雑感・武道とミラーニューロン

内田先生が、例によってまた、武道の心得をとくとくと語っておられた。
武道で肝要なのはミラーニューロンのはたらきであるのだとか。
ミラーニューロンのはたらきとは、たとえば赤ちゃんがお母さんのすることをまねるときの脳のはたらきだといわれている。
お師匠さんの動きをなぞってゆく「型」の稽古は、そりゃあ大切でしょうよ。そしてその延長としてのミラーニューロンのはたらきによって、相手を「私」だと思い、相手の動きを予測してその先を制するのだそうな。
まあ、こういう流儀の武道は、どこまで行っても優等生レベルでしかない。
名人は、「予測」なんかしない。「気配」を察知する。相手が動こうとする前に、動こうとしている気配を察知する。
凡庸な運動選手は、予測が外れてミスをする、ということがよくある。ベテランに多い。
下り坂のベテランのボクシング選手がなぜかんたんにパンチを浴びてしまうのかというと、予測する癖が染み付いてしまっているからだ。ベテランになると身体能力が落ちてくるから、予測をして、楽してパンチををよけようとする横着さが染み付いてくる。だから、予測に反した動きをされると、もうついていけない。そうして、俺ももう引退する時期かな、と悟る。
名人は、予測なんかしない。「無我」の状態で、気配を察知することに神経を集中している。相手を「私」に見立てるというような、横着で鈍くさいことはしない。
先生はそんなことばかりやっているから、師範どうしの試合で勝てない。名人の域に達することができない。
ミラーニューロンのはたらきは、うまい人のフォームを自分に見立てて真似してうまくなってゆくんだってさ。
しかし、名人に至る道においては、うまい人のフォームを自分に見たてているのではない。そのフォームが持っている「気配」を追跡しているのだ。
うまい人のフォームを自分に見立てることばかりしている鈍くさい運動オンチは、あとで自分のフォームのビデオを見て愕然とする。そういう運動オンチにかぎって、自分がいっちょ前のフォームで運動しているつもりになりやすい。
自分のフォームを外側から俯瞰して眺めるイメージを「ミラーニューロン」のはたらきがもたらすんだってさ。
そうじゃない。自分がうまい人のようなフォームで運動できたときの手ごたえは、体を動かす感触(気配)として自覚される。自分を俯瞰して眺めてなんかいない。覚えのいい弟子は、「気配」を真似ているのである。
たとえば、あのうまい選手は、軽くボールを蹴っているな、と思えば、軽く蹴った感触を追及するだろう。体をこう動かせばどうのというようなイメージを追及しているのではない。
ホームランを打ったときはみんないいフォームをしている、などとよくいわれる。そのとき選手の意識は、俯瞰して眺めた自分のフォームのことなど忘れて、ボールがバットに当たる感触だけに意識を集中している。
俯瞰して眺めた自分のフォームを追及するなんて、鈍くさいへぼのすることだ。
サッカーのスルーパスの名人は、内田先生のいうように、味方や相手選手の位置関係を俯瞰して眺めるイメージを持っているのではなく、自分が立っているそのままのまわりの景色を眺めながら、たちまちパスが通る隙間を「気配」として察知してしまう能力にすぐれているのであって、上から俯瞰して眺めるというような、そんなまだるっこしい手続きなんかとっていない。
ミラーニューロンのはたらきとは、相手の姿を自分に見立てるというような自意識過剰なはたらきではなく、おそらく、相手の行為の感触を、そのまま追体験しようとするはたらきなのだ。
「その姿は私だ」と思うのが、ミラーニューロンのはたらきなんだってさ。あほくさ。自分なんか捨てて相手になりきってゆくのが、ミラーニューロンのはたらきなのだ。
カラオケ名人のおばさんの中には、美空ひばりになりきっている自分に酔いしれて歌っている人がいたりする。しかし美空ひばりはすでに美空ひばりだから、いまさら美空ひばりになろうとなんかしていない。歌のメロディや歌詞の世界に浸っている。歌の世界を歌っている。ミラーニューロンは、美空ひばりのように、美空ひばりの歌の世界を追跡する。「美空ひばりになった私」に酔いしれているのではない。
人がもらい泣きするのは、泣いている顔を真似ているわけでもなかろう。泣くという行為の「感触」を追体験しているのだ。
赤ん坊がお母さんの手をたたくのを真似るのは、手をたたく姿を真似るのではなく、手を叩く動きのタッチを追跡しているのだ。そういう手の動きの空間とのかかわり方や、合わさった手の感触を追体験しているのだ。
そのとき赤ん坊が、自分の姿を俯瞰して眺めているのか。あほらしい。赤ん坊は、自分の姿すらよくわかっていないんだぞ。しかし、それでも、お母さんのその行為をまねることができるのだ。
内田先生みたいに自分に対する関心だけで武道やスポーツをやっていて、うまくなるはずないじゃないか。
名人は、自分に対する関心を捨てて、「他者が現われた」という気配を察知することに意識を集中している。
内田先生は、相手と組み合った名人は相手と「同化してゆく」、というが、バカじゃなかろうか。そんなことは、美空ひばりになった自分に酔っているカラオケおばさんと一緒のレベルだ。
そのとき名人は、「同化してゆく」自分なんかもっていない。そうして相手を倒したあとに、われに返り、倒したことに気づく。
ホームランを打った選手だって、ホームランを打ったあとにホームランを打ったと気づき、ガッツポーズをする。ガッツポーズをするときに、はじめて「自分」が発生するのだ。
意識は「他者が現われた」ことの驚きやときめきとして発生するのであって、あらかじめ自分を携えて他者に同化してゆくのではない。
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ミラーニューロンのはたらきに対する認識が、みんなちょっとおかしいよ。
「ミラー=鏡」だから、相手の画像を自分の画像として認識する、というような解釈で一般的には語られていて、ラカンの「鏡像段階」という概念などもまあそういうようなことなのだろうが、そういうことではないと思うよ。
そうではなく、他者の行為を他者になりきって追跡しているのであり、そのとき「自分」などというものはないのですよ。「私」など持たないで、ただもう素直にまねているだけじゃないですか。自我意識のめばえとかなんとか、おかしなへりくつをでっち上げないでいただきたい。
鏡像段階」の赤ん坊に、内田先生みたいなえげつない自我意識があるはずないじゃないですか。彼らが最初に発見するのは、「他者」であって「私」ではないのですよ。
彼らは、ただもう純粋に無邪気に「他者の出現」に驚きときめいているのであって、自分をどうこうしているという意識などない。
そのとき、他者の姿を自分の姿にしてなぞっているのではない。他者の動きの「感触=タッチ」をなぞっているのです。
お母さんが手を動かしたから自分も手を動かした。
しかしそのときお母さんの手と自分の手が同じものだという意識はない。同じような動きをなぞった結果として、手を動かしていただけです。そんなことを繰り返しながら、やがてお母さん手と自分の手が同じものだと気づいてゆく。最初からわかっていたのではない。
ただもう、お母さんのその動きにときめいて、ひたすらその動きをなぞろうとしただけだ。その手が空間を横切ってゆくその鮮やかさに感動し、その鮮やかさをなぞろうとした。
そのとき赤ん坊は。手が空間を横切ってゆくことの鮮やかさに感動しているのであって、自分の手が動くことを喜んでいるのではない。赤ん坊に、そんな自意識やナルシズムなどない。
ミラーニューロンのはたらきとは、鏡を見るように、他者が自分と同じであることを確認するはたらきではない。自分など忘れて他者になりきってゆくはたらき、すなわち、自分に張り付いた意識を外に向かって解放するはたらきなのだ。
それをしないと、われわれは鬱になってしまう。
赤ん坊は無力な存在だ。そんな自分のことを気にしてばかりいたら、生きていけないじゃないですか。だからまず、世界に驚きときめいてゆく意識のはたらきが活発になる。それが、ミラーニューロンのはたらきだ。
赤ん坊がまねばかりしてミラーニューロンのはたらきが活発なのは、意識が身体に張り付いていたら生きてゆけない無力な存在だからであり、自分の身体のことを意識していたらまねはできないのです。
鈍くさい運動オンチが名人と同じフォームで動いているつもりでもまるでさまになっていないのは、自分の身体に対する意識が強すぎるからだ。
人間がいかに自分の身体の姿かたちに対して鈍感かということが、上のことでもよくわかるでしょう。ブスのくせにブスじゃないと思っている女はいくらでもいるし、ブスだとは思わないから生きてゆける。
われわれは、みずからの身体を、「姿かたち」として認識しているのではなく、「ある輪郭を持ったからっぽの空間」として認識している。身体を動かすのは「空間感覚」であって、姿かたちや肉や骨の「身体感覚」ではない。内田先生は、「空間感覚」ではなく「身体感覚」で体を動かしているから鈍くさいんだよね。
赤ん坊は「空間感覚」で体を動かしているから、自分の身体の姿かたちなど知らなくても、お母さんの体の動きをまねることができる。
まあこの話をつつくと長くなってしまうのだが、とにかく「まねる」とは、姿かたちとしての身体を忘れている心の状態の上に成り立っているのであり、それは自意識ではないのですよ。そこんとこ、おまえら、なあんもわかっていない。
茂木健一郎先生は、「個性と協調性は矛盾するという科学的に間違った思いこみは捨て、脳の中の鏡(ミラーニューロン)で大いに個性を磨こうではないか」などと解説しておられるが、まったく、何いってるんだか。笑っちゃうよね。「個性」などという言葉のどこが「科学的」なんだか、さっぱりわかりません。
内田先生にいたっては、「ミラーニューロンによって自我が培われる」などというし、もう、いやになってしまう。
そうじゃないんだよ、そういう自意識から解き放たれて、赤ん坊のように他愛なく他者にときめいてゆく機能として、ミラーニューロンのはたらきがあるのだ。ミラーニューロンは、もっとも没個性的なな赤ん坊の脳で、もっとも活発にはたらいているんだぞ。おまえらみたいな、すれっからしの俗物の脳においてではない。
ミラーニューロンは、個性を磨くための脳ではない。弱いものが鬱に陥らないでも生きていられるはたらきとして機能しているのだ。
人間は、弱い生きものだ。
そこのところ、あなたたちの思考は薄っぺらだ。ちゃらちゃらしすぎている。
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【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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