世界を支援せよ・ネアンデルタール人論127

フランツ・カフカは「自分と世界の闘いにおいては、世界を支援せよ」といった。
つまり、生き延びようとなど思うな、ということ。自分は正しいなどと思うな、ということ。この生にはなんの価値もない。人は根源において生き延びようとする衝動など持っていない。ただもう、「世界の輝き」に反応しながら生きているだけのこと。「世界の輝き」が人を生かしている。そうやって「世界を支援する」ことが生きることだ。
われわれは、生きるに値しない生を生きている。
この生なんか、どうでもいい。ただもう「世界の輝き」に生かされているだけのこと。心はすでに「世界の輝き」にときめいてしまっている。生きるに値しない生なのに、生きてしまう。生きるに値しない生を生きているものこそ、「世界の輝き」にもっとも深く豊かにときめいている。


人類の生態を、「生き延びるための戦略」という問題設定で考えるべきではない。人が根源・自然においてそのような欲望をたぎらせている存在であるのなら、原始時代の人類拡散という、何もわざわざ住みにくいところに移住してゆくということはしない。そうして今ごろは、チンパンジーやゴリラと同じように、住み慣れたアフリカ中央部の森にしがみつきながら絶滅危惧種になっているだけだろう。
いや、もともと二本の足で立ち上がって猿よりも弱い猿になってしまったのだから、すでに絶滅してしまっているのかもしれない。
人類は、生存できる住みよい土地を捨てて地球の隅々まで拡散していった。「生き延びるための戦略」がその生態の中心であったのなら、なにをわざわざ好き好んで氷河期の極北の地という生きられない土地に住み着いていったりするものか。その「生きられなさ」こそが、ネアンデルタール人をそこに住み着かせた理由だった。その「もう死んでもいい」という死に対する親密な感慨とともに心は華やぎときめいてゆき、社会の動きが活性化していった。
人類の生態は、死に対する親密な感慨の上につくられてきた。死に対する親密な感慨とともに、文化という人間的な知性や感性が進化発展してきた。人の心の自然は、「生き延びようとする」のではない、「生きられなさを生きようとする」ことにある。心は、そこから華やぎときめいてゆく。


お金が入れば、お金を使いたくてうずうずしてくる。それだって、生きられない愚かで無力な存在になろうとする衝動なのだ。お金は生き延びることを保証してくれる大切なアイテムなのだから、使わないで貯めこんでおいた方がいいに決まっているのに、使いたくなってしまう。
言い換えれば、生き延びようとする自意識のぶんだけ貯金に回す。今どきは生き延びようとする欲望が肥大化している世の中だから、企業も個人もせっせと貯金したがる。
アウトレットとか100円ショップとかの安価な商品に人気が集まるのはお金を使いたがらなくなっているのだろうし、それだけ生き延びようとする自意識の欲望が肥大化している世の中であり、「もう死んでもいい」という勢いでときめいてゆく心意気が停滞・衰弱しているのかもしれない。
生き延びることが至上の命題の世の中だ。そうやって現代人の心が病んでいる。そうやって自意識の満足ばかり欲しがって、世界の輝きにときめいてゆくという心模様が停滞。衰弱している。
誰もがときめかれたがるばかりで、ときめいてゆく心が希薄になっている。


「自分を愛するように人を愛する」とか、そういう問題じゃない。自分なんか愛せないし、人から愛されていることなんかわからないし、愛されたからといってこの生のいたたまれなさからの解放にはならない。愛されるなんて、そんなふうに関係が密着してしまえば、鬱陶しいだけじゃないか。そんなことはすべて忘れて自分から一方的にときめいてゆことによって、はじめて心は解き放たれる。
ときめかれることの自我の満足はあろうが、そうやって満足することで、すでに世界に向かってときめいてゆく心の動きを停滞させている。
自分など忘れて一方的にときめいてゆくところにこそ、人間性の自然がある。そういういたたまれない生のかたちを抱えてしまっているのが人間なのだ。二本の足で立っていることの実存的ないたたまれなさ、そしてこの世に生まれ出てきたことは取り返しのつかない過失であり受難であると自覚する観念的ないたたまれなさ、そういういたたまれなさからの解放として「ときめく」という体験をする。
まあそれに人は、生きることにまったく無力な存在としてこの世に生まれ出てくる。そのいたたまれなさで、赤ん坊は泣いてばかりいる。
その乳幼児体験によって心のかたちの基礎がつくられ、それを携えて生きてゆくのだ。
べつに愛されることを当てにする必要など何もないし、「自分を愛する」なんて、世界の輝きに対するときめきが希薄になってゆく心の病以外の何ものでもない。現代人は、そうやって世界を意味や価値で裁量することばかりしている。世界は存在そのものにおいて輝いているというのに。
目の前に「あなた」が存在するということそれ自体の事実によって、この生のいたたまれなさが救済されるということはあるのだ。
べつに自分の存在や人生に正当性を得るためにときめいてゆくのではない。自分を愛するなんて、病気なのだ。そうやって心は停滞・衰弱してゆく。自分の存在も人生もどうでもいいのであり、世界が輝いているというそのことだけが、いたたまれないこの生の救済になる。


幼児が執拗に「何?なぜ?」と聞きたがるのは、そうやってつねに意識を自分から引きはがして世界に向けようとしているからであり、それほどに生きることに無力であることのいたたまれなさが骨身にしみているからだろう。しかし、だからこそ自分を忘れて「世界の輝き」にときめいてゆく。その好奇心、彼らの前で世界は輝いている。
人の赤ん坊は、絶望的に無力な存在として生まれてくる。彼らは、その「生きられなさ」を生きている。その「生きられなさ」が、彼らの心をつくっている。彼らにとっては「生きられなさ」こそがこの生の正味のかたちなのだ。
「わからない」ということは、ひとつの「生きられなさ」であり、つねに「生きられなさ」の場に立ってしまうことが彼らの習性なのだ。そうやって「わからない」ということに憑依し、執拗に「何?なぜ?」と問うてくる。
そういう「問い」を持っていることこそ、猿とは違う人の人たるゆえんであり、それは、自分に向いている心を引きはがして自分の外の世界に向けてゆくことだ。
「問う」ことは、ひとつのときめきであり、われわれはその習性を携えて生きはじめる。なのにいまどきの大人たちは、「問う」ことを忘れ、世界のことも他者のことも、自分の物差しで勝手に決めつけることばかりしている。そうして、自分語りばかりしたがる。というか、自分語りしかできない。ネット社会でも、自分語りのブログが花盛りで、いろんな自分語りのネットワークがあちこちでつくられている。自分語りをしたほうがネットワークをつくりやすい。誰もが自分語りをしたがっていて、自分語りしかできないのだから。
自分語りをしたがるのは、生き延びようとする欲望だろうか。自分の生に執着しているから、それをせずにいられない。そうやって現代人の心は病んでゆく。
意識を自分から引きはがして世界の謎を問うてゆく……幼児はみんなそうしているし、そこにこそ人間的な知性や感性のはたらきの本質=自然がある。
単純にいって、この国の現在の大人たちは、何もかも自分の物差しで勝手に決めつけるばかりで、「問う」という好奇心が希薄になっている。つまり、「生きられなさを生きる」という幼児体験を喪失している。彼らは、平和で豊かな社会の右肩上がりの高度経済成長という時代の状況にそれを喪失させられて生きてきた。「喪失している」という自覚を失って生きてきてしまった。そういう幼児体験を失ったし、そういう「しぐれてゆく」というこの国の伝統文化を見失ってしまった。これが、戦後民主主義のなれの果ての姿なのだろうか。
意識を自分から引きはがして世界の謎を問うてゆく……それはもう幼児体験として誰もが通ってきた道なのに、平和で豊かな現代社会においてはその「幸せ」とやらに浸りながらやがて誰もが忘れてしまい、自分や自分の生に執着するようになってゆく。


幼児体験こそ、死に対する親密な感慨とともに「生きられなさを生きる」という人間性の自然=本質をもっとも切実に深く豊かに体現している。もともと人はその体験を死ぬまで引きずってゆくのであり、たとえ大人になっても、心はそこに向かって「しぐれて」いったところから華やぎときめいてゆくのだ。
今どきの大人たちは、「世界の謎を問う」という幼児の好奇心を失っている。「世界の謎」なんかわかっているつもりでいる。たとえば、「自殺したらいけない」と平気でいう。人はなぜ自殺するのだろう、という「問い」なんか持っていない。他者なんか「世界の謎」そのものの存在であるのだが、他者の心や人格がわかっているつもりになって、勝手に値踏みすることばかりしている。それはつまり、自分のもとに正義があると思っているということであり、自分は生きるに値する生を持っているつもりでいるということであり、平和で豊かな社会を生かされてきた結果として生き延びようとする自我の欲望が肥大化してしまっている、ということだ。「自分」を「支援」してばかりいる、ということだ。そうやって世界に対する警戒と緊張を生きながら、その唯我独尊の自閉症的な傾向によって社会的に成功したり、心を病んでいったりしている。
もちろん平和で豊かな社会が悪いわけではないが、平和で豊かな社会を生かされた結果として、世界に対する警戒心と緊張感が肥大化してしまうという皮肉なことになっている。
カフカのいう「世界を支援せよ」とは、世界に対して無防備になれ、無防備になってその輝きにときめいてゆけ、ということだろう。それこそが人類史の伝統であり、そうやってネアンデルタール人は、原始人が生きられるはずもないような氷河期の極北の地に住み着いていた。
無防備になったら生きられるはずもないのだが、その「生きられなさを生きる」ことこそが人間性の自然=本質なのだ。心は、そこから華やぎときめいてゆく。