鬱の時代26・歴史という環境

僕のようなのうてんきな人間が鬱のことを書く柄でもないのだけれど。
いまや世界中の人間が鬱状態だ、ともいえるらしい。
鬱の人には魅力的な人が多い。だから、鬱の人にも届く言葉を紡ぎたいという思いがあってこんなものを試みに書いている、というわけです。
僕の敬愛するある人が「死にたい」といった。それに対して僕は、「死なないでくれ」とはいえなかった。僕にできることはただ、こうして「死にたい」という心の構造について考えてみることだけだった。
鬱とは「穢れ」である、という。
そうだ、生きてゆくことは穢れてゆくことだ。
誰もが穢れながら生きてある。
じっとしていれば、体に汚れた空気がたまってゆく。汚れた血がたまってゆく。だから、それらを新しいものと入れ替えねばならない。
穢れをそそがねば生きてゆけない。
穢れを消すこと、それが生きてあるいとなみであり、その行為にこそ生きてあることのカタルシス(浄化作用)がある。
それがなければ、われわれは生きていられない。
何かを獲得することじゃない。穢れを消すことによって生きていられる。
つまり、根源的な生きてあることのよろこびとは、何かを獲得したという達成感にあるのではなく、穢れが消えたということのカタルシス(浄化作用)にある、ということだ。
生きものは、何かを獲得しようとしているのではない、生きようとしているのでもない、生きてあることの「穢れ」から逃れたがっているのであり、生きてあることの醍醐味もそこにこそある。そして、そこでこそ「鬱」であることが癒されるのだろう。
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鬱とは「環境」である、と誰かがいった。
環境によって鬱になるのなら、鬱を治すのもまた環境だろう。
一般的には、自分との対話から立ち直らせようとするのだろうが、それはちょっと違うのではないかと思う。意識が自分に張り付いているかぎり、苦しくなるばかりだろう。
そして今、患者を取り囲むすべての環境が患者を追いつめている。
医者やセラピストだって、患者を追いつめているひとりになっている場合も少なくないにちがいない。
患者にとって、残された救いの環境はないのか。
宗教……?それはちょっと違う。
人間が原始状態であれば、とりあえずまわりの景色とか新しい人との出会いがあればいいのだろうが、現代のうつ状態の人はそれ自体から追いつめられているのだから、そうかんたんには癒されない。どんどん袋小路に追いつめられてゆく。
あとはもう、死ぬことだけか。
死ねば、穢れを消すことができる。不治の病に冒された人が自殺することだって、不治の病という穢れを消そうとする行為だ。それは、人間が生きてあることの根源的な衝動なのだ。「あなたのすることは間違っている」とか「弱い心だ」などということはできない。
穢れを消そうとするのは人間の根源的な衝動であり、だから、死んだ人は仏になる。
自殺しようとするまいと、死んだら仏になるのがこの国の文化だ。
そういう文化土壌の国民が、不治の病に冒されてみずから死を選んでしまうことはもう、しょうがないことではないか。
鬱におちいった人だって、自分はもう一生この袋小路から抜け出せない、と絶望して死を選ぶ。
人間だろうとただの生きものだろうと、根源的には生き延びようとする衝動(本能)などというものはないのだから、人間もただの生きものも、この一瞬が永遠だと思ってしまうようにできている。
われわれだって、失恋すれば、もう二度と恋なんかできないだろう、と思ってしまうではないか。それは、生きものとしてのそういう与件の上に起きてくる心の動きなのだ。
不治の病に冒された人や鬱におちいった人がみずから死を選んでしまうのは、しょうがないことなのだ。「死んだら仏になる」というこの国は、ことにそういう現象が多く生まれてくるような文化風土になっている。
それは、死んだら仏としてみんなから尊敬されると思うとか、そういうことではないんだぞ。みずからの穢れをそそぎたいという、その一心で死を選ぶのだ。
人間は、穢れをそそごうとする生きものなのだ。人間だろうと虫けらだろうと、「生き延びようとする本能」などというものを持っているのではない。
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「歴史」もまた、われわれのひとつの「環境」である。
不治の病に冒されてみずから死を選んだ人も、「死んだら仏になる」というこの国の歴史に帰っていった、ともいえる。
そしてこの国では、生きてあることそれ自体が「生き延びようとすること」ではなく「穢れをそそいでみずからを消してゆくこと」であるという歴史=文化風土を持っている。
つまり、生きてあることそれ自体が死ぬことであり、自分を消すことだ、という歴史=文化風土になっている。そういう「歴史」という「環境」も持っている。
そういう「歴史」に帰ってゆくことができるのなら、生きていられる。
われわれにとってこの国の歴史は、たやすく死を決意させるものであると同時に、われわれを生かしているものでもある。
人間は、穢れをそそごうとする生きものである。われわれは、それによってたやすく死を選んでしまうこともあれば、それによって生きてあることができてもいる。
われわれは、自分(の身体)に張り付いた意識を引きはがして世界にときめいてゆくことによって、生きてあることができる。
自己意識という自分(の身体)に張り付いた意識によって、鬱の問題が解決されるわけではない。自分なんかどれほど精緻に分析できたって、解決にはならない。
鬱は自分をしっかり見つめることによって克服される……などというのは嘘だ。そんなことは、鬱の人がいちばん精緻にできている。自分をしっかり見つめることによって、鬱から逃れられなくなるのだ。
鬱を解決するのは、「自分」ではなく「環境」なのだ。
人間なんか、他愛なく世界にときめいていられたらいいだけだ。
青い空を眺めて、青い空であることそれ自体にときめいているとき、彼はいっとき鬱から解放されている。自分(の身体)に張り付いた意識が引きはがされている。
西洋には、自意識を抑制する文化がある。唯一絶対の「神」が自意識を抑制し、意識を自分(の身体)から引きはがしてくれる。もともと自意識の強い彼らには、そういう文化が必要だった。
しかしこの国には、そういう唯一絶対の神などいない。だから、自意識が野放しになって、際限なくふくらんでしまう。自意識で、二十四時間だって働いてしまう民族なのだ。
この国には、自意識を抑制する文化がない。だから企業は、平気で「派遣切り」をする。
この国の歴史の水脈は、自意識を抑制するのではなく、自意識を消してしまう「みそぎ」の文化を育んできた。
しかしその歴史その歴史の水脈は、戦後からバブル景気にいたる時間の流れとともに、すっかり埋没してしまった。
だから、自意識が際限なく肥大化してしまう人種が増えてのさばり、同時に、自分(の身体)に張り付いた意識が引きはがせなくなっている鬱の人も多く現われてきた。自殺者が年間3万人以上という現在の状況は、そういうことなのだ。
この国には、自意識を抑制する文化がない。
われわれに残された道はたぶん、唯一絶対の神を信じるか、この国の歴史の水脈に回帰して、よりラディカルに意識を自分(の身体)から引きはがしてしまう「みそぎ=消えてゆく」の文化に身を浸してゆくかのどちらかだ。
われわれは、唯一絶対の神を信じてゆくことができるだろうか。
少なくとも若者たちは、それよりも、われを忘れて他愛なく世界にときめいてゆく「みそぎ=消えてゆく」という歴史の水脈を選択しようとしている。それが「かわいい=ジャパンクール」の文化だ。
世界だって、唯一絶対の神を信じることではもう、うまくやってゆけなくなってきている。
「歴史という環境」が、鬱の解決になるのかどうかは僕にはわからない。しかし「歴史」は、われわれに残されたもうひとつの「環境」であることはたしかだろう。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
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