鬱の時代・24・基礎的なことが問いたい

僕はここで、鬱病の処方箋を提出しようとしているのではないし、そんな能力ももちろんない。
ただ、この心的現象の基礎的なところを考えたかっただけだ。
あるブログで、「鬱病とは環境である」という記事と出会い、「ああそのとおりだ」と感心してしまった。
近ごろ、鬱の処方箋をえらそぶって提出してくる知識人は多いが、彼らのそんな凡庸なお説教より、僕にとっては、この人のこのひとことのほうがはるかにインパクトがあった。
彼らは、けっきょく「私のように生きなさい」といっているだけだ。
あなたたちのように生きられない人間は、永久に鬱に沈んでいるしかないのか。
どんなふうに生きるかは、人それぞれの人生の運命がある。人それぞれの背負っている「環境」がある。
どんな親のもとに生まれたのか。
人生においてどんなめぐりあわせがあったのか。
どんな身体的条件を持っているのか。
みんなそれぞれに、「こう生きるしかない」という「運命=環境」を背負って生きている。
あなたたちだって、他人の人生の中に投げ入れられたら、あなたたちのようには生きられない。そんなことくらい、わかりきったことだろう。
処方箋なんか、僕にはわからない。
とにかく、この世の中で生きていれば「鬱」状態におちいることがある、という事実がある。僕としては、せめてそのことの基礎的な部分について考え、何か突き止められることはないかと思っているだけだ。
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意識とは「環境」である。
青い空を眺めて「青い空」だと認識する。曇り空だとは認識しない。意識は、「環境」によって決定されている。意識それ自体が、「環境」なのだ。
意識は、「私」ではない。「私」の勝手で青い空を曇り空だと認識することはしない。言い換えれば、「私」は「環境」によって決定されているのであり、「私」とは「環境」の別名にほかならない。
私的に所有された個性とか才能といったようなものもない。それだって、その人の「環境」のかたちなのだ。
誰であれ、脳そのもののはたらきに、それほどの差異はない。その人が持っている「環境」に違いがあるだけだ。
つまり、「環境」さえ整えば、誰だって鬱に陥る可能性を抱えている、ということだ。
私的に所有された鬱の資質などというものはない、とひとまず考えるべきだ。
明るく健康な大学生が、会社に入って鬱になった、という例はいくらでもある。それはその人に鬱の資質があったというよりも、鬱になるべき「環境」に投げ入れられた、ということだ。その人がもともと持っていた「環境」と新しい「環境」とのめぐり合わせが悪かったのだろう。
別の会社に入っていたら鬱になんかならなかった、ということはたしかにあるわけで、その人の資質の問題ではない。
人生のめぐり合わせというのは怖い。よい資質を持っていればよく生きられる、というような問題ではないのである。
資質などというものはない、すべては「環境」というめぐり合わせによって決定されている。
純粋な「私」などというものはない、「私の環境」があるだけだ。そして、このときの「私」とは、「私のこの身体」にほかならない。人間存在は、「身体」と「環境」があるだけで、そのあいだに「私」という概念が挿入されているにすぎない。
「私」は、「存在」ではない、たんなる「概念」なのだ。
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そして、身体を消すのが心におけるこの生のいとなみであるのなら、身体もまた「ない」といえる。
身体は、「ある」と同時に「ない」。
「私」という概念もまた、「ある」と同時に「ない」。「私」が消えて(我を忘れて)何かに夢中になっているときこそ生きてあることのカタルシスであり、そのとき「私」は「ない」のだ。
人は、幸か不幸か「私」という概念を持ってしまったが、それが消えてゆくカタルシスも覚えた。いや、それが消えてゆくことがカタルシスになっているということは、人間にとって「私」という意識は不幸な意識であることを意味する。
人間は、そうやってあらかじめ不幸を引き受け、それが消えてゆくことにカタルシスを覚える生きものなのだ。
人間は、不幸を引き受けてしまう生きものである。
いやたぶん、すべての生きものはそうやって生きてあることの不幸をひとまず引き受け、そこから不幸が消えてゆくことのカタルシスを汲み上げながら生きている。
そして不幸が消えることは、幸せになることではない、文字通り不幸が消えることであり、「私」や「身体」が消えることにある。そういうときにこそ、最も深いカタルシスがもたらされる。
オルガスムスとは、不幸がきわまって「私」や「身体」が消えてゆくことだ。
女が妊娠し出産することは、大きな苦痛をともなった不幸な体験のはずである。しかしその不幸がきわまったところから女は、「私」や「身体」が消えてゆくカタルシスを汲み上げてゆく。
生きものは、消えようとする衝動を持っている。そのことが生きものを生かしているのであって、生き延びようとする衝動(本能)によってではない。本能などというものはない。
とすれば、鬱病とは、消えることができなくなってしまう病だといえる。消えることができなくなったから、死のうとしてしまう。おそらくこれが、鬱病の基礎だ。
消えることのカタルシスが、生きものを生かしている。それほどに生きものは、不幸を負って存在しているのだ。
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球体というのは、表面積が最小のかたちであるのだとか。
つまり、物体の究極のかたちである、ということだ。
地球や月や太陽などの天体は、みんな球体をしている。
ウィルスや卵子も、おおむねまん丸いかたちをしている。
球体は最小の表面積のかたちである、という定理は、なにやら感慨深いものがある。
空の星もウィルスも卵子も、みんな消えようとしてあのようなかたちになっていったのだろうか。大きくなろうとしたのではない、消えようとして縮まっていったのだ。
消えようとすることは、宇宙の原理かもしれない。
最初の生物はガスの塊だった、という説がある。
とすればそれは、ウィルスのように球体のかたちをしていたのかもしれない。
ウィルスが生物かどうかということは意見の分かれるところらしいが、生物になる直前の段階ではあるのかもしれない。
それが球体であるということは、まわりからの圧力によってできたかたちである、ということだ。
圧力を受け、消えようとして収縮しながら球体になったのだ。
収縮することによって、生物になった。
だから、生物になってもまだ収縮しようとするはたらきは残っている。消えるまで、収縮し続ける。収縮し消えようとすることが、生きてあることだ。
基本的に生物どうしは、くっつかない。アメーバだって、他の個体とぶつかりそうになったら、よける。われわれ人間だって、街を歩いていて人とぶつかりそうになったら、思わずよける。それは、個体として収縮しようとするはたらきを持っているからだろう。そうやって生きものは、相手の前から消えようとする動きをする。
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老いるとは、身体が収縮してゆくことだ。そうして埋葬することによって、この世界から消してしまう。
人間が死体を埋葬するのは、共同体が死を忌避するからだ……これは、養老孟司先生の持論である。しかし、ことはそんな簡単ではない。10万年前のネアンデルタールは、死を忌避して埋葬をはじめたのか。そのころ死を忌避する共同性というのがあったのか。
そうじゃない。死を悲しんで埋葬しただけだ。このことは何度もここで書いてきたことだから、あらためて詳述はしない。
ともあれ、現代人だって、死を悲しんで埋葬しているじゃないか。それが、人が埋葬をするいちばんの理由だ。みんな大いに悲しむじゃないか。制度性というだけですべてがわかったつもりになっているその粗雑な思考は、なんなのか。学者の脳みそというのは、そのていどのものなのか。
彼らが埋葬をはじめたのは、ようするに消えてしまわないことには死んだということが納得できなかったからだ。そうしないと悲しみを癒すことができなかったからだ。人間が死者を埋葬することにそういう問題がかかわっているのは、とうぜんじゃないか。おまえらは、人間をなんだと思っているのか。
そして、消えてしまうことによって死を納得するのは、われわれの身体がそうした条件のもとに存在しているからだ。身体はつねに外界から「圧力」を受けながら消えようとしている。消えようとすることが、身体を身体たらしめている。原初のガスの塊は、消えようとしてまん丸の物体になった。消えようとすることが生きることであり、消えてしまうことが死ぬことだ。
意識の色合いは、身体の条件の上につくられている。原初の生命は、消えようとして発生した。外界から圧力を受けて消えようとする、それがたぶん生命の根源であり、宇宙の原理なのだ。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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