鬱の時代・25・どうでもいい

僕が生きることにあまり自信がないのは、生きることを一所懸命にしないタイプの人間だからだ。
たいていのことは「どうでもいい」と思って、面倒くさくなってしまうからだ。
しかし世の中は、こういって僕を強迫してくる。生きることはかけがえのない大切なものだから、一所懸命生きなければならない、幸せでなければならない、と。
このような社会的合意に、誰もが心のどこかしらで追いつめられている。その結果、従順になれる人はいいが、なれないものは、さらに追いつめられねばならない。
何がわれわれをこんなにも怠惰にさせるのだろう。
傷ついてはならない。生きることなんて、もともとどうでもいいことなのだ。
傷ついたら、負けだ。
傷ついたら、傷ついた自分のことばかり気になって、世界に対する反応を喪失してしまう。
「どうでもいい」と思わなければ、意識を自分から引きはがすことができない。
世界は輝いているというのに。
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鬱とか対人障害とか、まあそうした不安定な精神状態に置かれている人に対して、医者やセラピストはよく、自分の気持ちを語らせようとする。
すると患者は、嘘をついてごまかしたり、「そんなことわからない」と怒り出したりすることが多い。
自分の気持ちを冷静に分析して語れるなんて、立ち直りかけているときにはじめてできる。
追いつめられて身もだえしている人は、そんなこと考えたくもないし、わからない。
患者に対して「あなたの気持ちを私に報告しなさい」と命令するのは、傲慢だし職務怠慢だと思う。本人の怒り出したくなる気持ちは、わからなくもない。なぜ精神が不安定になるかといえば、自分のことがわからないからではなく、意識が自分に張り付いたままになっている、その状態がうっとうしいからだ。自分のことなど忘れて世界や他者にときめいていられたら、不安になんかならない。その「自分に張り付いたままでいる意識」を引きはがしてやるのが治療するがわの仕事なのに、なお自分にこだわるところに追いつめてゆくなんて、まったく無知で無神経な態度だとしかいいようがない。
そんなことよりまず、こちらが、「あなたは今こういう気持ちであるように見えるのだが、違いますか?」と問いかけるべきなのではないだろうか。「夜はよく眠れますか」とか、聞くことはいろいろあるだろう。
相手を「検閲」するのではなく、「対話」をするのが治療するがわのとるべき態度ではないのか。
今どきの治療者は、患者を検閲し、患者自身にも自分を検閲することを強いている。
「追いつめられる」とは、意識が自分に張り付いてしまうことであり、そのとき患者は、けんめいに「消えて」しまおうとあがいている。
報告するべきは、患者ではなく、治療するがわの気持ちなのだ。「私はあなたのことをこのように見ています、思っています」と、むしろこちらからのレポートを患者に提出するべきなのだ。
そのレポートに、患者がどう反応してくるか、してこないか、そこが勝負だ。
必要以上に他者から追いつめられることなく、率直に反応してゆくことができるようになれば、一歩前進だ。
追いつめられたものは、消えようとする。
われを忘れて他者に反応してゆく、それが「消える」ということであり、彼らには、そういう体験が必要なのだ。
いや人間なら誰だって、そういう体験のカタルシスを汲み上げて生きている。
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学校や会社でまわりのみんなから「シカト(無視)」されたら、誰だって「圧力」と感じる。真空は、圧力なのだ。
一対一の関係においても、勝手な自慢話ばかりされたら、何か自分のことを無視されているようでうっとうしくなってしまう。
会社の上司や学校の先生に責められるとき、その相手は、自分の怒りや社会正義などにこだわっているだけで、こちらに対する関心も反応もない。「おまえはだめだ」という大義名分を振りかざしても、それは、相手に対する関心ではない、「大義名分」に関心があるだけだ。
「関心」という言葉はくせものだ。
「監視する」という関心は、監視している自分のアイデンティティを守ろうとしているにすぎない。それもまた一種の無関心であり、相手を身動きできなくさせる圧力になっている。
自分に対する関心が強ければ、必然的に他者に対する意識も希薄になる。
他者を監視するという関心は、他者に対する「反応」ではない。それは、監視している自分に対する関心でもある。
他者に反応するとき、自分に対する意識は消えている。人は、われを忘れて怒り、われを忘れてときめく。
他者に対する「関心」などなくてもいいし、ないほうがよい。なくても、避けがたく「私」の前に「他者」は現われる。「関心=予想」などなかったから、驚いたりときめいたりという反応が生まれてくるのだ。
意識の根源において、「志向性」などというはたらきはなく、他者の存在は予想されていない。「他者」は、不意に「私」の前に現われる。そうして、意識が発生する。他者の存在が、私の意識を発生させるのだ。
「私」は、つねに「他者」から一瞬遅れて発生する。根源的な意識は「他者」など知らないし、したがって先験的な世界や他者に対する関心(志向性)も持っていない。
「他者」に反応するのが「私」であって、「私」は「他者」の存在を予想し関心を持っているのではない。
人間は、他者に「関心」を持っている存在ではない。他者の出現に「反応」する存在なのだ。
われわれは、大きく密集した群れの中に置かれている。猿の仲間の動物としては、限度を超えて密集している。したがってその密集に耐えるためには、「一緒にいる」ことの充実よりも、「出会う」ことのときめきのほうが大切になる。一緒にいる暮らしの中にも、さまざまな「出会いのときめき」を挿入しつつ、密集状態のうっとうしさをやりくりしてゆく。人が「おはよう」や「こんにちわ」とあいさつするのは、そうやって密集状態の中からでも「出会いのときめき」を汲み上げてゆこうとする文化なのだ。
一期一会、日本列島における人と人の関係の伝統は、ことにそういうコンセプトになっている。
限度を超えて密集した群れにおいては、関心をもたれ監視されることはうっとうしいし、無視されると、取り残された思いもひとしおになってしまう。そういう「環境」に翻弄され追いつめられながら人は、鬱に落ちてゆく。
われを忘れて世界や他者との出会いに驚きときめいてゆく……限度を超えて密集した群れにおいては、そうやって自分(身体)が消えてゆく体験が必要なのだ。
「消える」ことができないから、監視されることがうっとうしくなるし、取り残されたような思いにもなってしまう。
いいかえれば、人間社会はそういう監視と無関心の社会だからこそ、「消える」ことのカタルシスもいっそう深いものとなって体験される。
だが現代社会では、自分(身体)が消えることのカタルシスを汲み上げることが困難な状況になっている。共同体は、監視されてあることそれ自体を充足として生きよ、と迫ってくる。現在の学校や会社はまさにそういうコンセプトの上に成り立っているし、企業はつねに消費者の動向を監視している。そしてわれわれ自身もまた、政治や社会現象に関心をふくらませ、何より自我意識として、自分で自分を監視する習性からも逃れられなくなってしまっている。
自分(身体)が「消える」ことのカタルシスが希薄になっている社会なのだ。そういう「環境」が鬱やEDなどのさまざまな精神的身体的トラブルを引き起こしている。
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キャリア、という。
経験を積めば、仕事の能力が上がり、信用も増して、社会的地位が安定してくる。
人は、そうやって大人になってゆく、と信じられている。
では、そういうキャリアが、ある日突然水の泡になってしまったら、どうするか。
どれだけ長くはたらいても何のキャリアにもならない仕事をしている人はいくらでもいる。そうして、あげくに家族も友人も失うか捨てるかしてホームレスになってしまった人もいる。
社会的なキャリアがアイデンティティを保障している世の中だから、それを持っていない男はさげすまれる。というか、それを持て、と社会が強迫してくる。また、持っている人も、失うまいとする強迫観念に追いつめられたりする。
「消える」ということを怖れている世の中なのだ、いろんな意味で。
追いつめられて、しかも「消える」ことを禁じられているというか、うまくできない人は、鬱に落ちてゆくしかない。
鬱に落ちて、ホームレスになったり、自殺してしまったりすることも多い。
ホームレスになることは、ひとまず「消える」ことだ。それが、その人の救いになる場合もある。
いやな人生だったら、すべて清算してしまいたくなるだろう。「命のかけがえのなさ」とかなんとか、妙な理屈をつけて「いい人生だった」と思えなんて、それは傲慢というものだ。
すべて清算してさっぱりと忘れられるのなら、これ以上のことはない。現実問題として忘れられるものではないが、せめて「もうどうでもいい」と思えるなら、まだ生きていられる。
自分の人生の無意味さやくだらなさに追いつめられている人に必要なのは、その無意味さやくだらなさを肯定してすべてを清算してしまうことだ。彼は「人生の価値」を合唱する社会的合意から追いつめられている。人生の価値や意味が信じられるものは、勝手にそう信じて生きていけばいいさ。しかしその欺瞞を彼らに押し付けて、自分たちを正当化することもないだろう。
人生は無意味でくだらないと思って何が悪い?ほんとうのことじゃないか。正直にそう思って、何が悪い?それでもわれわれは、世界にときめいている。おまえらよりずっと深くときめいている。おまえらみたいなインポ野郎とは、わけが違う。われわれは、美女でなければならないというような選り好みはしない。女なら誰でもいい。
追いつめられているものたちは、みずからの人生を清算し、目の前の「あなた」が女のすべてだ、と思ってときめいている。
人間は、「達成感」の満足で生きてゆくものなのか。そんなことは、達成感を得られている人だけのものだ。達成感を得られなければ生きてゆけないなんて、そんな、達成感を得られない人を追いつめるような理屈をむやみに振りかざしてくれるな。
生まれたばかりの赤ん坊のような新しい気持ちになって生きられたら、それはそれで素敵なことではないか。そういう気持ちのカタルシス(浄化作用)は、いじましくキャリアを積み上げてゆく達成感を後生大事に守って生きている人間には、けっして体験できない。
毎日生まれ変わって生きてゆけたら、何よりじゃないか。そしてそういうカタルシスを体験できるのは、しんそこ深く「こんな人生ろくなもんじゃない」と思っている人たちなのだ。キャリアが自慢の、おまえらじゃない。
おまえらの人生だけが人生ではないんだよ。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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