愛の不可能性・ネアンデルタール人論268

人間は社会をつくる生きものだといっても、社会の中で生きることがよろこびであるはずもなく、社会はあくまで「憂き世」だ。その「憂き世」であることの「生きられなさ」をやりくりしながら、命や心のはたらきが活性化してゆく。
「生きられなさ」の中に飛び込んでゆくことによって、命のはたらきが生まれてくる。
「生きる」ことは、「生きられなさ」の中に飛び込んでゆくことだ。
生きられるはずもない氷河期の極北の荒野で50万年を生きてきたネアンデルタール人の社会に文化の発達がなかったと、どうしていえるのか。彼らこそ人類の知能の発達の総仕上げをした人々であり、3万年前の彼らがホモ・サピエンスミトコンドリアDNAを拾ってしまってクロマニヨン人というさらに「生きられない」体の存在になったことによって、さらに文化が花開いていった。
つまり、洞窟壁画等のクロマニヨン人の文化とは、「生きられなさ」をやりくりしてゆく文化だった。
知能が発達すればだれでも絵がうまくなるというわけでもあるまい。知能の発達はたんなる結果であり、人それぞれ「生きられなさ」をやりくりしながら、学問や芸術の能力を身につけていったり、人間的な魅力や上手に生きてゆく処世術を身につけていったりもする。
最初から上手に生きられるのなら、絵がうまくなる必要なんか何もない。
人間だって、誰もが猿並みの知能の赤ん坊として生きはじめるわけで、高い知能を持って生まれてくるわけではない。人間の社会は、知能を発達させるような構造を持っている。赤ん坊のときから猿の社会で育てられたら、猿の知能しか持てない。
クロマニヨン文化とは、北の環境で歴史を歩んできたことによる北の文化であり、アフリカの文化を土台にして生まれてきたのではない。
たとえば、考古学の証拠としてアフリカに存在する洞窟壁画はすべて「直線」に対する指向性に上に成り立っている画風であり、クロマニヨン人の洞窟壁画はすべて「曲線」に対する指向性で描かれている。直線は暑さの中でぼやけてしまいそうな意識を覚醒させ、曲線は寒さの中で激しく動き回って興奮している意識を鎮静化させてくれる。やわらかい曲線で動物の体の丸みやボリュームを表現したクロマニヨン人の洞窟壁画は、おそらく寒さの中で生きてきた50万年の歴史の伝統の上に成り立っている。それは、直線志向のアフリカ人がいきなりそこに行って描けるような絵ではない。
洞窟壁画は、4万数千年前からすでに描かれていたのであり、それはネアンデルタール人のものであった可能性もある。クロマニヨン人としてのはっきりとした遺伝子証拠や考古学証拠は3万年前以降からあらわれてくるのであり、集団的置換説の提唱者たちは、その4〜3万年前の段階的過程をすべてアフリカ人のものとして決めつけているが、ネアンデルタール人クロマニヨン人になってゆく過程だと考えた方がずっと多くのことのつじつまが合う。もしもアフリカ人がやってきたのなら、その段階の洞窟壁画はアフリカの洞窟壁画と同じように直線的な表現になっていなければならない。絵のモチーフだって、アフリカでは人間を描くことが中心のものばかりだが、ヨーロッパにそんな洞窟壁画は存在しない。ヨーロッパでは、ほとんど動物ばかり描いていたのだ。
まあ、どちらの知能のほうが上だというようなことではなく、熱帯と極北では知能=文化の中身が違っているのが当然だし、極寒の極北の地で50万年の歴史を歩んで知能や文化が発達しなかったということなどありえない。。
知能や文化は、「生きられなさ」を生きながら進化発展してゆくのだ。

人にとってのこの生のいとなみは、「生きてあることのいたたまれなさ=けがれ」をそそいでゆくことにある。この生を消すことが生きるいとなみなのだ。そうやって「消えてゆく」ことのカタルシス(浄化作用)を汲み上げてゆくことができなければ、人は生きられない。平和で豊かな現代社会では、それができなくなって認知症鬱病やインポテンツになったりしている。
「生きられない」ことが「いたたまれない」のではない。「生きられる」というそのことが「いたたまれない」のであり、「生きる」というそのことが「いたたまれない」のであり、そうやって命や心のはたらきが安定・停滞したまま活性化してゆかないことが「いたたまれない」のだ。平和で豊かな社会の現代人は、命や心のはたらきが活性化しないまま生きて、それを「けがれ」だと自覚していない。
平和で豊かな社会を安穏に生きることができれば幸せだが、それはもう、すでに命や心のはたらきが停滞衰弱してしまっている状態でもある。まあ、そうやってなんにも考えなくなってゆき、なんにも感じなくなってゆき、認知症鬱病やインポテンツになっていったり、今どきの社会における「ポピュリズム(愚民主義)」といわれる潮流が起きてきたりしている。
「幸せ」というか、「自意識の充足=肥大化」を「けがれ」とは感じなくなっているために、自分が「消えてゆく」ことのカタルシスを汲み上げることができなくなってしまっている。
そういう自意識過剰の時代なのだろう。

生き延びる能力を持つと、「けがれ」をそそぐ能力が失われてゆき、どんどん「けがれ」がたまってくる。それこそが「人類拡散」の契機だった。
世の人類学者たちが合唱するような「生き延びることができる土地を目指して拡散していった」ということではない。人類の歴史は、「生き延びるための利益」を求めて流れてきたのではない。たとえ人がそのような行動をしても、歴史は思わぬ方向に流れてゆく。
原始人は「あの山の向こうには何もない」と思っていたのであり、それでも集団の外にさまよい出て行ってしまうのが、二本の足で立っている存在である人類の生態だった。そうしてそこで人と人が出会ってときめき合いながら新しい集団がつくられてゆく。その無限の繰り返しによって、「あの山のむこう」どころか、とうとう地球の隅々まで拡散していった。
原始人による人類拡散は、「何もない」というそのことに引き寄せられる体験だったのであり、「住みよい土地を求めて」とか、「山のあなたの空遠く幸い住むという」とか、そんなことではない。
原始人にとって、この生はいたたまれないものだった。「もう死んでもいい」ということ、すなわち人は、人間性の自然として消えてゆこうとする衝動を持っており、心は消えてゆくことのカタルシス(浄化作用)を汲み上げてゆく。彼らは「あの山の向こうは何もない」と思っていたのであり、人類拡散は「何もない」というそのことに引き寄せられてゆく体験だった。
ネアンデルタール人は、そういう歴史をそのころの地球上でもっとも色濃く背負っている人々だった。彼らの社会における集団の離合集散も、そうした「人類拡散」の延長で起きていることだった。
すなわちそれは、この生の「けがれ」をそそいで消えてゆこうとする体験だった。
まあ人間のすることなんか、本質的には、この世界の「異物」であることの「けがれ」をそそごうとする体験なのだ。
生きものの身体が動くことは、「異物」としてのこの生の「けがれ」をそそごうとする体験以外の何ものでもないと思える。それは、生き延びようとしているのではなく、「今ここ」から消えてゆこうとしていることだ。

人間性の自然においては、「生き延びる能力」を持つことは、ひとつの「けがれ」なのだ。その「けがれ」をそそぐというかたちで少年少女の心は、自然に家族の外に向けて旅立ってゆく。さらにいえば、社会が平和で豊かになるということは、「けがれ」がたまってくることであり、もしも現在のこの国が平和で豊かな社会になっているとすれば、われわれに必要なのは、平和と豊かさを称揚することではなく、「生き延びる能力」としての平和と豊かさの「けがれ」をそそぐ「みそぎ」の体験にこそある。
われわれのこの生を支えているのは、平和で豊かな社会のありがたさではなく、世界の輝きに気づきときめいてゆく体験にある。なんのかのといっても、誰だって泣けてくるほどのときめき=感動を欲しがって生きているのだし、「平和で豊かな社会」という「生き延びる能力」に執着していたら、そのカタルシス(浄化作用)はどんどん失われてゆく。
「ときめき=感動」は「生きられなさ・生きにくさ」の悲劇を生きるところにこそある。だから、ときめき感動すると泣けてくる。そのとき、「生きられなさ・生きにくさ」に浸りながらときめき感動しているのだ。
「けがれ」とは、ときめき感動する心を失ってゆくこと。現在のこの国における平和と豊かさの「けがれ」は、あちこちに露出してきている。老人たちは次々に認知症鬱病やインポテンツになってゆき、発達障害を起こす子供も増えてきている。若者たちはセックスや結婚をあまりしたがらなくなり、全体的に人と人の関係が不調になってきている。
現在のこの国では、平和で豊かであることの「けがれ」がたまってきている。
われわれは「けがれ」をそそいでゆかなければ生きていられない。たとえば、いやなことや傷ついたことをいつまでも引きずっていたり、そこから憎しみや不平不満のルサンチマンを募らせていたら、ときめく心はどんどん失われてゆく。そうやって意識が「自分」に張り付いて離れなくなっている状態を「けがれ」という。それは幸せにまどろんでいようと不平不満に苛立っていようと同じであり、「自分=この生」に執着してゆくことは、そのままネガティブな感情を引きはがせなくなってしまうことでもある。どちらにしてもそれは「自分」に執着している自閉的な状態であり、意識が外に向かって開かれていない。つまり、我を忘れてときめいてゆくということができない。そうやって子供や若者は発達障害を病み、老人たちは認知症鬱病やインポテンツになってゆく。
現在は、大人たちが自意識に執着して、「けがれ」の自覚が持てなくなっている社会であるらしい。
どんなに平和で豊かであろうと、この世は「憂き世」であり、生きてあることはいたたまれないことなのだ。そういう「嘆き」を共有できるのなら人と人はときめき合うことができるし、人は「嘆き」を抱えている存在だから「感動する」という体験ができる。

われわれのこの命は、生きられない命なのだ。誰の心の中にも、生まれたばかりの赤ん坊のような、生きられなくてひりひりした感慨が宿っている。人と人はそういう感慨を共有しながらときめき合っているのであって、生き延びるための正義なんか振りかざしても、ときめき合う関係にはなれない。それは、最終的には「生き延びるためなら何をしてもいい」ということになるわけで、そうやって社会集団は戦争をしたり、個人として他人を裁くことばかりしながら嫌われ者になったりしてゆく。
他人を裁くことなんか、どうしようもなく卑しく下品なことなのに、正義のがわに立っていれば、そういうことすなわち「けがれ」に無自覚になってしまう。
自分は人に好かれてしかるべき人間だと思い込んだり、好かれようとあくせく策を弄したり、そういう自分の「けがれ」に無自覚な人間は、醜いし、好きになれない。そんなことを思い込む必要も、策を弄する必要もない。あなたが魅力的な人間なら、何もしなくても好かれる。
われわれは、生まれたばかりの赤ん坊のように、そんなことはいっさい当てにせず、一方的にただもう無邪気に自分からときめいてゆくことができるか、と試されている。
「愛し合っている」なんて、ただの幻想だ。
われわれはただの「異物」なのだから、愛される資格なんかないし、愛されることなんか鬱陶しいだけだったりする。愛されることは、愛する気持ちを奪われることだったりする。それは、「異物」であることを否定されることだ。愛されることが叶わない「異物」の存在として、ひたすら一方的に相手に「憧れてゆく」ということができなくなってしまう。「ときめく」という心の動きは、そういう「遠い憧れ」から生まれてくる。
「遠い憧れ」を失ったら、生きていられない。
正義なんかなんの足しにもならないし、正義を押し付けられたらうんざりしてしまう。そうやって愛することの正義を押し付けられるのは、しんどい。
生きることを愛せ、正義を愛せ、愛を愛せ……そんなことはできない。
われわれの「遠い憧れ」は、愛の不可能性のもとで生成している。