まだ生きている・ネアンデルタール人論123

この社会はうんざりするほど愚劣で、この生はわけもなくいたたまれない。
いたたまれないのはべつに社会のせいではないが、社会にうまく適合して生きているものたちにこの生の意味や価値を称揚して合唱されるのは、なんとも腹立たしく、「やめてくれよ」といいたくなってしまう。そんなことがあるものか。そんな意味や価値なんかどうでもいいし、生きてあるのは素晴らしいことだと勝手に決めつけてもらっては困る。
どこが素晴らしいのか?
人生が幸せで充実しているからか?
自分はかけがえのない価値ある存在だという自尊心を保てるからか?
そりゃあ、そう思いたければそう思い込むことはできるだろうし、それほど幸せで充実していなくてもそう思いたくてうずうずしている人もたくさんいる世の中だ。
そう思い込むことができる能力を持ったこの世の選ばれた人たちが、誰もがそう思いたがるように仕向けているという情況もある。
そう思いたくてうずうずしてしてしまう社会の情況がある。
この世の「人間とは何か?」ということの定義が、彼らによって決定されている。
人間とは、生きてあることの意味や価値を求めて生きている存在なのか。生きてあることに意味や価値を見出さないと生きられないのか。
冗談じゃない、乞食やホームレスだって生きているのだ。彼らは、そんな境遇になってもまだ、自殺するほどには悲観していない。彼らの生に、どんな意味や価値があるというのか。意味も価値もないさ。しょうもない人生さ。他人がそう思っているだけでなく、本人だってそう自覚している。頭は悪いし、金もないし、性格もだらしないし、友達や恋人もいないし、家族からも見放されている。自尊心なんか持ちようがないほど、しぐれてしまっている。
それでも、まだ生きている。
それでもまだ生きているのは、彼らだって彼らなりに自分のまわりの「世界の輝き」にときめいているからだ。そうやってこの生にとどめ置かれている。空の青さが彼らを生かしている。風の匂いが彼らを生かしている。まあ「河原乞食」というくらいで、川の流れというのは人を生かす何かがあるのかもしれない。ともあれ、森羅万象の輝きが彼らを生かしている。
人は、みずからの生に意味や価値を見出し自尊心を保つことができなければ生きていられなくなるのではない。「世界の輝き」にときめいていたら生きていられる。そういうことを彼らが教えてくれる。
言い換えれば、「世界の輝き」にときめく心を失ったものは、みずからの生に価値や意味を見出し自尊心を保たなければ生きていられない、ということだ。今どきの「命の尊厳」という合唱なんか、ようするにそういうことであり、そういうときめく心を失った現代社会の病理のあらわれだといえなくもない。
何が悲しくて、この生に意味や価値があるとか、自分はかけがえのない存在だと思わなければならないのか。
この生はいたたまれない。自分なんか生きていてもしょうがない存在であり、この世に生まれ出てきたことは取り返しのつかない「過失」であり「受難」だ。生きていてもしょうがないけど、「死にたい」と思うほど自分に執着することもできない。決着をつけねばならないほどの命なんか持ち合わせていない。どんなに人生がしぐれてゆこうと、これ以上自分の人生を汚したくないとか、そんなご立派な自分も人生も持ち合わせていない。しかしだからこそ自分やこの生のみじめさも忘れて「世界の輝き」にときめいてゆけるわけで、そうやって乞食やホームレスはまだ生きている。彼らには彼らの心の華やぎがあるし、この生の意味や価値に執着している「幸せな市民たち」の心のほうがよほど停滞・衰弱してしまっている。
生きてあることはいたたまれないばかりで、この生に意味も価値もないからこそこの生や自分を忘れて「世界の輝き」にときめいてゆくことができるのであり、根源的にはその体験こそが人を生かしている。そういうことを、乞食やホームレスの「まだ生きている」という生が証明している。
この生の意味や価値が欲しいとか、自尊心に支えられて生きているなんて、病気だよ。
この世に生まれ出てくることは、取り返しのつかない「過失」であり「受難」なのだ。それでいいじゃないか。それでも人は生きているのであり、それだからこそ、ひとつの「解放=救済」としての人間的な「ときめき」が体験できるのだ。
人は、この生に潜り込むことによって生きるのではなく、この生から解き放たれる体験に生かされているのだ。
乞食やホームレスは、空の青さを仰いだり川の流れを眺めたりしながら何を想っているのだろうか。もしかしたら、「幸せな市民たち」よりもずっと深く豊かな「ときめき」を体験しているのかもしれない。「幸せな市民たち」にはできるはずもなかろうが、そこまでしぐれていってみるのも悪くないかもしれない。そこまでしぐれてゆかないと体験できない何かがあるのかもしれない。
人としての「裸の心」を持てもしないくせに、この生の意味や価値など語られても鬱陶しいばかりだ。自尊心もいらない。この生は、取り返しのつかない「過失」であり「受難」なのだ。そのことを自覚した裸のひりひりした心のままにしぐれてゆくことができるのなら、それこそがもっとも人としての自然な生のかたちであるのかもしれない。
世界に対して無防備にならないと、世界の輝きにときめいてゆくという体験はできない。
まあ原始時代の人類拡散はどんどんより住みにくい土地に移住してゆくというまさに「無防備」な「しぐれてゆく」体験だったのであり、その果てに氷河期の北ヨーロッパに住み着いていたネアンデルタール人は、そうやって人類史の文化が花開いてゆく基礎になった人々だった。そうやって、誰もが他者の生贄になって、他者を生かそうとしていった。そしてそれは、彼らの心がそれほどに深く豊かにときめいていたということを意味する。
人の心は、死に対する親密さとともにしぐれていったその果てで華やぎときめいてゆく。死に対する親密さとともに人類史の文化が花開いてきたのであって、生き延びるためだったのではない。「もう死んでもいい」としぐれていったのだ。
自尊心を保つことにこだわっていたら、人を好きになることなんかできない。
自尊心を保つことにこだわっている人間がどれほど人に対して鈍感であることか。
この生の意味や価値などどうでもいい。そんなものは知らない。
無防備な裸の心のままにしぐれてゆくのも悪くない。