しみ」が胡散臭いのだ。
「世界の輝き」にときめいてゆくことができるかどうかということこそ、愚かな存在であるほかないわれわれのこの生の試金石であり、正義も生き延びることもどうでもいいのだ。


この生がいたたまれないというのは、ひとつの自意識だ。自意識は、誰だって持っている。赤ん坊が「おぎゃあ、おぎゃあ」と泣くことだって、自意識があるからだろう。自意識なしに、どうして泣けるものか。彼らは、そうやってこの生のいたたまれなさに身もだえしているのだ。そうしてその果てに「かなしみ」が生まれ、そこからこの世界の輝きに「ときめく」という体験するようになってゆく。
発達心理学ではよく、赤ん坊の成長を「自我の目覚め」という言葉で説明されるが、自我=自意識なんか生まれたときから持っているのだ。彼らの心の成長は、さんざん泣いて自我がしぐれていった果ての「かなしみ」を契機にして「ときめく」という体験をするようになってゆくことにある。泣いてばかりいた赤ん坊がよく笑うようになってくるのはそういうことであって、「自我の目覚め」などということではない。さんざん泣いて、自我が「しぐれて」いったのだ。
今どきの大人たちよりも赤ん坊のほうがずっと深く生きてあることの「かなしみ」というものを知っている。彼らこそこの生のいたたまれなさを「かなしみ」にまで昇華していったものたちであり、それが人間性の基礎であると同時に究極のかたちでもあるのだ。人は、そうやって生まれてきて、そうやって死んでゆく。そしてそうやって生きていることができればいいのだが、生き延びることが大事の現代社会は、なかなかそのようには生きさせてくれない。


ネアンデルタール人の社会では、半数以上の赤ん坊が寒さのために死んでいった。赤ん坊の死ほど傷ましいものもない。この世のもっとも愛らしい存在が消えてなくなるのだ。それでも女たちは、そのかなしみを超えてたくさんの赤ん坊を産み続けた。彼らは、生まれてすぐに死んでゆこうと老人になるまで生き延びようと同じことだということをよく知っていた。彼らの死生観に、生き延びることの価値などなかった。そしてこれが人類普遍の死生観であり、因果なことにだから人は人殺しをするし自殺もする。また、生き延びることのできない悲劇的な存在ほど美しい存在もないという想いも、いまだに世界中で共有されている。
日本列島で自殺が多いのは、西洋人が勝手に決めつけている「伝統的に死ぬことが名誉だという観念を持っている民族だからだ」というようなことではなく、生き延びることができない悲劇に美を見出す伝統文化を持っているからで、われわれからしたら「そんなことは世界中どこでもそうじゃないか」といいたい話だ。この島国では国家文明の発祥が大陸よりも数千年遅れた。そのために、そういう人間性の自然に大陸よりはちょっとだけ率直な伝統文化を残している。
日本列島の住民は、みずからの中の原始性と国家文明とどう和解してゆくかということに身もだえしながら、大和朝廷の発祥以来のこの1500年の歴史を歩んできた。
生き延びることの価値など文明社会の制度的な観念にすぎないのであり、人間性の自然でも普遍でもなんでもない。そんな観念に冒されて現代人の心は病んでいるのだ。
現代社会では、戦わないと生き延びることはできない。それはもうたしかにそうなのだが、はたして生き延びる必要があるのかという問題がある。人の心は、「今ここ」において消えてゆく、というかたちで解き放たれる。そうやって自分を忘れて「世界の輝き」にときめいてゆく。意識の中で身体の物性が消えてゆくときにこそ、もっとも命のはたらきが活性化している。われわれは、身体の物性など忘れて歩いているのだ。
われわれは国家権力から追い詰められているのだから怒りや憎しみをたぎらせて戦わねばならない、と彼らはいう。だったら、人と人の関係においてもそうなのかといえば、人は怒りや憎しみをたぎらせながら病んでゆくのであり、そんな怒りや憎しみを飼い慣らして生きていれば、けっきょく人に嫌われる。魅力的な人間にはなれない。その心の底の怒りや憎しみは、どんなに隠そうとしても「気配」としてあらわれてしまうのであり、「気配」に気づくことができるのが人の心なのだ。
たぶん、追いつめられたら、「かなしみ」とともに消えてしまえばいいのだろう。自分を消してしまうしかない。「自分を大切にしなさい」といわれても、大切にしていたらますます怒りや憎しみが膨らんできてしんどくなってしまう。怒りや憎しみばかりをたぎらせていたら、今どきの一部の「ひきこもり」のように、自家中毒を起こしてますます追いつめられてゆく、ということになる。
現代社会は、「自分を消す」すなわち「しぐれてゆく」ということをさせてくれない。
「しぐれてゆく」とは「消えてゆく」こと。消えてゆくことのカタルシス(浄化作用)を生きること。
かなしむことができる人の心は解き放たれている。「消えてゆく」というかたちで解き放たれている。心はそこから華やぎときめいてゆく。