「漂泊論」・52・消えようとする本能

   1・道を歩いていて人とぶつかりそうになったら思わずよける
J・ラカンをはじめ、人と人の関係の本質というか自然を「鏡像関係=対称性」で考えている知識人は多い。しかしこれは、この社会の制度的な思考であって、原初的な意識のかたちではない。
そうやってこの社会の制度性に囲い込まれた思考しかできないくせに、みんなしてそれが本質=自然だと合唱してやがる。
道を歩いていて人とぶつかりそうになったら思わずよける……これが、他者の身体を前にしたときの生き物の本能的な「反応」である。
生き物は、他者の身体を前にして同じ動きをしようとするのではなく、みずからの身体を他者の身体の前から消そうとする。
好きなものどうしはくっついていって抱き合うではないか、日本人どうしだって、同じようにお辞儀という動作をするではないか……というが、人は抱き合うことによって自分の身体が消えて相手の身体ばかり感じているのであり、そのとき日本人どうしだって、相手の前から自分を消す作法としてお辞儀をしているのだ。
人や車とぶつかりそうになって、思わずしゃがみこんでしまう……これだって、消えようとしている反応なのだ。蛇に睨まれて動けなくなっている蛙だって、そのときけんめいに消えようとしているのだ。
野球の外野手は、自分の正面に飛んできたライナーの打球に対して一瞬動けなくなり、そのまま頭の上を越されてしまうことがある。なぜすぐにバックしなかったのかといわれても、その瞬間なぜか体が動かなくなってしまった。そのとき、彼の意識の中で、自分の体が消えてしまったのだ。
相手と同じになることが、人と人の関係の本質=自然であるのではない。
人と人の関係の本質=自然は、自分に向かう意識を消して(自分を忘れて)相手のことばかり感じてゆくことにある。
そのとき(根源的本能的には)、相手と同じことをしようというような自分に対する関心は消えている。
自分を消すことが、他者と関係することの本質=自然なのだ。
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   2・生き物としての自然はそのようになっていない
生き物には、自分を消そうとする本能がそなわっている。生き物の根源的な生態としての「生物多様性」とか「共存共貧」ということだって、この本能があってこその話だ。
すべての生き物は、生きられるぎりぎりの条件で生きている。それはつまり、消えようとする本能で生きている、ということだ。だから、同じ地域に多様な生物が生存できるし、「森」という状況が成り立っている。
そのとき森の一本一本の木は、それぞれが生きられるぎりぎりの条件で、より豊かに華々しく生きようとするのではなく、「消えようとする本能」で生きている。だから、それぞれがまわりの木の成長を妨害することなく、密集した森になることができる。
原初の人類が二本の足で立ち上がったことだって、誰もが消えようとして、みずからの身体の占めるスペースを狭めてゆくようにして立ち上がっていったのだ。そして、生き物は本能としてきようとする衝動を持っているから、その姿勢になったための生きにくさを引き受けていったのだ。
そのとき人類は、二本の足で立ち上がることによって生きやすくなったのではない。猿よりももっと弱い猿になって逃げ隠れして生きるようになった。それでも逃げ隠れして消えようとすること自体が、生き物の本能であり必然だったのだ。べつに生き物としての本能を放棄したのではない。ほかの猿よりももっと、より根源的に本能に遡行していったのだ。
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   3・身体の運動共鳴、という制度性
相手と同じことをしようとするのは、身体に組み込まれた本能的な衝動ではなく、この社会の制度的な観念のはたらきにすぎない。
鏡の中の自分は、自分と同じように動く。そのようにして他者を支配し、他者から支配されて他者と同じことをして喜んでいるのは、共同体の制度に飼い馴らされた観念の習性にすぎない。
だから、他者を支配したがるものほど、他者にへいこらして他愛なくよろこんでもいる。
共同体の制度は、みんなに同じことをさせようとする。
しかし、共同体(国家)などなかった時代の人々は、みんなが同じことをして連携していたのではない。彼らには、他者と同じことをしようとする飼い犬根性も、他者に同じことをさせようとする支配欲もなかった。
「鏡像関係=対称性」などという心の動きは、制度性という飼い犬根性と支配欲の別名にすぎない。
それは、消えようとする、生き物としての根源的な衝動を喪失している状態である。
言い換えれば、その根源的な衝動を失うことによって、他者と鏡像関係になることができる。そうやって現代人は、他者を支配したり他者から支配されたりする関係をつくっている。
支配し支配される関係にならなければ、同じ動きなんかできない。生き物としての根源的な身体性に、そのような関係性は組み込まれていない。
鏡の中の自分は、完璧に自分と同じ動きをする。まあげんみつには、自分が右手を挙げたら相手は左手を挙げているのだから同じとはいえないのだが、ひとまず自分が動くように動く。そのようにして鏡の中の自分は、完璧に自分が支配している。人はそれによって、鏡を見ているほんとうの自分が、鏡の中の自分から「愛されている」という思いを汲み上げる。そうやって現代人は、人を支配し人から支配されることのよろこびに目覚めてゆき、あげくにアホな知識人があらわれてきて、身体と身体はたがいに「運動共鳴」して同じ動きをしようとするとか、「鏡像関係」とか「鏡像段階」とか、そういう愚にもつかない概念で人間性の基礎を語ろうとしている。
人と人の関係性や連携の根源は、そういうところにあるのではない。
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   4・共同体は、人と人を鏡像関係にさせたがる
生き物の身体性は、消えようとすることが生きるいとなみになっている、ということにある。われわれの快楽(カタルシス)も人と人が連携することの根源的なかたちも、そのような「消えようとする」衝動(本能)の上に成り立っている。
「鏡像関係」を標榜する知識人が、人間の身体には他者と同じ動きをしようとする「運動共鳴」のはたらきが組み込まれている、などとおかしなことをいうとき、その基本のかたちとして、セックスとか集団のダンスをイメージしているのだろうか。
まあ、セックスも集団のダンスも、世界中の人間が共有している習性である。
しかしセックスの快楽は、同じように抱きしめ合っていても、そのとき自分の身体のことを忘れて(=自分の身体が消えて)相手の身体ばかりを感じていることにある。そうして、男と女の身体の構造の違い(非対称性)が、さらにその関係性をうながしている。
セックスは、「鏡像関係=対称性」の行為ではない。その行為の性格も、それによってもたらされる快楽のかたちも、生き物としての「消えようとする衝動」の上に成り立っている。
では、集団のダンスはどうか。
日本列島にも、盆踊りのようなみんなが同じ動きをするものがあるが、世界中どこでも、共同体の発生以後に、共同体の結束をつくるために生まれ育ってきたのだろう。他者と同じ動きをすることは、他者から支配され他者を支配している状態である。そういう関係になることによって、共同体の結束が生まれる。
こんなことを、原始人もしていたのだろうか。
もしもそれが原始的な集団性であるのなら、現代人はしないだろう。しかし、デモ行進とかスタジアムのマスゲームとか合唱とかオーケストラとか、現代人の方がもっとこのことに熱心である。
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   5・人間的な連携は、反応するという即興性にある
現代人の自己愛は、他者に同じ動きをすることを求め、他者と同じ動きをすることによって他者に愛を捧げている。そうやって「愛されている」という自覚を共有してゆくことが共同体の結束になっている。
自己愛とは、「愛されている」という自覚である。だから、他者との関係の中でしかそれを自覚できない。鏡に映った自分を見て確認されるのは、自分が鏡に映った自分を愛することではなく、自分が鏡に映った自分(=他者)から「愛されている」という自覚にほかならない。
集団のダンスは、原始的になればなるほど、「同じ動きをする」という要素が希薄になってゆく。
みんなでワイワイガヤガヤやっていただけである。これは、会話をすることだって同じだろう。彼らは、相手に同意を求めるというような言葉の使い方はしなかった。相手の「反応」をたのしんでいただけである。だから、言葉は、原始的であればあるほど、即興的になってゆく。
古代の「歌垣」は、みんなで集まり輪になって即興的な歌のやりとりをすることにあった。みんなで同じ歌を歌うことにあったのではない。そんなことは、共同体の制度が発展したもっとあとの時代になってからのことである。
であれば、縄文人ネアンデルタール人に集団的なダンスがあったとしても、みんなで同じ動きをするものであったはずがない。
また、みんなで同じ歌を歌うようになったといっても、西洋の合唱やオーケストラはそれぞれが違う音階を歌ったり演奏したりすることのカタルシスが追求されてきたし、日本の民謡だって、誰かひとりが歌ってみんなで相の手を入れてゆくというのが基本的なスタイルである。みんなで田植え歌を合唱していたのではない。歌う人と間の手を入れる人がいて、それは盛り上がってゆくのだ。つまり西洋人も日本人も、それぞれの流儀で、「反応」し合うことのカタルシスはけっして手放していない。
みんなで同じ歌を歌うことなんか、明治以降の帝国主義の戦略にすぎない。
同じ動きをする鏡像関係になることが、人間的な連携ではないのである。
同じ動きをしないことにこそ、人間的な連携の醍醐味がある。
誰かが土を掘れば、自然にその土を運ぶ人があらわてくる。これが、人間的な連携である。
どんなにみんなで同じ動きをする制度性が強化されていっても、人間は、けっして「反応」し合ってそれぞれが違う動きをしてゆくことのカタルシスは手放さない。
そのとき、自分(の身体)が消えているから「反応」という現象が起きてくる。それはもうきっと、セックスをすることだって同じなのだ。
そういう意味で、「同じ動きをする鏡像関係こそ真の運動共鳴であり、人間的な連携である」などといいたがるのは、たんなる制度的な発想であり、インポの思想なのだ。
インポおやじほど、「世のため人のため」とか「倫理道徳」とか「社会正義」などといって人を支配したがる。じつは、彼らのそういう思想こそが、この社会のいじめを生み出している。まあこのことはこの文章だけでは伝わらないと思うが、僕はずっとそのことを言い続けてきたつもりである。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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