生きるなんてむなしいことだ・ネアンデルタール人論212

ろくな文明を持たない原始人であるネアンデルタール人が命を削るようにして氷河期の北ヨーロッパという苛酷な地に住み着いてゆくなんて、なんと無謀でむなしい行為であることか。ストリンガーをはじめとするアホな集団的置換説の研究者たちにいいたい。あなたたちにはそのことに対する感動や敬意というものがないのか、と。その歴史には、無数の死者が堆積している。かんたんにどんどん人が死んでゆく社会だったのだ。そしてその体験こそが、人類史に飛躍的な進化発展をもたらした。彼らはその先駆者であり、殉教者であり、いわば人類史の人身御供になった人々だった。
われわれは、精神的にも身体的にも遺伝子的にも、ネアンデルタール人の末裔なのだ。現代人の血の中にはホモ・サピエンスの血もネアンデルタール人の血も混じっているわけだが、人類史の文化的な進化発展は、ネアンデルタール人の段階を通過しているということが、とても大きな体験になっているのだ。
人は、そういう無謀でむなしいことをせずにいられない習性を持っている。なぜならそれこそが、生きものとして命のはたらきの自然だからだ。われわれはこの生のエネルギーを消費しながら生き、消費し尽くして死んでゆく。
人間だろうと他の生きものだろうと、すべては、無謀でむなしいことをしながら進化してゆくのだ。
人間の心のはたらきだって、生きものとしての「命のはたらき」の上に成り立っている。
命のはたらきは、この世に生まれ出る前や死んだ後の「生きていない」状態を喪失することの上に成り立っている。「生きていない」ことの安定・充足、われわれはそういう「無」を喪失して生きている。
人の心は、「無」に対する「遠い憧れ」を持っている。それは、生きてあるかぎり叶えられることはない。その喪失感=絶望が「遠い憧れ」になる。
「むなしさ」はネガティブな感情ではない。人の心は「むなしさ」に対する「遠い憧れ」がある。日本列島の伝統は、それを「無常」という。

30数億年前、この地球上にはじめてあらわれた生きものは、生まれた瞬間に死んでいった。これほどむなしい生もないと思えるが、命のはたらきとはつまり、死んでゆくはたらきなのだ。「生きる」とは、生のエネルギーを消費すること。そうやって「死んでゆく」ことが生きるいとなみになっている。生きることは、「死んでゆく」ことの無限の反復として成り立っている。
息を吸うことも食うことも、体を動かしてエネルギーを消費している行為でもある。エネルギーを消費しながらエネルギーを充填してゆく。
ライオンは、必死に走ってシマウマを捕まえにゆく。エネルギーを消費することなしには、生のいとなみは成り立たない。必死に走るライオンは、そのとき「もう死んでもいい」という勢いでエネルギーを消費している。
命のはたらきに「エネルギーを消費する=死んでゆく」という仕組みがなければ、「必死に走る」という行為は生まれてこない。生き延びるために必死に走っているのではない。「もう死んでもいい」という勢いで必死に走っている。このことを拡張していえば、人生の成功を目指すという目的意識でどんなにがんばって勉強しても、勉強が好きで好きでしょうがなくて「もう死んでもいい」という勢いで夢中になっているものにはかなわない、ということだ。進化論が語られるとき、前者のような「<生き延びるためのがんばり>によって進化が生まれてくる」という論調が多いが、それは違う。そうやって「がんばる」なら、「進化=変化」しない。変化するまいとしてがんばるのだ。つまり、この生にとどまっていようとしてがんばる。
しかしじっさいの進化は、「もう死んでもいいという勢いで夢中になってゆく」というようなかたちのはたらきを動因としているのではないだろうか。それは、「この生から超出してゆく」現象であり、「命のはたらき」とは「死んでゆく」はたらきなのだ。

たとえばキリン首が長くなった最初は、長い首が生き延びるのに有利だったからではない。最初は不利だったのだ。その進化の歴史のはじめにおいては、首の長いキリンほど早く死んでいった。これはもう、最新の数学的な進化史の研究で、そういう答えしか出ない、といわれているらしい。
そりゃあ、そうだ。キリンになる前がウマのような動物だったとしたら、ウマは地上の草を食んで生きているのであり、木の葉の毒性を解毒できる消化器官にはなっていない。それでも首の長い個体は、木の若芽を食べたがった。長生きできるはずがない。それは、首が長すぎて草が食べにくかったからか?それとも、たとえ毒性があっても木の若芽は美味しかったのか?若芽は、比較的毒性が薄い。とにかくそうやって、やがてはどの個体も木の若芽を食べたがるようになってゆき、解毒できる消化器官にもなっていったし、そこではじめてどの個体も首が長くなっていった。
ウマが草を食べなくなってゆくなんて、自滅行為に違いない。しかし命のはたらきにはそういう「もう死んでもいい」という勢いがあるわけで、生き延びようとするのが自然の摂理であるのではない。
キリンの首は、「もう死んでもいい」という勢いで長くなっていった。生き延びるために木の若芽を食べるようになっていったのではない。それは、木の若芽は美味しいという、世界の輝きにときめいてゆく「皮膚感覚」だった。たぶん、そういうおっちょこちょいの好奇心で進化していったのだ。
生きものの生は、そういう「皮膚感覚」にせかされている。命のはたらきは、「命=生のエネルギー」を消費するという、死んでゆくはたらきなのだ。

「こんなことをしたら生きられない」とわかっていても、それでもせずにいられないことがある。そうやってネアンデルタール人は氷河期の極北の地に住み着いていったし、それこそがまあ生きものとしての「本能」のようなもので、人間は「本能が壊れている」のではなく、猿よりもずっと本能的で愚かな存在なのだ。そうやって学問や芸術やスポーツや冒険やセックスをしている。
「進化」は、生き延びようとする歴史であるのではない。
この生のいとなみは、「生き延びる」という「ゆるい幸せ」だけではすまない。どこかの誰かみたいな、鈍くさい運動オンチでインポのくせに格好つけているだけの大人になってもしょうがない。社会的に成功したエリートだろうと、下層の庶民だろうと、そういう鈍感で自意識ばかり過剰な大人がいくらでもいる世の中だが、あんな人間にはなりたくないと、彼らが反面教師の役割をしているということもあるのかもしれない。
愚かなおっちょこちょいで生きていたってかまわないさ。それこそが命のはたらきの自然であり、世のブサイクな大人たちの「正義」や「善」や「生き延びるための知恵」なんかどうでもいい。そうやって自我の安定・充足に執着しながら正しく上手に生きていることこそ、人間性の自然の喪失なのだ。今どきはそうした「ゆるい幸せ」に浸って生き延びることが称揚される世の中だが、それが人間性の自然でも生きものの本能であるのでもない。そんなことを目指して生きものは進化してきたのではない。
自我の充足・安定に執着しながら他人を裁いたり憎んだりしてゆく。そんな正義ヅラはもううんざりだよ、グロテスクだよ。自我の安定・充足に執着した人間から順番に、世界の輝きに対するときめきを失ってゆく。インポおやじになってゆく。
この生を賛美すること自体が、命のはたらきも心のはたらきも停滞衰弱していることの証しなのだ。
生きることなんか、むなしいことさ。しかし因果なことに人は、そのむなしさを抱きすくめてゆく。そのむなしさを共有しながら、人と人の関係が深まってゆく。そのむなしさを共有しながら、ときめき合っている。