鬱の時代34・消えようとする衝動

生きものは「生きようとする衝動」で生きているのではなく、生きものを生きさせているのは「消えようとする衝動」なのだ……といっても、にわかには誰も聞いてくれそうもない。
僕はこのことを、自己満足のたんなる文学的哲学的なレトリックとして提出しているのではない。
大真面目に、生物学の基礎の問題として考えたいのだ。
「生きようとする衝動」というほうが、よほど非科学的でセンチな物語に過ぎないと思う。
なぜ「消えようとする衝動」で生きているかというと、生きものが自覚している身体は、目に見える「画像としての身体」や、肉や骨の「解剖学的な身体」ではなく、たんなる「空間としての身体の輪郭」だと思えるからだ。その身体のイメージは、消えないと浮かび上がってこない。自分が消えている状態において、はじめて自覚される。
息をすれば、胸の息苦しさが消える。腹が減ってものを食えば、腹のうっとうしさが消える。そうしてそのとき意識は、身体をたんなる輪郭を持った空間として自覚している。身体が消えている状態が、生きた心地なのだ。生きものは、不可避的にその状態であろうとする。それが、「消えようとする衝動」だ。
くらげ以下の下等動物は、目なんか持っていない。彼らに「画像としての身体」のイメージはない。また「解剖学的な身体」を意識するのは身体の危機のときだけだけであり、その身体感覚を消してゆくことが生きるいとなみになっている。それらの身体が消えれば、「空間としての身体の輪郭」である「非存在の身体」が浮かび上がる。そのために、「画像としての身体」も「解剖学的な身体」も消してゆく。
消さなければ、体はうまく動かない。すなわち、生きていられない。
狭い岩と岩のあいだをすり抜けてゆく魚は、みずからの「身体の輪郭」のパースペクティブを完全に把握している。その行為において、「画像としての身体」も「解剖学的な身体」も、なんの役にも立たない。
体の動きは、あくまで「空間としての身体の輪郭」を操作することによって成り立っている。
無数に群れ集まっている小魚が外敵から逃げるとき、群れを維持しながらしかもけっして体をぶつけ合わない。その「空間としての身体の輪郭」は、「画像としての身体」や「解剖学的な身体」を消してゆくことによってはじめて浮かび上がる。
群れをつくるためにもっとも大切なことは、体をぶつけ合わない、ということだ。そのためには、「空間としての身体の輪郭」をはっきりと浮かび上がらせておく必要があり、その認識は「消えようとする衝動」の上に成り立っている。
いや、それはおそらく、群れをつくろうとつくるまいと、そして微生物から人類までのすべての生きものに共通の衝動にちがいない。その衝動によって、生きものの体は動いている。
精神疾患を持っていようといまいと、われわれは「画像としての身体」や「解剖学的な身体」を消すという命題を負って生きている。
生きものの体の動きは、「消えようとする衝動」の上に成り立っている。それで生きることもできれば、自殺してしまうこともある。生きてあることは、危ない綱渡りなのだ。
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「消える」とは、「空間としての身体の輪郭」になってしまうこと。
畑に農薬をまき続けると、害虫は、やがて農薬の毒素に耐えられる個体に変わってくる。そのとき害虫は、身体を「空間としての身体の輪郭」として扱って生き延びてきた。農薬の毒素を身体から排出するというホメオスタシスは、身体を消して「空間としての身体の輪郭」になるはたらきにほかならない。「解剖学的な身体」は農薬の影響をこうむるが、「空間としての身体の輪郭」は農薬をスルーしてしまう。そして「空間としての身体の輪郭」として自覚していれば、苦痛もない。
苦しむものは、身体を消して「空間としての身体の輪郭」になろうとする。この生は、身体を消して「空間としての身体の輪郭」になろうとするはたらきとして成り立っている。
生きものは、「苦しむもの」なのだ。あなただって、腹が減ったらうっとうしいだろう。硬い石に膝小僧をぶつければ痛いだろう。今年の夏は、うんざりするくらい暑かっただろう。生きてあることは、苦しむことだ。だからこそ、そこからカタルシス(浄化作用)という醍醐味がやってくる。
生きることは大切でよろこびにみちたことであらねばならない、と思う必要なんか何もない。苦しむもののほうが、生きてあることの醍醐味を深く体験しているのだ。
だからネアンデルタールは、あえて氷河期の極北の地で暮らし続けた。だから、農薬をまかれても逃げていかない害虫がいる。
かんたんに「下部構造決定論」などといってもらいたくはない。生きものは、生きようとして生きているのではない。生きることの大切さやよろこびを求めて生きているのではない。そんな衝動は、ただの制度的な観念のはたらきにすぎない。そんなこと以前に、まず「苦しむもの」として生きてあるのだ。
生きることは、死ぬかもしれないという「危機」に置かれていることだ。すべての生きものは、そういう「危機」を生きているのだ。
生きるとは、「危機」を引き受けることだ。だからネアンデルタールは、氷河期の極北の地に住み着いた。だから、農薬をまかれても逃げていかない害虫がいる。そして、逃げてゆくということ自体が、「今ここ」から消えてゆくという行為なのだ。
苦しむものは、消えようとする。この衝動によって生きものは生きてある。
苦しむ身体は、消さねばならない。そうして、「空間としての身体の輪郭」が浮かび上がる。われわれ生きものは、この「非存在の身体」によって生きてある。だから、消えようとする。
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苦しむものは、消えようとする。それが、生きものの根源的な衝動だ。
だからわれわれは、鬱病などの精神疾患を負って自殺してしまう行為を否定できない。生きもののすべての行為には、消えようとする衝動が作用している。その衝動によって生きることが可能にもなるし、死に誘われもする。それはもう、紙一重のことなのだ。
生きものは、生きてあることから追いつめられて存在している。だから、人間のような観念的な存在になったら「自殺願望」が生まれてくるのも避けがたいことであり、それもまた自然の摂理なのだ。
生きることはすばらしいだとか大切なことだというようなあなたたちの正義の論理で、いったいどれだけの「自殺願望」を思いとどまらせることができたか。ちっとも成果は上がっていないじゃないか。むしろ、あなたたちのその論理こそが、彼らの自殺願望をさらに手離せないところに追いつめているのだ。
あなたたちのその正義が、この世に自殺願望を蔓延させているのだ。
人間=生きものは、追いつめられる状況を引き受けてしまう習性を持っている。消えようとする衝動のダイナミズムは、そこでこそ生まれる。そこでこそ「非存在の身体の輪郭」が浮かび上がる。追いつめられていなければ、消えてゆくカタルシスも味わえない。
ザ・フーピート・タウンゼントは、「生きてあることは薄い氷の池でスケートしているようなものだ」といったが、まったくそのとおりだと思う。
われわれは、根源的に、追いつめられて生きてある。
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生きものの体が動くことは、「今ここ」から消えようとする衝動の上に成り立っている。その行為は、「非存在の身体の輪郭」によってなされている。「非存在の身体の輪郭」の自覚は、消えようとする衝動からもたらされる。
だから、消えようとする衝動が切実な分裂病者は、まわりのものをすべて「非存在の身体の輪郭」として取り込んでしまう。世界との関係を喪失しているから、どうしてもそうなってしまう。そのとき「世界」が、彼にとっての「この身体」になってしまう。
生きものは、消えようとする。消えて、「非存在としての身体の輪郭」を浮かび上がらせる。
社長室のふかふかの椅子に座って「俺も出世したものだ」と思う。それは「達成感」か。それもあるかもしれないが、そのとき根源的には、出世していない頃の自分を消去している、という心の動きがはたらいている。だから彼は、出世していない人間を差別して人間の範疇から消去しにかかる。
幸せな人間は、幸せでない人間を差別している。まあ、そういうことだって、生きものは「消えようとする衝動」で生きている存在だからだ。
「消えようとする衝動」で生きているから、他人を差別して消去しにかかる。
「ハングリー精神」などという。それだって、ハングリーな自分を消去しようとする衝動だろう。
女のオルガスムスとは、自分が消えてゆく恍惚であるらしい。ここにこそ、生きものの根源的な衝動のダイナミズムがある、もっともラディカル(過激で本質的)な生きてある体験がある。
生きものは根源において、自分を拡大してゆく「達成感」で生きているのか、それとも「消えようとする衝動」で生きているのか。これは、正反対の心の動きである。社会は、「達成感」を求めて生きよ、と迫ってくる。そのスローガンが、われわれを追いつめてくる。
「達成感」を得ることが生きてあることの醍醐味だという制度的なお題目にしがみついて生きていると、「消えようとする衝動」を失い、「非存在の身体の輪郭」も失ってしまう。そうして、鈍くさい運動オンチになったり、インポになったりしてしまう。
大人になってからそのスポーツをはじめた人と子供のときからやっている人とではフォームのなめらかさが明らかに違う、といわれている。大人になると社会の制度性にまみれて、どうしても「達成感」で生きる観念性が染み付いてくるからだ。仕事をすることは「達成感」を紡いでゆくことだから、しょうがないよね。その「消えてゆく」タッチが鈍くなってしまった観念性が、そのフォームをぎこちなくさせている。
スポーツだけでなく、芸術の世界だって、まあそういうことかもしれない。
人間は制度的な生きものだ、といって居直っているやつらがいる。そういう連中が「下部構造決定論」にしがみついている。
しかしわれわれの誰もが、そうした制度性からいくぶんかは解放されている子供時代を経て生きてきたのだ。生きているとだんだん制度性に取り込まれてゆく、ということはあるかもしれないが、人間の本質は制度性だと居直ることもあるまい。人間だって生きものだし、生きものとしての与件の上にものを考えたり体を動かしたりして生きているのだ。
社会の制度性(公共性)は、生きものとしての与件の上に生きようとしている人たちを追いつめてしまう。社会の制度性(公共性)に追いつめられたら、生きものとしての与件の上に生きようとしてしまう。
人間は制度的な生きものではない。制度的であることと生きものとしての根源とのバイブレーションを生きている存在である。そしてそのとき制度性は人間を追いつめるものとして機能しているのであり、だからこそそこから逸脱して生きものとしての与件に回帰してゆくカタルシスも深くなる。われわれは、そういうバイブレーションを生きているのだ。
人間は制度的な生きものだと居直るな。そんなことをいっているからおまえらはいつまでたっても鈍くさい運動オンチであり、ときにインポにもなっちまうのだ。
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僕は四十代のなかばころに知り合いから誘われてテニスを始めた。まあお付き合いのお遊びとして週に一回やっていた程度だが、もう少しうまくなろうとあるときテニススクールにいってみると、(内田先生の武道のように)社会人になった二十代三十代からかなり熱中して本格的にやっている人たちがいた。
でも、彼らがどんなに上手くても、そのフォームは、子供や若者のそれに比べてどこかぎこちなさが付きまとっている。
彼らは、僕に対抗心を燃やしてきた。僕はへたくそで我流のテニスだったけど、フォームだけは、彼らよりも子供や若者に近かった。彼らは、それを認めたくなかった。でも、悪いけど、他の人から「子供のころかやっていたのか」とよく聞かれた。コーチからも聞かれた。
しかしその代わり僕は、彼らよりもずっと社会の制度性(公共性)になじめない愚かさに悩まされ続けて生きてきた。で、ある男が、それで差し引きゼロだから何も内田先生を目のかたきにすることもないでしょう、といった。
そういう問題じゃない。それで彼らのいう「人間は制度的な生きものだ」という認識が真実だと居直られたらたまらない。この広い世の中には、僕よりももっと遅くからテニスを始めてもっとスムーズなフォームでプレイすることができる人はいくらでもいるにちがいない。だいいち子供や若者は、僕なんかよりももっとスムーズに体を動かしている。
社会の制度性(公共性)から逸脱(脱落)しているものは、より生きものとしての与件にしたがって生きてある、それだって人間の真実であるはずだ。
人間は、社会の制度性(公共性)だけで生きているわけではない。内田先生のように、社会の制度性(公共性)を身につけることこそ身体をマネージメントする能力だと居直られたら、そりゃあ「そんなことあるものか」といいたくなってしまう。そんなことをいうのなら、俺よりもスムーズなフォームでプレイして見せろ、といいたくなってしまう。
コミュニケーションの能力が身体をマネージメントする能力なんだってさ。そうじゃない、コミュニケーションが下手で世界と和解できない悲しみが、身体をマネージメントする能力になる。その悲しみを携えて人は、豊かに世界に反応してゆくのだ。子供や若者は、そういう「悲しみ」を携えて生きている。
身体をマネージメントする能力は、内田先生のような、身体をどうこうしようとする意識の上に成り立っているのではない。身体のことなんか忘れて無邪気に世界に反応してゆくときに、身体はスムーズに動く。だから、子供や若者の身体はスムーズに動く。
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スポーツ選手は、体のことを忘れて動いているから、あんなにもスムーズに動けるのだし、そのぶん怪我も多い。
運動神経とは、体を消す感覚である。
人類は、直立二足歩行をはじめることによって、この不安定な姿勢の身体が世界と和解できていないことの悲しみやいたたまれなさと、それを消そうとして身体が消えてゆくことのカタルシスを体験する生きものになった。この振幅の上に、われわれの生きてあるいとなみが成り立っている。
人間は、猿よりも「身体能力」は劣っているが、猿よりも「運動神経」においてまさっている。猿は、人間のようにバットや刀を操作することはできない。ピッチャーのようなフォームでボールを投げることはできない。ダンスも上手くできない。おかまのように、女っぽいしなをつくることもできない。上手に乳房を愛撫することもできない。フェラチオだって、やらせても、生まれてはじめてそれをする女よりも、きっとへたくそだろう。
人間がそんなことを上手にできるのは、世界と和解しているコミュニケーションの能力によってではない。世界と和解できない悲しみやいたたまれなさを持っているからだ。
おまえらみんな、俺よりもテニスのフォームが野暮ったかったじゃないか。
だからといって僕が、上手に乳房を愛撫できるわけではないですよ。人それぞれの領分というものがあって、そういうことは怖くてあまり上手くできない。
いずれにせよ、われわれのこの生は、「無力」であることや「無知」であることの悲しみやいたたまれなさの上に成り立っている。消えようとする衝動である運動神経は、そういうところから生まれてくる。われわれは、世界に対して「なぜ?」と問うてゆく存在である。それは、世界と和解できない悲しさやいたたまれなさの上に成り立っている。
人間は、存在そのものにおいて、世界と和解できない悲しみやいたたまれなさを負っている。その悲しみやいたたまれなさを消そうとするところから、人間的な知能や運動神経が生まれてくる。
つまり、生きものは「消えようとする衝動」を持っているからそういう「進化」とやらも起きてくる、ということだ。
幸せなやつらがのさばって自分たちを正当化することばかりしている世の中だから、生きてあることの悲しみやいたたまれなさと向き合っている人たちがどんどん追いつめられていかなければならない。「今ここ」から消えようとしている彼らこそじつは、人間であることの根源を生きているのだ。消えようとする衝動をなくした幸せな自分を正当化することばかりしていないで、そこのところをわれわれが自覚したところから、「鬱」をはじめとする精神疾患の研究がなされるべきではないだろうか。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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