感想・2018年11月21日

<戦後の女神たち・はた迷惑な世代>
人の心は、「喪失感」を抱きすくめながら華やぎときめいてゆく。それが大震災のときの「吊り橋効果」だったのだろうし、震災直後はひとまず誰もがそのような気分になっていった。それを、なぜすぐに打ち消し忘れてしまうのか。いまや、そのあげくに社会が分断され、どんどん病んだ状況になっていっている。
団塊世代は、右肩上がりの経済成長社会とともに「希望」ばかりを紡いで生きてきて、「喪失感」を抱きすくめてゆくということを知らない。まあ、日本人全体がそうなっていったともいえるわけだが、このところのたびかさなる大震災で、「喪失感を抱きすくめる」とか「死者と語り合う」という日本列島の伝統が一時的によみがえった。というか、その伝統が伏流水としてずっと流れていたことに気づかされた。それをすぐまた「希望」の名のもとに地下に封じ込めてしまっても、そういう瞬間があったという事実はもう消えない。
だから、「喪失感」を抱きすくめることのできない団塊世代はこれからも嫌われたままだろうし、これまで嫌われてきたのはそういうことだったのだ。
つまり、ずいぶん長い前置きになってしまったが、70年前の敗戦直後は「喪失感を抱きすくめる」とか「死者と語り合う」という日本列島の伝統がよみがえったのであって、けっしてただ単純に「アメリカナイズされていった」という表層的な風俗現象だけで説明がつくような時代ではなかった。
われわれは、敗戦後の時代を、日本列島の伝統を携えて歩みはじめたのだ。生まれたばかりの子供だった団塊世代はかんたんにその風俗に洗脳されていったとしても、日本人全体は喪失感を抱きすくめながら死者と語り合っていたのであり、その感慨を共有しながらときめき合い助け合う復興の歩みのダイナミズムを生み出していった。
またそれは、明治から敗戦までの時代がいかに日本人の伝統精神から逸脱してしまっていたか、ということでもある。そしてその「脱亜入欧」「富国強兵」のコンセプトは、そのまま団塊世代のメンタリティでもある。いや、その政治思想がどうのというのではなく、前のめりの上昇志向をたぎらせながらどんどん唯我独尊的になってゆくところが、だ。もちろんそういうタイプの人間はほかの世代にもいるが、団塊世代ほど多くはない。とはいえ、そういうタイプの人間が増えていっているのが現在の状況なのだろうか。団塊世代は、そういう騒がしい状況のトップランナーとして戦後社会を生きてきたし、そういう状況が震災の被災者をさらに孤独な場へと追い込んでいる。
震災後に世の中が多少なりとも変わったのなら、今ごろはもっと人々がときめき合い助け合う社会になっているはずだが、少しもそうなっていない。相も変わらず前のめりのヘイトスピーチばかり目立つ分断された世の中で、そうなった原因の一端は団塊世代にもあるだろうし、明治以来のなりふりかまわず近代化を急いできた歴史の遺産だともいえる。
前のめりの上昇志向など、日本列島の伝統でもなんでもない。
日本列島の伝統的な精神風土は、「喪失感=かなしみ」を抱きすくめてゆくことにある。心は、そこから華やぎときめいてゆく。われわれは、その「喪失感=かなしみ」を大震災の被災者と共有してゆくことができただろうか。その直後の一瞬はたしかにできたのだが、しだいに忘れていった。戦後の歩みの結果として、いまや忘れさせるような精神の退廃が蔓延してしまっている。
日本人は「世界の終わり」において伝統精神に目覚め、その「喪失感=かなしみ」を共有しながら集団を活性化させてゆく。それが、70年前のあの敗戦後の精神状況だったのであり、よくいわれている「あくなき生への希求」というような「上昇志向」として戦後復興がはじまったのではない。
「あくなき生への希求」によってもたらされるのは暴動や混乱であり、憎しみや怒りなのだ。また、現在の政治家や官僚が嘘をつき倒していることやネトウヨヘイトスピーチをまき散らして大騒ぎしていることだって、まさしく前のめりの「あくなき生への希求」から生まれてくるのであり、そうやって停滞し澱んだ社会状況になっている。それは、現在の社会状況をあらわしている病理であって、終戦直後は敗戦の「喪失感=かなしみ」とともにいったん洗い流したものだった。
この生は「もう死んでもいい」という勢いで活性化してゆくのであって、「あくなき生への希求」が肥大化すると、かえって停滞してゆき、憎しみや怒りの自家中毒を起こしてしまう。

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