無力で愚かな存在であるということ・ネアンデルタール人論126

心がひっそりと沈んでゆくこと、それを「しぐれる」といい、しぐれていったその先に「かなしみ」があり、心はそこから華やぎときめいてゆく。
怒りや憎しみがなにか人間的な複雑で高度な心のはたらきであるかのようにいわれることも多いが、怒りや憎しみは猿でも持っている。そうやって彼らはテリトリー争いや群れの中での順位争いをしたりしているわけで、チンパンジーなどは、偵察に来た敵対する群れの猿を見つけてみんなでなぶり殺しにしてしまうということもする。
人類の怒りや憎しみは、文明社会の発展とともに肥大化してきた。そうやって、猿のテリトリー争いのような戦争の歴史を歩んできた。
原始人が現代人よりも猿に近い存在だと考えるべきではない。
人類は、二本の足で立ち上がることによって、猿とはまったく異質のメンタリティや生態で歴史を歩みはじめたのであり、現代人よりも原始人のほうがずっと猿とは異質の存在だったのだ。原始人のほうが、ずっと人間として本質的で自然な生き方をしていた。
あえて言い切ってしまえば、原始人には怒りや憎しみなどなかったのだ。彼らは、猿よりももっと弱い存在としてあえぎあえぎ生きていたから、怒りや憎しみで殺し合っている余裕などなかった。原始人がそんなことをしたがる存在であったのなら、人類はとっくに滅びている。彼らはもう、ひたすら他者にときめき、誰もが他者を生かそうとしながら生き残ってきたのだ。
猿の生態を研究すれば人間のことがわかるとか、そんなことがあるものか。原初の人類は、二本の足で立ち上がることによって猿とは異質の存在になったのだ。猿よりも弱い猿になったのだ。そうやって「しぐれて」いったのだ。そうして、そこから心が華やぎときめいていったのだ。
「ときめく」という心のはたらきは、死に対する親密な感慨の上に成り立っている。そうやって心がこの生の外の「非日常」の世界に超出してゆくことを「ときめく」という。
原始人は、生きてあることのいたたまれなさを死に対する親密な感慨としての「かなしみ」へと昇華してゆき、その「かなしみ」を共有しながら他愛なく豊かにときめき合いながら生き残っていった。少なくともネアンデルタール人は、そのようなメンタリティになるほかないような条件の中で生きていた。氷河期の北ヨーロッパという原始人が生きられるはずもないような苛酷な環境に置かれていたのであれば、彼らほど生きてあることのいたたまれなさを身にしみて深く体験していたものたちもいない。そこでは、人が次々に死んでいった。死ぬことを嫌がっていたら生きていられない環境だった。彼らほど死と和解していたものたちもいない。そうして、その「かなしみ」から心が華やいでゆき、他愛なく豊かにときめき合いながらフリーセックスの社会をつくっていた。
彼らは、誰も他者を「独占」しようとしなかった。そういう密着した関係になろうとしなかったから、フリーセックスの社会が成り立った。子供だって、現代人のように親が「独占」して育てるということはしなかった。集団のみんなで育てていた。世にいう「母と子の一体感」などというものはなかった。西洋人の「孤独」の伝統は、おそらくそこからはじまっている。西洋人の母親はむやみに子供をかまわないし、子供も、あまりかまわれたがらない。
「共生関係」は、文明社会の病理なのだ。原始人の社会に、そんな密着した関係はなかった。人の心の自然は、死に対する親密な感慨とともに、この生から超出してゆこうとすることにある。そうやって「しぐれて=消えて」ゆき、その「解放感=カタルシス(浄化作用)」とともに心が華やぎときめいてゆく。まあ極限的に苛酷な環境に置かれていたネアンデルタール人は、そういう心模様にならないと生きられなかった。つまり、究極の人間性の自然がそこにあった、ということだ。
原始人があんなにも過酷な環境に住み着けば、誰もが「無力」な存在になるほかなかった。そして、もっと住みよい暖かい土地に移住してゆかないなんて、なんと愚かなことだろう。
人は、人間性の自然として、無力で愚かな存在になろうとする衝動を持っている。それが「しぐれて=消えて」ゆくということであり、因果なことに心はそこから華やぎときめいてゆく。ネアンデルタール人は、そのころの世界中の誰よりも心が華やぎときめいている人たちだった。だから、暖かい南の土地に移住してゆかなかった。
この世界の輝きに対するときめきが、人を生かしている。
原初の人類が二本の足で立ち上がっていったことは、猿よりも弱い猿ととして、無力で愚かな存在になってゆくことだった。しかし心は、そこから華やぎときめいていった。そうして命のはたらきも活性化してゆき、一年中発情しながらフリーセックスの生態を持つ猿になり、どんな住みにくいところにも住み着いてゆくことができるようになっていった。それはつまり、無力で愚かな存在として生きることができる、ということであり、しかしそこから心が華やぎときめいてゆき、人間的な知性や感性を進化発展させてきた。
生き延びることができる大人の知恵や人格などというものが人類史に進化発展をもたらしたのではない。原始社会は、「大人」がリードするような構造にはなっていなかった。ネアンデルタール人だろうとクロマニヨン人だろうと、40歳を過ぎればもう、介護される老人だったのだ。彼らは生き延びようとする欲望で生きていたのではない。「もう死んでもいい」という勢いで心が華やぎときめいてゆくことによって生き残っていったのだ。
「大人」という人種が人類の歴史をつくってきたという前提で考えると間違う。
この国の江戸時代だって、40歳前後で隠居する人はいくらでもいた。
人の心は、しぐれてゆくことによって華やぎときめいてゆく。心の底にしぐれてゆく「かなしみ」を持っていないと世界の輝きにときめいてゆくことはできないし、人にときめかれる魅力的な存在にもなれない。
ネアンデルタール人の社会においては、誰もが人にときめきときめかれていた。そういう集団にならないと、あんな苛酷な土地では生きられなかった。彼らは、誰もが無力で愚かな存在になることによって生き残っていった。人類は、無力で愚かな存在になることによって文化を進化発展させてきた。
生きられない無力で愚かな存在としてかなしみしぐれてゆく……それが人の心の通奏低音になっている。
しかし、無力で愚かな存在でいいのだと開き直ることはできない。そのことをひたすらかなしみしぐれてゆくことができるかとわれわれは試されている。人が猿よりも豊かにときめく心を持っているとすれば、そういう通奏低音がはたらいているからであり、そこにこそわれわれのこの生の「解放=救済」があるのではないだろうか。