鬱の時代32・空間としての身体の輪郭

分裂病の人がどうしてこんなにも社会から追いつめられなければならないのだろう。彼らは、病気そのものよりも、社会の悪意や無知から追いつめられている。
西洋の精神医学は、分裂病統合失調症)に対して、完全に敗北し行き詰まっている。
あげくに、先天的な脳の疾患だと言い出す学者も現われてきた。
だったら、「発症」などということばは使うべきではない。先天的に欠陥があったのなら、生まれたときからずっと分裂病であるに決まっている。
分裂病だろうと認知症だろうと、なんらかの「環境」が作用して脳に異変が生じるのだろう。「環境」の病なのだ。
しかしわれわれが、よろこんだり悲しんだり怒ったり感動したり興奮したりすることだって、脳の異変だ。生きていれば、脳の異変は誰にだって起こる。それだけのこと。脳の欠陥だなんて、かんたんにいうべきではない。ほんとうにそれが正しいのなら仕方ないが、なにかあてずっぽうのような感がある。人間理解の問題なのだ。それでいったいどれだけの分裂病を治してみせたというのか。なんにも成果は上がっていない。治してなんかいないのに、勝手に治したことにしているだけではないか。
社会にうまく適合できないことは、病気でもなんでもない。そんなことは、たんなる「傾向」にすぎない。どうしてそういうことまで病気にしてしまうのか。まあその魂胆はおおよそ見当がつかないでもないが、病気だと思いこんでいる医者がいて思わされている患者がいるというその事態こそ、病的ではないのか。
どうしてそんな安直なことをするのか。
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われわれは、できるかぎり「病気」ということばの前で踏みとどまらねばならない。もし治癒というのなら、じつはそういうところから治癒の道が開けるのであって、「病気」にしてしまったところからではない。「病気」にしてしまうなんて、ただの思考停止であり、精神科医の自己満足に過ぎない。
社会に適合できない人間はみんな病気である、ということが社会的な合意になり正義になっている。そのことが、よけいに彼らの惑乱を進行させ、治癒不可能なものにしてしまっている。
人間は、もともと社会に適合できない存在である。社会に適合できないから、そこから逸脱して、たとえばセックスや芸術芸能やスポーツなどの「遊び」としてのカタルシス(浄化作用)を深いところで汲み上げてゆくことができる。
社会に適合してしまったら、そうしたカタルシスはもう体験できなくなってしまう。鬱とかEDとか、そうやって社会に適合してゆくことによって蝕まれてゆく何かがある。
人間は、社会から逸脱してゆくカタルシスとともに社会をつくっていったのだ。
社会に適合できないことは、病気でもなんでもない。たんなる「傾向」である。適合できないのが人間なのだ。
治療するがわが「正義」を振りかざしてなんでもかんでも病気にしてしまうから、彼らはよけいに混乱してしまうのであり、そうやって彼らを追いつめ立ち直れなくさせてしまっている。
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あなたは、「正義」という社会の制度性を怖いと思ったことはないか。
かつての労働者は、仕事なんかしょうがなくやっているものだ、という思いで連帯・連携していった。
しかし近ごろの会社組織では、正義と生きがいをもってやらないと生き残れないようになってきている。誰もが一所懸命仕事していたら、連帯なんかできない。仕事の喜びで連帯なんかできない。
人は「嘆き」を共有して連帯してゆくのだ。
正義は、人を追いつめる。追いつめられるまいとして、自分も正義に加担してゆく。そうして誰もが正義を振りかざす社会になってゆく。
精神を病んでいるものたちは、その「正義」から追いつめられている。
仕事がいやになってニートや引きこもりになるのではない、追いつめられてそうなるのだ。
働く場に連帯があれば、いやな仕事でも耐えられる。しかし、正義に監視され続けたら、平気ではいられない。
誰もが正義に加担できるとはかぎらない。
いや、誰もが正義に加担してゆく社会だから、正義から監視されている、と追いつめられてしまうものが生まれてくる。まわりの誰もが自分を監視しているような心地になったら、もう働いてなんかいられない。いや、たった一人でもいたら、耐え難い気持ちになってしまう。
正義を振りかざして自分を監視し続ける上司や仲間と一緒に仕事をさせられていたら、そりゃあ彼らだって会社を辞めてしまうだろう。鬱病分裂病にだってなってしまうだろう。
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「引きこもり」という森の中に逃げ込むしかない。
それはむしろ、健康なことだ。
人間はもともと正義による監視に耐えられないようにできている。
そして彼は、そこで戦っている。塹壕戦だ。彼には、悲憤慷慨がある。
病気というのなら、正義を振りかざして他人を監視するものだって、まぎれもなく病気だろう。
正義とは、人間を監視するシステムのことだ。
近代の日本、とりわけ戦後の日本社会は、西洋の「神」は輸入しなかったが「正義」を輸入した。人間を監視するシステムを輸入した。そのために、監視することの病的な悦楽に執着するものが増えてきた。そのようなものが出世して権力を持ったらどうなるか。その監視に耐え切れなくてニートや引きこもりになる若者が増えてくるのは、当然のことだろう。鬱病分裂病にだってなるだろう。
というか、監視されることに耐え切れなくなった鬱病分裂病よりも、監視する悦楽に耽溺していることのほうがずっと病的ではないか。
われわれは、監視する立場に立つことによって監視されることから逃れようとする。
なんにせよ、「他人は自分を監視する存在である」という意識を誰もがどこかしらに抱えている世の中になってしまっている。
だから、足元をすくわれないようにというか後ろ指を差されないように、いつも正義の立場に立っていようとする。そうやって、ものすごく自意識過剰になってしまう。それは、病気だろう。その人はみごとに社会にフィットして安全な社会生活を送り、ときには「まじめな人格者」という評価も得ているのだろうが、分裂病よりずっと病的じゃないか。
そういう蛇みたいな怖い大人がたくさんいる社会だ。
誰もが、しらずしらず監視してしまっている。国家は国民を監視し、企業は消費者を監視し、国民も大いに政治や商品に関心を持っている。
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近ごろでは、歴史に興味を持つ女性が増えているのだとか。それは、現在という時代の監視から逃れようとする衝動なのだろう。それだって、引きこもりみたいなものだ。
監視から逃れようとする衝動が時代を動かしている。
問題は、社会から逸脱できなくなってしまうことであり、あるいは逸脱したところでカタルシスを汲み上げることができなくなってしまうことにある。
意識が社会に幽閉されると、自己意識が肥大化する。つまり、意識が「身体=自己」に張り付いてしまう。その幽閉された状態に安らげるなら、意識が「身体=自己」に張り付いていることもまた、ひとつの充足になる。
しかし、社会と和解できないまま幽閉されていると感じるのなら、その自己意識は苦痛になる。
まあ普通は、苦痛なのだ。だから、アフターファイブや休日には、自分を忘れた「遊び」に興じて息抜きをして身体に張り付いた自己意識を引きはがす。もともと人は、その息抜きのカタルシスのために働いていた。仕事に幽閉される苦痛が強ければ、そのぶん解放されるカタルシスも深くなる。そのバイブレーションで生きていた。
しかし働くことが正義の現代社会では、そうやって生きながらも、しらずしらずのうちに頭の中をまるごと社会に売り渡してしまっていたりする。
あるいは、一日中社会から監視されているような心地になってしまうこともある。
誰もがどこかしらでそのような居心地の悪さを感じながら暮らしている。
そういう社会の構造があるわけで、その居心地の悪さを突出して感じている人たちは、いわば時代の殉教者なのだ。
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監視されることの恐怖というのがある。
西洋は「神」に監視されている社会だから、そのことに対する耐久力もあるのだろうが、そういう地盤を持たないこの国では、それがひどく苦痛になる。とくに無力な存在である子供時代にその苦痛を体験すると、それがトラウマになって終生引きずることになったりもする。
いや西洋はそういう監視のシステムが強いから、なおラディカルな分裂症状を引き起こすことが多い、ともいえる。
まあ、どっちもどっちだ。
そのような監視のシステムと戦ったり逃れたりすることができたらいいが、その範囲を超えると幻聴や対人恐怖などのさまざまな症状が起きてくる。
そうして、意識が身体に張り付いてしまってはがれなくなる。引きはがそうとして、幻聴を聞いたりする。そのとき彼は世界を喪失しているのであり、幻聴だけが唯一の世界になっている。
身体感覚が鈍磨する薬を飲めば、幻聴は抑えられる。しかしそれは、根源的な治癒にはなりえないだろう。
監視のシステムから逃れる体験が必要になる。旅に出るとか歴史を研究するとか、そういうことは有効かもしれない。しかし、一年中旅をしているわけにはいかない。働かないと食べてゆけない世の中だ。
会社勤めをして監視のもとに置かれながら、それに耐えることができなければならない。
彼は、監視のもとに置かれると、ものすごく緊張して、とたんに意識が「身体=自己」に張り付いてしまう。しかし世界との関係を持たないと仕事にならないし、世界から置き去りにされそうだという不安が募ってくるから、無理やりその意識を引きはがそうとして幻聴を聞いてしまう。
まわりに人がいないから幻聴を聞いてしまうのではなく、まわりに人がいるから緊張が強くなって幻聴を聞いてしまう。
彼の緊張は、そう簡単にはやわらげられない。人間が限度を超えて大きくタイトな群れをつくって暮らす生きものだということに対するおそれやおののきが、われわれにはなさ過ぎる。彼は、そのことにおそれおののいている。
たとえば、タバコのポイ捨てはいけないとか約束は守らないといけないとか、そんな正義を振りかざすことばかりいっているのは、そういう人間の群れに対するおそれやおののきがなさ過ぎるからだ。そういうことがかなりいい加減な社会になれば、追いつめられる人もずいぶん少なくなることだろう。
しかしそういう社会であれば経済の繁栄は望めないわけで、まあ今となっては、その正義に閉じ込められた強迫神経症的社会で生きてゆくしかない。
ただ、その正義はわれわれが避けがたく負っている十字架であって、むやみに振りかざすべき価値ではないという自覚くらいは持っていてもいいのではないだろうか。
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意識が「身体=自己」に張り付いてしまうこと、それが問題だ。
他人を監視してばかりいる人は、意識が「身体=自己」に張り付いていないかというと、そうでもない。彼らこそ自意識過剰で、ものすごく自分のことを気にしている。
たとえば頭のてっぺんがはげていて、まるで隠そうとするかのようにいつもすぐそこに手がいってしまう人がいる。他人を監視してばかりいるから、自分もまた監視されているという前提で生きていなければならない。体の動きも鈍くさい。ちっともリラックスしていない。
正義を振りかざす人は、だいたい自分のことしか考えていない。正義であれば、何をしてもいいと思っている。追いつめられる相手のことなんか何も考えていない。そういう親に育てられ、追いつめられていった若者はたくさんいる。人格者の親だから子供が健康に育つとはかぎらない。それはむしろ、とても不健康な育て方なのだ。
彼が他人を監視しているからといって、その意識が身体から離れて世界に向いているかといえば、けっしてそんなことはない。彼らもまた、正義に幽閉され追いつめられて、意識が「身体=自分」に張り付いている。病理的に張り付いてしまっている。しかし社会の制度にフィットしているから、極端な症状は出ない。
社会にフィットさえしていれば、分裂病的であっても、分裂病にはならない。監視することによって、「自分=身体」に対するこだわりが緩和されている。彼は、他人も自分も監視し続けている。それはとても異常なことだが、社会とうまくフィットしている。分裂病になりたくなかったら、他人を監視する存在になれ、という社会の要請を受け入れている。
だから、われわれは、政治に関心を持ち、消費者として新商品を追いかけ続ける。そういう社会の構造が出来上がっている。
車がよく売れるとは、消費者が車という商品を監視している、ということである。
監視するものにならなければ生きてゆけない。しかし、監視するものばかりの世の中なら、とうぜん監視されることに耐えられなくなるものも生み出してしまう。
そして、昨日まで監視する立場にあったものが、人生の成り行きで今日から監視され追いつめられる立場になってしまうこともよくある。
いちいち頭のてっぺんのはげを隠していなければならないという身体意識も、そうとう異常だろう。そんなことばかりしていたらインポにだってなりやすいし、いずれは鬱に閉じ込められるかもしれない。
分裂病だけが分裂病ではないのだ。鬱病患者だけが鬱病患者ではないのだ。そういう社会の「構造=環境」がある。
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P・ヴァレリーによれば、われわれがふだんイメージする自分の身体は、まず自分で描いている画像としての身体、次に他人から見た自分の身体、そして内臓や骨などの解剖学的身体の三つのうえに成り立っているのだが、もうひとつ「非存在としての身体」のイメージがあるのだとか。
この「第四の身体」については、ヴァレリー自身がそれ以上言及していないから、いろいろ推測して解釈されているのだが、僕なんか、これこそがもっとも自然な、むしろ「第一の身体」イメージだろうと思っている。
われわれは、自分の身体の画像など、ふだんはよくわかっていない。鏡を見て、はじめて知らされるのだ。自分がブスであることやしおれたジジイの顔や体をしていることなど、じつはよくわかっていない。わかっていないから生きてゆける。そんなこと、ちゃんとわかっていたら、恥ずかしくて町を歩けなくなる。また、ブスやブ男のくせにけっこう美形であるつもりの人間もいる。若いつもりの年寄りはさらに多い。それほどにわれわれが持っている身体画像などあいまいなのだ。
だいたい魚や太平洋の真っただ中を一頭だけで泳ぐ亀などは、自分の身体なんか見たことがないのだから、その画像のイメージも持っていないはずである。生きものは、根源においてみずからの身体画像など意識していないのだ。
また、他人からどう見られているかなんて、ほとんど誤解だらけだ。誰もあんたの頭のはげなんか見ていないって。
解剖学的な身体も、それが順調に機能しているかぎり、われわれはまったく意識していない。
われわれが生き物としての根源において意識している「第一の身体」は、この「非存在としての身体」なのだ。
つまり、「身体の輪郭」。それは、画像でも解剖学的な物体でもない。「空間」としての「身体の輪郭」、このイメージによって体が動いている。たとえば魚は、自分の身体など見たこともないはずなのに、狭い岩のあいだをぎりぎりすり抜けてゆくということを苦もなくしている。それは、自分の身体の輪郭を空間として正確に把握しているからだ。
われわれだって、根源的にはそういう身体イメージで生きている。ただ、制度的に、自分の身体画像や他人からどう見られているかとか内臓や骨や筋肉の知識を持ってしまっているから、そういう観念で頭の中をいっぱいにしているだけのこと。
腹が痒いと思ったら、目をつぶっていてもそこに正確に手を置くことができる。そういう身体イメージを持っていないと、日々の暮らしなんかできない。そして、この「身体の輪郭」に対する意識として、人類は衣装を着るようになったのだ。
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意識が身体に張り付く居心地の悪さとは、この「身体の輪郭」が気になってしょうがない状態のことだ。
監視され追いつめられると、世界との関係を失って、この「身体の輪郭」も揺らいであやふやになってくる。この「身体の輪郭」は、世界との関係において、世界と身体との境界として成り立っている。だから魚は狭い岩のあいだをすり抜けることができるわけで、世界を失えば、その岩までが自分の「身体の輪郭」のように思えてくる。
リストカットなどの自傷行為は、おそらくこの「身体の輪郭」を確かめようとする衝動だろう。それはたんなる「輪郭」だから、痛さなどの怖れは起きてこない。
摂食障害だって、「身体の輪郭」があいまいになってしまっていることの不安から起きてくるのだろう。
追いつめられて世界を喪失すれば、「身体の輪郭」もあいまいになってしまう。
彼らは、けんめいに「身体の輪郭」を確かめようとしている。
画像としての身体も、解剖学的な身体も、どうでもいいのだ。
生きものを生かしているのは、あくまで中味がからっぽな空間としての「身体の輪郭」にほかならない。
自意識が監視している画像としての自分の身体や解剖学的な身体は、対他的観念的な身体であって、即自的無意識的なほんらいの自分の身体ではない。彼は「生きられる身体=身体の輪郭」のイメージを喪失している。監視するものは、身体にこだわりつつ、身体を喪失している。だから体の動きがぎこちないのであり、EDにもなる。
一方追いつめられているものたちは、世界を喪失しているために、逆に「身体の輪郭」の過剰なイメージにわずらわされている。
薬で分裂病の症状を和らげる、という。その薬の副作用によって肉体はダメージを受け、体がぐったりする、などということもある。ぐったりすればからだの緊張がほぐれ、意識は身体から引きはがされて世界との調和をいくぶんかは取り戻し、薬が効いているあいだは幻聴などが起きてこない。
つまり、肉体としての身体を消去し、「空間」としての「身体の輪郭」によって世界と関係してゆく……そういう薬かもしれない。しかし、身体にダメージを与え続けて大丈夫なのだろうか。もしかしたらこれは、一種の軽い覚醒剤のようなものかもしれない。
薬によって治るということはない。薬でなければ気持ちが安定しないのなら、薬なしで安定するはずがない。
追いつめられたものの体は緊張し、逃げられなくなってしまう。逃げられないなら、「今ここ」で消えてしまうしかない。消えてしまうとは、「画像としての身体」や「解剖学的な身体」を消してしまうことだ。そうして、「空間」としての「身体の輪郭」になること、世界との「境界」としての「身体の輪郭」を持つこと、それによって世界との関係を結ぶことができる。
追いつめられたものは、消えようとして「画像としての身体」や「解剖学的な身体」を失ってしまう。そうして「身体の輪郭」に対する意識が突出してくる。しかし、世界との関係を喪失しているから、この「身体の輪郭」は揺らいで一定しない。ときには、「身体の輪郭」そのものが世界になってしまう。
たとえば、車で狭い路地を抜けていこうとするときとか他の車と離合するとき、緊張して、車の輪郭がそのまま体の輪郭であるかのような心地になって、すれ違うとき肩がぴくぴく震えたりする。世界との関係が危機に陥ると、「身体の輪郭」が膨張したり収縮したりしてしまう。これはまぎれもなく分裂病の症状なのだ。
誰だって、ときどき分裂病になりながら生きている。
誰だって、世界との関係が危機に陥ると、「身体の輪郭」そのものが世界であるかのような心地になってしまう。
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分裂病者は、生まれつき分裂病の脳を持っているのではない。分裂病の脳だから分裂病になるのではない。脳なんか、誰だってたいして違いはないのだ。
誰だって世界との関係の危機を生きている。人間は、世界との関係の危機を生きようとする生きものだ。生きてあることのカタルシスは、そこから汲み上げられる。
だからネアンデルタールは氷河期の極北の地に住み着いたのであり、人類はそうやって地球の隅々まで拡散していったのだ。
危機が喫水線を超えるか否かは、その人の人生のめぐり合わせであり、「環境」の問題なのだ。
ひとまずわれわれは、人間が限度を超えて密集した群れをつくって暮らしていることのおそれや危機感は持ってもいい。人間精神においてはその状況こそが危機であって、飢えや貧しさはあくまで身体の危機なのだ。
分裂病的な「傾向」は、人間が限度を超えて密集した群れをつくっていることの「危機」によって生み出される。
この問題は、込み入っている。今はまだよくわからない。ともあれ、人間の「生きられる身体」は「空間としての身体の輪郭」であり、われわれはこの身体によって世界との関係を結んでいる、というパラダイムでいつかもっと掘り進められたら、と思っている。