「漂泊論」・51・ナルシズムの正体

   1・じつは、誰も自分の姿を把握していない
承前
知性とは、この世界の裂け目に立つ心である。
日本列島の古代人や原始人は、思わず「あ」とか「わ」という音声がこぼれ出るこの世界の裂け目に「吾=私=自我」、すなわち「人間」を発見した。
現代人にこんな高度な知性があるだろうか。われわれが原始人よりも知性が豊かかどうかは疑わしい。
たとえば、現代人は、鏡に映った自分の姿を当たり前にように自分だと信じてしまっているのだが、じつはあまり知的な心だとはいえない。
はじめてその画像を見た赤ん坊は、ただちにそれが自分だと認識することはできないはずだ。
なぜなら赤ん坊は自分がどんな姿をしているかを知らないのだから、それが自分だと思う根拠を持たない。たとえその画像が自分と同じように動いても、それだけで自分だと思うことはできない。
何より決定的なことは、自分の姿を知らない、ということである。
われわれだって、自分で自分の顔を見ることはできない。
自分の姿を知らないものが、それを自分だと思うことは原理的に不可能なことである。
われわれの根源的な心は、自分の姿を知らない。
それでもそれを自分の画像だと信じて疑わないのは、そういう世間の約束事にやすやすと囲い込まれてしまっているからである。
それは、ただの「迷信」なのだ。
知性的な人なら、どうしてこんなにも簡単に自分だと思ってしまうのだろう、という懐疑が湧くはずである。子供や赤ん坊は、そういう懐疑を持っている。
われわれの自然としての意識のはたらきは、「自分の姿を知らない」という前提を持っている。この前提をあっさりと放棄してわれわれは、それが自分の画像だと思ってしまっている。
かんたんに思ってしまうなんて、無知な証拠だ。ほんとに知的な人は、「自分の姿を知らない」という前提をちゃんと自覚している。赤ん坊だって自覚しているし、原始人だっておそらく自覚していた。
現代人だけが、その自覚をあっさりと放棄してしまっている。現代人とは、それほどに無知で短絡的で迷信深い人種らしい。
おそらく現代人は、自分の画像だと思いたいのだ。赤ん坊には、そんな欲望はない。
たとえば「私とはなにか?」ということが知りたくて、その「自分さがし」の欲望が鏡に映った自分を自分だと決めつけている。
もちろん、鏡に映っているのは自分である。それは、客観的科学的な真実である。
しかしそれでも意識は「自分の姿を知らない」という前提を持っているのだから、主観的にはけっしてそれを自分だと思うことができないのだ。
観念と実感、と言い換えてもよい。鏡に映っているのは自分だということは、観念としてわかることであって、実感できることではない。
知性とは、その観念のはたらきと実感の区別をちゃんとわきまえている心のことだ。観念でしかないことを実感だと思い込むようなひとりよがりなことはしない。
現代人が鏡に映った自分をあたりまえのように自分だと信じてしまっているのは、現代社会の制度的な観念性であり、それだけ無知で迷信深くなってしまっているということを意味する。それを疑う知性とイノセントを失ってしまっている。
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   2・どうしてかんたんにその姿を自分だと思ってしまうのか
鏡に映った自分を自分だと思うことは、鏡に映った自分とのコミュニケーションを持つということだろうか。現代人は、鏡に映った自分をかんたんに自分だと思ってしまうように、相手の言葉だけでかんたんに相手の心がわかったような気になる。
しかし言葉はあくまで言葉であって、それがそのまま相手の心かどうかはわからないのである。なのに現代人は、わかった気になってしまう。コミュニケーションとは、そういうたがいにわかった気になってしまう制度的な関係性のことであって、そんなところに人と人が関係することの根源的な醍醐味があるのではない。
言葉の根源的な機能は、「自己表出」にあるのではなく、自分が消えてしまう体験にある。われわれは、自分を忘れるようにして言葉=音声を発する。
人間は、根源において、自分=身体の「けがれ(受苦性)」を負って存在している。だから身体の消失をカタルシスとして体験する。
自分=身体の消失を体験することが、人間の生きるいとなみなのだ。いや、すべての生き物の生きるいとなみであると言い換えてもよい。生き物の身体が動くことは、身体が「いまここ」から消える現象である。
われわれは、根源的には、自分=身体が消えてゆく体験として人と関わり世界と関わっている。そのようにして生きてあることのカタルシスが体験される。
自分が消えることがカタルシスだから、われわれは自分の姿を知らないし、消えている自分が鏡に映った自分を自分だとは思いようがない。
意識が「気づく」という体験するとき、自分は消えている(忘れている)。だから、原理的に、鏡に映った自分を自分だと「気づく」ことはできない。
意識は、「自分が消えている(消えてゆく)」というかたちで自分に気づく。そのようなかたちでしか自分には気づけない。
われわれは、鏡に映った自分を自分だと気づくことの不可能性を負って存在している。
しかし観念的な制度性においては、それを自分だと信じて疑わない。それを自分だと気づく=わかる。この鏡像体験の観念が肥大化して、相手の心がわかった気になるのだろうか。
そして、鏡に映った自分は、自分と同じ動きをする。自分の思う通りに動かせる。つまりそのとき自分は、鏡に映った自分に対する完璧な支配者になっている。人を支配しようとする衝動とは、鏡に映っている自分のように相手を思うままに動かそうとする衝動だろうか。
人間の身体と身体は「運動共鳴」して同じ動きをする性質がある、それが人間的な連携の根源のはたらきである、といっている人がいる。こういう制度的で愚劣な思考も、鏡に映った自分をあたりまえのように自分だと思ってしまう人間によって発想されるのだろう。
J・ラカンの「鏡像段階」という概念も、まあそのような倒錯的な発想である。自分の支配欲をさらしているだけなのに、どうしてそんな発想やいい方をするのだろう、この俗物め。
生き物の身体は他者の身体に「反応」するが、基本的には「共鳴=同調」なんかしない。
路を歩いていて、前から歩いてくる人とぶつかりそうになったら思わずよける。これが、生き物としての根源的な身体性である。そのようにして、みずからの身体を消そうとするのだ。自分=身体を消そうとすることこそ、この生のいとなみの基礎になっているのだ。
そのとき「運動共鳴」して、自分も一緒になってぶつかってゆくのか。ばかばかしい。
「運動共鳴」しないことこそ、根源的な身体性なのだ。身体は消えようとするのであって、「共鳴」しようとするのではない。そしてそれは、鏡に映った自分を自分だと実感および確信できない、という心の動きである。
「鏡像関係」という制度性、これは、大いに問題だと思う。このような制度性で現代社会の問題が解決されたり、人間の真実が解き明かされるとは、僕はぜんぜん思わない。
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   3・男の方がずっとナルシストなのだ、しかもブ男の方が
僕はいま、人と人の連携の基礎的なかたちを考えようとしているのだが、その前に、いったいどのようなタイプの人間がこの鏡像関係をたやすく信じ執着しているのだろうということを考えてみたい。
婚活パーティーのレストランのトイレで懸命に鏡に向かって化粧を直している独身のアラフォー女という想像がまず浮かぶが、じつは、男の方が鏡の中の自分をじっと見つめるという傾向が強いような気がする。銭湯やサウナの鏡に自分の裸を映してじっと見とれている男は、あんがい多い。
女はただチェックしているだけだが、男はじっと見とれている。
社会的な立場上、男の方が社会の制度性に絡め取られやすいし、それは、鏡の中の自分を支配しているという支配欲だったりする。鏡の中の自分ほど完璧に支配できる他者もいないのだ。
また、男は、女ほどには自分の身体に対する鬱陶しさや悪意を持っていないから、鏡の中の自分=身体に馴染みやすいということもある。
女よりも、男の方が自己愛が強い。吉本隆明氏や内田樹先生の書いているものを読むと、ほんとにそうだなあと思う。言い換えれば、多くの読者がそれによって自分の自己愛が許されている気分になり、自己愛に居直って生きてゆく元気を与えられている。
ギリシャ神話のナルキッソスの話があるから、一般的にはナルシズムは美しい男のもののように考えられがちだが、じつは、ブ男の自己撞着や支配欲の方がずっとすごいのだ。
美しい男は、銭湯やサウナの鏡をじっとのぞき込むということはあまりしない。
他者に愛されたことがないというか、人からちやほやされたことがなかったり、差別されたり、嫌われものとして生きてきたりした人間の方がそういうことに対する飢餓感が強く、おそらくその飢餓感を鏡の中の自分と同一化してゆくことによって埋めているのだろう。
そしてこのとき自分は、鏡の中の自分を「愛している」かというとそうではなく、じつは鏡の中の自分から「愛されている」のだ。なぜなら彼の飢餓感は、「愛される」ことによってしか埋められない。
鏡の中の自分を支配しつつ、鏡の中の自分から「愛されている」。
「愛されている」という実感は、自分が完ぺきに支配できることによって確かめることができる。
親は子を、完璧に支配することによって、子から愛されていることを確認している。そして、完璧に支配するためには、子は自分のレプリカであった方がよい。
内田先生のような教育者は、生徒をじぶんのレプリカにしようとするような教育の仕方をしている。それが、もっとも効率よく支配する方法であり、「愛される」方法だからである。たぶんこの先生は、自分を鏡に映してその姿をじっとのぞき込んでいるのだろう。
その幼児体験か思春期体験で人間に対するルサンチマンを持ってしまった彼らは、他者にときめき愛してゆくということができない。彼らに必要なのは、あくまで「愛される」ことなのだ。愛されることによって、はじめてその相手を愛してゆくことができる。それが、ラカンのいう「他者の欲望を欲望する」ということである。
彼らが、気持ちよくこの社会で生きてゆくためには、そうした「鏡像関係」が必要である。しかしそれは、あくまで制度的作為的な関係であって、人間の自然な関係ではない。
鏡の中の自分をじっと見るというのは、鏡の中の自分を支配し鏡の中の自分から「愛される」いる状態なのである。だからそうしたナルシズムは、一般的には内田先生や吉本氏のようなブ男の方がうんと強い。
それは、自分の美しさうっとりしているのではない、自分を支配し自分から「愛されている」ことを確認しているのだ。それが「自己愛=自己撞着」の正体なのだ。
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   4・ようするに彼らは「愛されたい」のだ
女優が、自分はどの角度から見れば一番美しいかとチェックしていることはナルシズムとはいわない。
愛されている女優よりも、愛されたいという飢餓感の強いブスやブ男の方が、ずっとナルシスティックなのだ。
根源的には、鏡に映ったその姿は、誰も自分の姿だと確信することはできない。それは、自分であって自分ではない「他者」である。「他者」だからこそ、支配し「愛される」ことの満足が得られる。
鏡に移った自分を自分だと思うことができないから、じっとその姿を見つめることができる。彼らは、そうやって鏡に映った自分を支配し「愛されている」という満足を汲みあげている。
ブスやブ男だから鏡をじっと見ることはしないとはかぎらないのであり、ブスやブ男だからこそじっと見ることができる場合も多い。
現代社会は、そういう関係をつくりながら第三者を排除してゆくことによって社会のダイナミズムを生み出している。現代人には、そういう習性がしみついている。だから、多くの親が子供を支配しようとし、多くの大人が若者を支配しようとする。
であれば、ブ男やブスの自己愛は、この社会で生きてゆくためのきわめて有効な武器になる。誰もが自己愛を抱え、ブスやブ男はひといちばい豊かに自己愛をそなえているのだ。
そのようにひといちばい豊かに自己愛をそなえている吉本隆明氏が最後まで教祖様でいられたのも、内田樹先生や上野千鶴子氏が今のオピニオンリーダーになっているのも、つまりはそういう社会現象であるのだろう。
ともあれわれわれは、生き物の自然として、鏡に映った自分を自分だと思うことの不可能性を負っている。われわれはそのの姿を眺めながら、じつは「そこに他者の身体がある」と思っている。そうして生き物は、他者の身体を前にして消えようとする衝動を持っている。であれば、そのとき自分は消えているのだから、それが自分であるはずがないのである。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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