生きる権利などない・ネアンデルタール人論267

ネアンデルタール人は、家族という単位を持たなかった。家族を持ったことは人類の文化であるが、家族の外の「異質な他者」にときめきながら恋をしたり友情を持ったりするのも、猿とは違う人間ならではの文化でもある。家族は、血のつながりを大切にするための拠点であるとと同時に、血のつながりを超えてゆくための拠点でもある。
ドーキンスがいうように、遺伝子のはたらきが血のつながりを確保しようとすることにあるとすれば、人類の文化は血のつながりを超えていったところから生まれ育ってきた。そうやって地球の隅々まで拡散していったわけで、その果てに氷河期の北ヨーロッパネアンデルタール人が登場してきた。人類の文化=生態は、血のつながりをシャッフルしてしまう。そうやって彼らは、フリーセックスの集団をいとなんでいた。
ネアンデルタール人の登場は、人類の文化のひとつの歴史的達成だった。それは、移民(=旅人)を受け入れる文化であり、彼らの末裔である現在のヨーロッパ人は、そこのところでどう折り合いをつけてゆくかと苦悩している。なんといっても彼らは、文明発祥以降もずっと移民を受け入れる歴史を歩んできたのだから、今さら移民を完全に拒否してしまうようなメンタリティにはなりきれないのではないだろうか。まあ現在は、なりきろうとする右翼勢力がどんどん台頭してきて、EU連合は瀕死の状態になりつつあるらしい。イギリスはすでに脱退を表明したし、フランスやイタリアでもやがてそうなりそうな気配になってきている。ドイツだけが、拒否と受け入れの対立をやりくりしながら、必死にがんばっている。

ポピュリズムというのか、今や人類の知性や感性はどんどん衰退してきているらしい。
センチな言い方をすれば、「生きられなさを生きる」とは「貧しいもの弱いものどうしが助け合って生きる」ということであり、じつはそれこそが700万年の人類進化の本質的なかたちだったのだが、そういう文化が失われつつある。
貧しいもの弱いものどうしが、助け合うよりも、競争する社会になってきている。
「競争こそ進化の本質である」と平然といってのける科学者も少なくない。『利己的な遺伝子』の著者であるリチャード。ドーキンスだって、けっして例外ではない。この本の中で、いったい何度「競争」という文字を読まされたことか。「自然淘汰とはそういうことだ」と。それは正しい、正しいがしかし、それでも「進化の動因は、身もだえしながら生きられなさを生きることにある」といえなくもないはずなのだ。
人は「生きられなさ」の中に飛び込んでゆこうとする存在であり、進化はそこから生まれてきた。なぜなら、息をすることのもっとも深く豊かなよろこびとダイナミズムは、息苦しさの中で息をすることによってこそ体験されるからだ。科学者は具体的な事例をたくさん知っているからこそ、あんがいこういうプリミティブなことに気づいていなかったりする。
進化は、競争して勝ち抜くことによって起きてくるのではない。弱いものどうしが助け合うところから生まれてくるのだ。
高等生物の体は、無数の細胞によって成り立っている。つまり、細胞という生きられない弱いものが無数に集まって助け合いながら体のはたらきをつくっている。そしてそれは、無数の遺伝子が助け合っている、ということでもある。遺伝子そのものが、「生きられなさ」を生きている存在なのだ。
また細胞には、体に寄生してきた細菌を呑みこんでみずからの組織の一部にしてしまうはたらきも持っている。細菌という旅人=移民を受け入れているのだ。すなわち、「異質な他者」と関係してゆくことは、本能というか、根源的な命のはたらきでもある。

生きものは、みずからの存在がこの世界の「異物」なのだから、この世界のすべては「異質な対象」であり、「異質な対象」と関係してゆくことが「生きる」というはたらきになっている。
われわれは、「異質な対象」を排除したり受け入れたりして生きている。「異質な対象」を受け入れたら生きられないし、受け入れなければ生きられない。
生きものの進化において細胞の数が増えてゆくことは「異質な対象」を受け入れたり寄生していったりした結果であり、それは、「異質な対象」として寄生してきた「移民=旅人」を受け入れるか排除するかという問題でもあるのだろうか。その寄生細菌という「旅人=移民」によって細胞が活性化するなら受け入れるし、停滞衰弱してしまえば受け入れることができなくて排出してしまう。
移民によってその社会が活性化できないのなら、とうぜん受け入れ拒否の動きが出てくる。失業者がたくさんいる状況では、受け入れることはできない。受け入れるなら、ゲットーのようなかたちでどこかに閉じ込めておくしかない。それはもう、しょうがないことだ。
「人権」とか「生きる権利」などといっても、基本的に「生きる権利」などというものは誰にもない。生きものは、この世界の「異物」なのだ。人は、無意識のどこかしらにそういう思いを抱えている。だから、戦争という殺し合いをするし、「ここにはいられない」という思いとともに旅立ちもする。また、だからこそ、そういう旅人を歓迎し、もてなしたりもする。無意識のどこかしらでそういう「生きられない」思いを共有しながらときめき合ってゆく。
ときめき合ったり、憎み合ったり殺し合ったり、人と人の関係はとても危ういところに立っている。心も命のはたらきも、じつは生きるか死ぬかのせっぱつまったところに立っている。そうやってこの生のカタルシスとして無邪気に殺し合ったりもするし、ときめき合いもする。
つまり、ヨーロッパ人がが移民を拒否するようになってきているからといって、人間なのだから、旅人を受け入れもてなす心がなくなってしまったとは言い切れない。
人類は見知らぬ旅人に好奇心を抱いてしまう歴史を歩んできたのであり、知り合いだけで固まっている世の中でいいというわけにはいかない。誰もがそんなメンタリティになってしまったら、誰も旅なんかしなくなる。旅をしなくなったら、人間が人間でなくなってしまう。
人間が旅をする生きものであるということは、集団からはぐれてしまう心の動きを持っているということだ。その心とともに原始人の「人類拡散」という現象が起きた。
原始人だけではない。現代人だって、誰の心も、どこかしらで集団からはぐれてしまっている。人と人は、集団からはぐれてしまった心を持ち寄ってときめき合っている。その心細さから、他者の輝きに気づきときめいてゆく。
人類の血は、避けがたく世界中で混じり合ってしまう。
そうかんたんに「国家」などというものは信じられない。信じない心を共有しながらときめき合っているのだ。
誰の心も、「生きる権利を持たないこの世界の異物」としてはぐれてしまっている。人は、そこから生きはじめ、死んでゆく。