不幸を受け入れる・ネアンデルタール人論213

正義ぶった生命賛歌なんか、やめてくれよ、と思う。いまどきは、そういう思考停止に居直った市民正義が充満している。
うんざりなんだよ。あなたたちの思考なんてそのていどか、と思ってしまう。
もっと深く考えよというのではない。なぜもっと無邪気に素直にそして率直に感じてゆくことができないのか、ということ。
自分では賢く正しい人間のつもりだろうが、その、「正義」によって人や世界を裁ききたがるその思考態度は、ひとつのサディズムであり支配欲でもある。そうやって心が病んでいる。
クレーマーとかいじめとかセクハラとかパワハラとか迷惑老人とか、サディズムがじわじわ増殖しつつある世の中だろうか。正義ぶって世の中にあれこれ物申している知識人のあなただって同じ穴のムジナさ。あなたたちの心は病んでいる。成功者になればあなたたちの正義は大手を振って闊歩できるし、成功者になれなかった下層の庶民だってその態度をまねて自分の生を正当化したがっている。
むやみな生命賛歌は、サディズムを生む。正義ぶったあなたたちの心の中にはサディズムが渦巻いている。
生きてあることを嘆いて、何がいけないのか。この世界の輝きにときめいているものたちは、この生もこの世界も「憂き世」と嘆いて生きている。そして、死んでゆくことがひとつの「解放」になる。そこにこそ、人間性の自然がある。氷河期の極北の地に移住していったネアンデルタール人はそのような心模様で生きていたし、今だって、生きられない弱いものたちはみなそう思っている。
なのにあなたたちは、自分の生の正当性にばかりこだわって、世界に対して少しもときめいていない。世界や他者を裁くことばかりしている。そこにおいては、ネトウヨだろうと左翼の市民運動家だろうと同じさ。
生きものは、この生に意味や価値があるから生きているのではない。世界の輝きに「反応」しときめいているから「生きてしまっている」だけなのだ。

生き延びようとする欲望が、人類史に「進化」をもたらしたのではない。衣食住の問題じゃない。「感動する」とか「ときめく」とか、そういう「皮膚感覚」としての心模様とともに「進化」が起きてきたのだ。
生きものの進化は、「生存戦略」として起きるのではない。動物だろうと植物だろうと、「生きられなさ」の中に飛び込んでゆくことによって進化が起きる。生き残るかどうかは、環境が決めること。
30数億年前の地球に生きものが発生して以来、生きものは、無限の生のかたちを試してきた。そうしてそれらが環境によって淘汰統合されながら、現在のかたちになっている。「生物多様性」というのなら、生き延びるかどうかということなどそっちのけで無数の生のかたちが試されてきたからであり、生き延びるための「生存戦略」があったら、こんなにも多様になるはずがない。こんなにも多様になったということは、無数の無駄に生きて無駄に死んでいった生きものがあった、ということだ。どんな生き方をすれば生き残ることができるかどうかなど、生きもの自身にわからない。現在の有利な形質や生き方が、次の時代には不利な形質や生き方になってしまったりする。しかし生きものにとっては、そんなことはどうでもいい。「今ここ」の「皮膚感覚」で、世界=環境に「反応」しながら生きているだけであり、その「もう死んでもいい」という勢いで「反応」してゆくというかときめいてゆくというか、その「生きられなさを生きる」かたちが命のはたらきのダイナミズムをもたらす。
生き延びようとする自意識が強すぎると、世界=環境に対する「反応」としての命のはたらきはむしろ停滞・衰弱してくる。

生きものの「行為」は、たとえ息を吸ったりものを食ったりすることであれ、それが「行為」であるかぎり「エネルギーを消費する」という「死に向かう」いとなみなのだ。「死に向かう」いとなみとして、命のはたらきが起き、生きものの体が動く。
生きものは、「命=肉体」など忘れた「皮膚感覚=空間感覚」によって体を動かしている。身体のまわりの「空間」を察知しなければ、身体は動かせない。意識は、筋肉や骨や内臓などの「肉体」によって「空間」を察知しているのではない、「皮膚」すなわち「身体の輪郭」によって察知しているのであり、そのとき身体もまた「輪郭」を持ったひとつの「空間」として意識されている。
われわれは、ひとまず健康な状態であるとき、「命=肉体」のことなど忘れている。「命=肉体」が不調に陥ったときにだけ、それを意識する。意識させられる、というか。
「命=肉体」を忘れることによって「命=肉体」のはたらきのダイナミズムが起きる。健康な状態のときの「身体」は、筋肉や骨や内臓が詰まっていない「からっぽの空間」なのだ。
「進化」は、「命=肉体」に執着してゆくことによって起きるのではなく、「命=肉体」から解き放たれるようにして起きてくる。「命=肉体」から超出してゆく、というか。
したがって生き延びようとする欲望(あるいは本能)によって「進化」が起きてきたということは、論理的にありえない。
生き延びようとするなら、何がなんでも身体をもとの状態のまま保とうとするだろう。そんなことなどどうでもいいから、身体が「変化=進化」してゆくのだ。
たとえば女子の重量挙げの選手が、あんな筋肉もりもりの体型になりたがっているかといえば、そうともいえないだろう。それはもう「女を捨てる」ような事態だともいえる。それでもそんなことを忘れて記録に挑んでゆけるのは、それによってすでに「命=肉体」から解き放たれているからだ。そうやって彼女の「身体」は「進化」してゆく。まあ、キリンの首が長くなっていったことだって同じで、それは、「ウマ」という動物であることができなくなってゆくことであると同時に、「ウマ」であることのしがらみから解き放たれてゆくことでもあった。
女子の重量挙げの選手を見て、ほとんどの若い娘は「私はあんな体型にはなりたくない」と思うだろうが、いざその競技に熱中してしまえば、そんなことはどうでもよくなってしまう。生きものの本能として、「命=肉体」のことなど忘れてしまうのだ。
現在の若い娘が憧れる体型なんて、現在の社会の制度的な幻想(観念)にすぎない。
ダーウィンは「人類の肌が白くなったのは白い肌が男に好まれる社会だったからだ」といったそうだが、現在では否定され、「ただたんに寒い北の地(=紫外線の薄い高緯度の地)に移住した結果だ」ということになっている。そうして、なぜ寒い北の地に移住していったかといえば、「もう死んでもいい」という勢いで「命=肉体」を忘れてゆく「皮膚感覚」だった。そうやって心が「命=肉体」から解き放たれることのダイナミズムによって、その苛酷な地での暮らしが可能になっていった。
ネアンデルタール人の骨から、肌の色が白くなり髪の毛が赤茶けた色になる遺伝子が検出されているらしい。
ともあれ、白い肌が好まれたから白い肌になっていったのではなく、白い肌になっていったから白い肌が好まれるようになってきただけのこと。彼らは、「結果」でしかないことを「原因」であるかのようにいいたがる。それでは「進化論」にも「起源論」にもならない。

男なんて、肌の色が白かろうと黒かろうと、美人であろうとなかろうと、基本的には目の前にいる女が「好みの女」なのだ。目の前の「あなた」がこの世に生きてあるという、そのこと自体にときめいてゆく。女という生きものがこの世に生きてあるなんて奇跡的なことだと思う。男と女というか、オスとメスが存在することの奇跡を、人はどこかしらで感じている。それは、観念のはたらきではない。本能的無意識的な「皮膚感覚」として感じていることだ。
世の一部のフェミニストのように、原初の生命に「性」などというものはなかった、などといってもしょうがない。生命の進化は、最初に異質な有機物が出会って「つながる」というかたちの化学反応としてはじまっているのであり、異質な他者と出会ってときめくというのはもう、生きものであることの本能のようなものとして組み込まれているに違いない。
男にとって女は、女であることそれ自体にときめいている。
いやまあくだらない女なんかいくらでもいて、素敵な女はほんとに素敵なのだけれど、なぜくだらないかといえば、妙に観念的な装飾が多すぎて「女」を感じることができないからだ。これは、知能指数が高いとか低いとかというような問題ではない。観念的な装飾が多いとはつまり、自意識過剰だということで、そういう女には「女」を感じない。いや、どんな女が素敵でどんな女がくだらないかということは、人それぞれだし、よくわからないのだけれど、とにかく男なら誰もが「女を感じる」という体験をする。それは、フェミニストがいうような「差別感情」でもなんでもない。そういう場合もあるかもしれないが、すべてがそうであるのではない。根源的には、それは、この世界に男と女がいるという、この世界の不思議に驚きときめく体験だ。そういうときめきは女のほうが豊かだが、男だって、そういう生きものとしての根源的な体験をしながら勃起している。ペニスは意のままにならない不随意筋で、生きものとしての根源に遡行しなければ勃起できない。観念的な自意識が強いサディストは、みずからのサディズムという観念を発散してしまわなければ、そうした「自然」に遡行してゆくことができない。
自然な人間は、そんなややこしい手続きなど必要ない、女が女であるというそのことに驚きときめいている。
とにかく自然な人間は、自分が「オス(あるいはメス)」であることを受け入れている。そしてそれは、「皮膚感覚」として「身体の孤立性」を自覚することであり、「生きられない」存在であることを自覚することでもある。
生きものの「皮膚」には、「身体の孤立性」が宿っている。その孤立性を拠点にしてというか、その孤立性という「生きられなさ」を嘆きながら世界の輝きにときめいてゆく。
空気を吸わないと生きられない。空気にときめいているから、空気を吸う。空気とつながって「生きる」という化学反応が起こる。そういう身体の外と「つながる」という現象によって生きものの進化が起きてきたわけで、いちばんはじめの原初の生きものは生まれ出た次の瞬間に死んでいったが、やがて身体の外と「つながる」ことによって次の瞬間も生きてあるかたちに進化していった。身体の外と「融合=一体化」するのではない、身体の孤立性(=輪郭)を保ったまま「つながる」のだ。
生きものは、身体の外と「融合=一体化」するように死んでゆく。そうやって「土(=自然の一部)になってゆく。
インポテンツとは、「つながる」ことができなくなることであり、それは「身体の孤立性」を喪失している状態にほかならない。人や世界を裁いたり支配してゆくことは人や世界と「融合=一体化」してゆくことであり、そうやって思考停止し、命のはたらきが停滞・衰弱してゆく。
男は、女と「一体化」しようとしてインポテンツになってゆく。いっちゃなんだけど、僕の知っているインポおやじたちは、やりたくてたまらないという気持ちがひといちばい旺盛だ。やりたくてたまらないのに、ときめいてはいない。裁いたり支配しようとしたりばかりしている。そのサディズムがインポにしているのであり、そうやってときにレイプということが起きる。
性欲というときめく心が旺盛だからレイプが起きるのではない。それはサディズムであり支配欲なのだ。レイプする男の中には、女に襲いかかってみずからのサディズムを発散してしまわないとうまく勃起できないという場合がけっこう多い。

原初の生きものは、「生きられない」存在として発生し、「生きられない」存在になることによって進化してきた。生きものに本能のようなものがあるとすれば、それは、「生きられない」存在であることを受け入れてゆくことにある。そうやって生きものは、生のエネルギーを消費しながら生きている。受け入れなければ、「消費する」というはたらきは起きない。
生きることは、「生きられない」という不幸を受け入れることだ。それが、「オス(男)」であることを自覚し、「メス(女)を感じる」という心のはたらきになる。
ヘレン・ケラーホーキング博士の例を持ち出すまでもなく、人は、どんな不幸でも受け入れることができる。それは、すごいことではないか。人は、というより、生きものは、というべきかもしれない。そうやって「不幸=受難」を受け入れながら生きものは進化してきたのであって、べつに生き延びたかったのでも幸せになりたかったのでもない。そうやってネアンデルタール人は「生きられない」はずの氷河期の極北の地に住み着いていったのだし、彼らによってもたらされた人類史の「イノベーション=進化」がどれほど豊穣であったかということを、世の凡庸な人類学者は何も考えていない。
ホモ・サピエンスであることが、どれほど人間的に豊かだというのか。人類の文化は、ネアンデルタール人を起点にして爆発的な進化発展をはじめたのだ。現代人のほとんどはホモ・サピエンスの血が混じったネアンデルタール人の末裔であり、今や純粋なホモ・サピエンスなんか、アフリカ中央部にいるだけなのだ。このことは最新のゲノム遺伝子の分析等の研究によって明らかになっていることであり、アフリカの中央部に純粋なホモ・サピエンスがいるということは、アフリカの純粋なホモ・サピエンスはアフリカを出ていなかった、ということを意味する。
人類は、どんな不幸でも引き受けながら文化を進化発展させてきた。ネアンデルタール人は、「生きられない」という不幸を極限まで受け入れていった人たちだった。そこでは、どんどん人が死んでゆき、どんどん新しい命が生まれてきていた。ともあれ、それほどに男と女が他愛なく豊かにときめき合っている社会だった。そのダイナミズムが文化の進化発展が起きてくる契機になったのであり、ネアンデルタール人クロマニヨン人は別の人種でもなんでもない、ネアンデルタール人クロマニヨン人になっていっただけのこと。クロマニヨン人は、アフリカからやってきた人々だったのではない。そのころ、ヨーロッパにやってきたアフリカ人などひとりもいない。そのころのアフリカ人がはるばる旅をしてヨーロッパにやってくるということなど、あるはずがない。「集団的置換説」の研究者なんて、ほんとにおつむの程度が低いバカばかりだ。よくそんな途方もないことを信じられるものだ。お気楽を通り越して、狂っているとしか思えない。
人類は、生き延びるために地球の隅々まで拡散していったのではない。「生きられない不幸」を受け入れながら拡散していったのであり、そうやって豊かにときめきながら人間的な文化を進化発展させてきたのだ。

「進化」とは、「生きられなさを生きる」こと。原初のバクテリアのような「原核生物」がアメーバのような「真核生物」へと進化し、さらには「多細胞生物」になり「雌雄」に分かれていったとき、そのつど「生きられなさを生きる」という「試行」が起きていた。生き延びるために進化してきたのではない。「生きられなさを生きるお祭り騒ぎ」で進化してきたのだ。おっちょこちょいで進化してきたのだ。
あんまり正義ぶってエラそうにしないでくれ。誰だって本音のところでは、お祭り騒ぎで遊び呆けて生きていたいだけではないか。正義なんか、どうでもいい、この社会では正義を持たなければ生きられないのはわかっているが、それでもできることなら、死にものぐるいで遊び呆けていたいさ。そうやってあっけなく死んでいった種もあれば、それゆえによりダイナミックに生き残ってきた種もある。
生きものの進化は「死にものぐるい」の歴史だったのであり、どんな不幸も受け入れて進化してきたのだ。
殺虫剤に強い害虫があらわれてくるのは、その殺虫剤が散布された畑で「生きられなさを生きる」ことをしてきた結果だろう。殺虫剤にさらされなければ、殺虫剤に強い体にはならない。生き延びるためなら、さっさとほかの畑に逃げていったさ。
「生きられなさを生きる」のは、生きものとしての本能なのだ。生きられなさ生きながら生きものは進化してきた。生きものは、「不幸=生きられなさ」を受け入れる。
人の心もまた、どんな不幸でも受け入れることができる。なぜなら、命のはたらきは、「生き延びる」ためのはたらきではなく、「エネルギーを消費する」という「死んでゆく」はたらきだからだ。
そして「死んでゆく」はたらきなのだから、明日も生きてあるという前提を持っていない。命のはたらきには「今ここ」しかない。原初の生命は、生まれ出た次の瞬間に死んでいったのだ。人間だって生きものであり、おそらく誰の中にもそういう「原初の記憶」が息づいている。というかそれは、命のはたらきの法則のようなことだろう。
だから、目の前の女が女のすべてだ。と思ってしまう。
この生には「今ここ」しかない。そうやって生きものは、「今ここ」と体ごと和解してゆく。そうやって、どんな不幸も受け入れる。
「進化」は、幸せになりたいという願望=欲望によってではなく、「不幸を受け入れる」ことによって起きてきた。
生き延びようとする「意志」や「欲望」が「進化」を生み出したのではない。「皮膚感覚」としての「反応」の豊かさとともに進化してきたのであり、人間なんて、もともとそういう他愛ない生きものであり、生きてあることの不幸を受け入れるほどに他愛ないのだ。幸せでなければならない、と思うほど不自由な存在ではない。
今どきの大人たちは、この生の意味や価値や幸せという自我の安定・充足に執着し耽溺しながらインポテンツになってゆく。
この生の意味や価値を欲しがるのは、ときめいていないからだ。
この生は無意味で無価値で不幸なものでしかないが、それでも心は、「今ここ」にときめき、「今ここ」と和解している。