鬱の時代33・消える身体

なんだか悲しい、と思う。
みじめだなあ、とも思う。
僕は今度自費出版したのだが、今日の内田樹先生のブログで、自費出版の本の程度の低さをからかい蔑(さげす)んでおられた。内田先生のところにはそういう本がたくさん送られてきて、どれもひとりよがりなことを書いていい気になっている、と。
僕は先生に本なんか送っていないが、なんだか自分のことをバカにされているようで、ちょっと傷ついてしまった。いかにも、俺の書くものとお前らではレベルが違う、といわれているようで。
内田先生のその記事を読んだ人のほとんどは、けっきょく僕の本もそのていどの代物だと思うのだろうな、と思うと情けなくなった。
こんなところで細々と宣伝しているのが、情けなくなった。
なんでこのタイミングでそんな記事を書いてくれるのか。内田先生は僕のことなど知らないのだろうが、こうして僕の本は空しくマーケットの底に沈んでゆくのかと思うと、生きているのもいやになるくらいほとほと情けなくせつなくなってしまう。
内田先生の本より読み応えがある、といってくれた見ず知らずの人だって、そこそこいないわけじゃないですよ。そういう反応を支えに、今しばらくはここで宣伝してゆこうと思っている矢先に、みごとに出鼻をくじかれてしまった。
面と向かってバカにされたら怒りようもあるが、十把ひとからげに自費出版なんてみんな程度の低いものだといわれたら、そりゃあ悲しいですよ。
僕は僕なりに、懸命に「あなた」と共有する感慨を持ちたくて書き綴ったのであって、べつに自分のえらさを見せびらかすためじゃない。えらいとなんか思っていないし、自慢話を垂れ流したのでもないし、そう読みにくい文章でもないはずですけどね。
たしかに、内田先生みたいなタイプの大人たちには評判が悪いです。しかし、しんどい思いをして生きている若者や女性はおおむね好意的に読んでくれているみたいで、それが、いまのところささやかな励みです。
しかし僕がもし内田先生の立場だったら、そんな自分より弱い立場にあるものを蔑むようなことは絶対書かない。こういうのを、ブルジョワ趣味というんでしょうかね。ブルジョワでもないくせに……。
内田先生になんと蔑まれようと、共感してくれる読者はいないわけではないんだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
本論に戻ります。
デカルトが「われ思うゆえにわれあり」といっても、つまるところ、「画像としての身体」や「解剖学的な身体」を意識しているからだろう。
しかし、われわれが根源において意識している身体は「空間としての身体の輪郭」であり、それは「非存在」の身体だから、そこにおいて「われあり」という問題は存在しない。
われわれは、この「非存在の身体」によって世界と関係し、体を動かすということをしている。そのときわれは、「画像としての身体」も「解剖学的な身体」も意識していない。そういう身体イメージで体を動かしているのでも世界と関係しているのでもない。
意識の根源において、身体はからっぽの空間である。
色即是空、空即是色……こちらのほうが実用的なのだ。
そして、世界との関係が危機に陥ると、この身体イメージが揺らいで膨張したり収縮したりする。
よく「幽体離脱」などといって、死の直前に自分の身体を外側から眺めているという体験をするらしいが、この「非存在の身体」のイメージを失って「画像としての身体」イメージに憑依していった結果である。こういう身体イメージを根源のものだという知識人は多いのだが、これはあくまで病理的な体験にすぎない。つまり、世界との関係の危機において錯乱しているのだ。
錯乱しなければ、身体は、「非存在」のからっぽの「輪郭」として自覚される。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
世界との関係の危機において、われわれは精神を病む。
ほとんどの精神疾患といわれている心的現象は、世界との関係に失敗したところから起きているのだろう。
したがって問題は、どのようにして世界との関係を取り戻してゆくか、ということにある。
とりあえずここでは、「身体」の問題にこだわっている。
世界との関係の危機においても、なおたしかな「非存在の身体の輪郭」をイメージできなければならない。これこそが「生きられる身体」なのだ。
「幻聴」が起きてくるのは、世界との関係を喪失しているという不安から、無理やりそれを捏造してしまう現象であるのだろう。
たとえば、「あいつが俺の悪口をいっている……」などと。
そんなときは、薬を飲む前に体操をして体を動かしてみるのもいいかもしれない。「画像としての身体」や「解剖学的な身体」を消去してゆくように体を動かしてゆく。みずからのこの身体が、どこまでからっぽの「身体の輪郭」になることができるか、色即是空、空即是色、それが勝負だ。
身体が動くことは、「今ここ」から「消えてゆく」ことである。身体が「消えてゆく」ことが、身体を獲得することだ。体を動かしながら、「今、この身体は世界と関係している」と念じることだ。
他者の悪意や監視によって世界との関係を阻まれているとしても、この身体が世界と関係を結ぶことは、誰も阻めない。そして「この身体」は、「画像としての身体」でも「解剖学的な身体」でもない。そういう「われあり」の西洋的な身体ではない。色即是空の、あくまでからっぽの「身体の輪郭」なのだ。それによって、世界との関係が保障される。
料理をしたりセックスをしたりするのもいいのかもしれない。無邪気に身体的に世界と関係してゆく体験が必要なのだ。無邪気になれば、身体はからっぽの「空間」になる。
制度的観念的な「画像としての身体」や「解剖学的な身体」は消去しなければならない。
あなたの不安は、「空間としての身体の輪郭」が揺らいでしまっていることにある。
「今ここ」の「われあり」を忘れて、無邪気に世界にときめいてゆく。「われ」を確かめることではない。そんなことをしても、なんにもならない。「われ」を確かめるというそのことが、あなたを追いつめている。「われ」としての「画像としての身体」や「解剖学的な身体」を消去しなければならない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
しかし、世界と関係を結ぶことは、けっして楽しいことではない。人間は、世界と和解していない。世界との関係の危機を生きることが、世界との関係を結ぶことなのだ。
人は、「悲しみ」や「怒り」によって世界との関係を結んでいる。
それはよろこびに満ちたことだ、という制度からの声にたらしこまれてはならない。そんなことは、制度に閉じ込めてしまうためのまやかしだ。
和解しないで「なぜ?」と問うこと、それが、世界との関係を結ぶことだ。「なぜ?」と問うことの「悲しみ」と「怒り」が、人を生かしている。
「なぜ?」と問うて驚きときめくことは、「悲しみ」であり「怒り」である。
世界と和解しよろこんでいるものは、「なぜ?」と問わない。それはただ、世界に幽閉されているだけのことであり、けっきょく世界から監視され追いつめられているのと同じことなのだ。そんな堂々巡りを繰り返していても、解放されるはずがない。。
ときめきとは、拒絶反応である。世界に対する違和感であり抵抗感である。「なぜ?」と問うことが、ときめきなのだ。
身体を消そうとする「悲しみ」と、身体が消えてしまう「怒り」、「なぜ?」と問うときめきは、そんな心の動きで構成されている。そんな心の動きで体を動かせば、「画像としての身体」や「解剖学的な身体」は消えて、からっぽの「身体の輪郭」が確かめられる。
消えようとしなければ、からっぽの「身体の輪郭」は確かめられない。
身体が消えてゆくことが、身体を確かめることだ。というか、消えてゆくときに、はじめて身体が実感される。すなわち「非存在」としての「身体の輪郭」が確かめられる。
それは、悲しみと怒り(=ときめき)とともに浮かび上がる。
「なぜ?」と問うことは、ひとつの「怒り」であり、それは、みずからの「無力性」に対する「悲しみ」から生まれてくる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「なぜ?」と問うことの結果は、「わかる」ことではない。新たな「なぜ?」の前に連れて行かれることである。
だから子供は、次々に「なぜ?」を連発してきて大人を困らせる。
「なぜ?」と問うことのときめきがある。
「わかる」ことの正解や正義など、この際どうでもいいのだ。
「あいつが俺の悪口をいっている」と感じたとき、あいつを糾弾すれば問題は解決するか?
そんなことをしても、すぐまた別のところでそうした強迫観念が浮かんできて、際限がなくなるだけであろう。
しかしこの社会は、正義によってそれを糾弾することで解決される。
正義によって糾弾せよ、と迫ってくる社会がある。それによって人は、みずからの強迫観念から逃れられなくなる。
じつは、その糾弾する正義こそが、彼らを追いつめているのだ。
正義によって糾弾すれば、「自己」が確立される。それは、糾弾し続けねばならないという強迫観念である。
「自己」なんか確立してもしょうがないのだ。
「悪口を言われている」と感じる「自己」を「消してゆく」ことによってはじめてその強迫観念がそそがれる。
正義のがわに立っているなら、自分を消すことなんかできない。「正義という解答」なんか持ってはならない。世界=正義と和解できない悲しみとともに、「なぜ?」と問い続けねばならない。
患者が暴力に及ぶとき、それは、正義に自分を売り渡してしまったときだ。そしてその糾弾する正義に自分を売り渡すことのできない患者は、無限に苦しまなければならない。
とすれば、追い詰められたものたちもう、世界と和解できないことをさらに深く悲しむしかない。その悲しみが、われわれを癒してくれる。和解できないという悲しみで世界との関係が結ばれるとき、はじめて「身体の輪郭」が浮かび上がる。
この「身体の輪郭」は、世界と和解できない悲しみとして成り立っている。生きてあることのカタルシス(浄化作用)はそこでこそ汲み上げられる。それに対して正義に身を売り渡しているものたちは、自分を消すことができないために「非存在としての身体の輪郭」を実感することができず、けっきょくそういうカタルシスを汲み上げる能力が欠落している。だから、鈍くさい運動オンチになったりインポになったりしてしまうのだ。
_______________________________
しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

幻冬舎書籍詳細
http://www.gentosha-r.com/products/9784779060205/
Amazon商品詳細
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4779060206/