ゆるーい幸せなんかいらない・ネアンデルタール人論217

死んでゆく人は、美しく荘厳だ。
西洋人による十字架にかけられたキリストの像を拝むということだって、つまるところは、死んでゆく人に対する人類普遍の感慨の上に成り立っているのかもしれない。
息をするとか飯を食うとか体を動かすとか、この生のいとなみは、この生のエネルギーを消費するという、いわば「死んでゆく」ことの無限の繰り返しとして成り立っている。
心が豊かにはたらくということは、自分=この生を忘れてときめき夢中になってゆくことであり、すなわち自分=この生から超出してゆくという、その「死んでゆく」はたらきがこの生のはたらきなのだ。
現代社会が合唱するような、自分=この生に執着し美化してゆくところにこの生の自然・本質があるのではない。
人の心は、「もう死んでもいい」という勢いでこの世界や目の前の他者の輝きにときめいてゆく。それが「自分=この生」から超出してゆく、ということだ。
むやみな生命賛歌などしていたら、命のはたらきも心のはたらきも活性化しない。そうやって現代社会の大人たちは、インポテンツになったり認知症になったりしてゆく。
人は、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」すなわち「死んでゆくもの」になろうとする。そうやって「もう死んでもいい」という勢いでこの世界や目の前の他者の輝きにときめいてゆく。「生きられないこの世のもっとも弱いもの」こそ、もっとも深く豊かにこの世界や目の前の他者の輝きにときめいている。
学問だろうと芸術だろうと人が人にときめくことだろうと何かに夢中になってゆくことだろうと、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」になって「自分=この生から超出してゆく」いとなみなのだ。
人の心は、「死んでゆく」ことに対する「遠い憧れ」が息づいている。そうやって「自分=この生」から超出しながら、心は華やぎときめいてゆく。
人が人を想うことの基礎は、死んでゆく人を想うことにある。人は、死んでゆくことにに対する「遠い憧れ」とともに生まれてくる。そのとき「おぎゃあ」と泣くのは、この生におそれおののいているからだろう。そしてそこからこの生を受け入れてゆくことができるのは、この生が「死んでゆく」いとなみとして成り立っているからだ。まあ、そういうひりひりした「皮膚感覚」を保って生きるのはとても難しいことだが、それを失ったら生きられない。

生きることは、死んでゆくはたらきの無限の繰り返しとして成り立っている。
「もう死んでもいい」という心意気を持たなければ、人と人の関係も命のはたらきも豊かにならない。
しかし現在のこの国においては、自分=この生を守り執着するのが当然のことであるかのように合意されている。そうやって大人たちは、その「ゆるーい幸せ」の満足に浸りながら、心のはたらきも命のはたらきも停滞させてゆく。そうして考えることも行動も顔つきもブサイクになってゆき、若者たちから幻滅されている。
現在ほど大人たちが若者を強く支配している時代もないのかもしれないが、現在ほど大人たちが若者から深く幻滅されている時代もないともいえる。
この平和で豊かな社会の若者たちの多くは、その「ゆるーい幸せ」に居直った大人たちに強く支配されて、やりきれない閉塞感の中で生きることを余儀なくされている。
大人たちは、若者や子供たちを教育することばかりに熱心で、若者や子供たちから学ぼうとするような好奇心というかつつしみというかたしなみなどまるでない。若者や子供たちと一緒に遊べるときめきも心意気もまるでなく、「労働こそ人間性の本質だ」と扇動しながら、支配してこき使うことばかり企んでいる。収入を得るためには、大人からこき使われるしかない。
そうして、こき使われることがいやで落ちこぼれていったりする。
若者や子供たちが遊び呆けて暮らしたいと思ってなぜ悪い。
遊び呆けて生きたい若者は、とうぜんこの社会の「下流」の身であることに甘んじるほかないのだが、近ごろでは「下流老人」などという言葉もささやかれている。遊び呆けて生きようとすると、誰もが「下流」にされてしまう。遊び呆けて生きようとするなら、野垂れ死にする覚悟が必要だ。
「ゆるーい幸せ」に居座った大人どうしの「ゆるーい遊び」につき合ってもねえ、だんだん面倒になってくる。彼らは「自分=この生」に執着・耽溺することが当たり前だと思っているから、イメージ貧困なんだよね。若者や子供のようなひりひりした「皮膚感覚」を持っていない。自分=この生を忘れてこの世界や目の前の他者の輝きにときめいてゆくような好奇心も心意気もない。

「生きられないこの世のもっとも弱いもの」になることによって、この生は活性化する。本格的な学者はそうやって知の荒野に分け入ってゆくのだし、ネアンデルタール人も、そうやって氷河期の極北の地で生きていた。
恋をすることだって、荒野に放り出されたような心細さを生きることでもある。「女(あるいは男)」というわけのわからない生きものを相手にすることなのだもの、予定調和の「ゆるーい幸せ」だけですむはずがない。人の生がそんなものだけですむはずがないし、そんなものばかり求めて心が停滞したり歪んでいったりする。
原初の人類は、猿としての身体能力を放棄するというかたちで二本の足で立ち上がっていった。そうして、身体能力だけでなく、視覚や聴覚などの五感も退化させながら「生きられない」存在になってゆくことと引き換えに知能というか文化を進化発展させてきた。そうやって進化してきた人類にとって氷河期の極北の地は、極限的な「生きられない」地だったわけで、それでもそこに住み着いていったのは、「ゆるーい幸せ」とは対極にあるその「生きられなさ」こそが、より豊かに深くときめき感動してゆく「皮膚感覚」をもたらしたからだ。
人類がスポーツによる身体能力を賛美するのは、それだけ身体能力が脆弱な存在だからだ。身体能力の進化発展が人類の希望であるのではなく、脆弱な身体能力の「生きられなさ」のまま、そこからより深く豊かにときめき感動してゆくことこそが希望なのだ。人は、そうやって生きて死んでゆく。
人類の希望と理想は、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」のもとにある。
今どきの大人たちの、その「ゆるーい幸せ」に満足しきったその停滞した思考や行動にあるのではない。そんなグロテスクな自我の満足のために若者や子供たちを教育支配しようなんて、厚かましいにもほどがある。人類の希望と理想は、あなたたちのそのブサイクな顔や脳みそに宿っているのではない。

「ゆるーい幸せ」に執着して、人が人を追いつめる。「もっと夢中になって生きよ」といわれて追いつめられるものはいない。そうやって励まされることはあったとしても。
歳を取ると、夢中になるということがなくなってくる。誰だってそんな、あとさきかまわず「もう死んでもいい」という勢いで生きていたいはずだが、大人になるにつれていつの間にか衰えてくる。社会の制度性に飼いならされて、だんだんそうなってゆく。そうしてそれと引き換えに、自分に満足した「ゆるーい幸せ」に執着するようになってくる。平和で豊かな社会はそういう大人たちを大量に生み出し、そういう大人たちがみずからの「ゆるーい幸せ」を守るために、若者や子供を監視し飼い馴らそうとする。
飼い馴らされている若者や子供も少なくないのだろうが、その関係が自然だともいえない。そうやって大人の仲間入りをしてゆくものもいれば、落ちこぼれてゆくものもいるし、それでも若者や子供の多くは、夢中になって生きたいと願っている。それが、人としての自然なのだもの、大人だってじつはそう願っている。ときめき感動する体験とともに生きたいと願っている。
平和で豊かな社会はそういうイノセントを摩滅させるし、平和で豊かな社会だからこそ、そういうイノセントが貴重にもなる。
ときめき感動する皮膚感覚とともに何かに夢中になってゆく心模様は、「ゆるーい幸せ」の中に宿っているのではない。どんなかたちであれ、「生きられなさ」を生きることによってもたらされる。難しいことじゃない。まあ、あいたい人に合えないとか、お金がないから欲しいものが買えないとか、そういうことだってひとつの「生きられなさ」を生きることであり、われわれのこの生は、そういう「不可能性=無力感」の上に成り立っている。
空を飛べないことの嘆きなんか、猿も犬も持たない。人の心は、その「生きられなさの嘆き」から、華やぎときめいてゆく。
そりゃあ「ゆるーい幸せ」の執着・耽溺していたら、何かに夢中になってゆくというような生き方ができるはずないさ。そんな「ゆるーい幸せ」が人類の希望や理想になるはずがない。そんな「自我の充足」に執着・耽溺しながら生きることに、未来のよりよい社会やよりよい人生があるわけでもなかろう。いいかえれば、よりよい社会やよりよい人生など願わないことが、よりよい社会やよりよい人生なのだろう。
ときめき感動しながら何かに夢中になってゆくことは、「生きられなさ」の中に飛び込んでゆくことだ。
ときめき感動しながら何かに夢中になっているものは、「生きられなさ」を生きている。

人は、「生きられなさ」を生きているものにときめいてゆく。
ネアンデルタール人は、誰もがこの生も自分も忘れて「生きられなさ」に飛び込んで生きているものたちだったから、誰もがときめき合っていた。
よりよい社会とか人生といったって、誰もが「ゆるーい幸せ」という「自我の充足」に浸って生きることでもあるまい。
ネアンデルタール人の社会は、今どきの左翼であれ右翼であれ彼ら知識人たちが構想しているような希望の社会でも理想の社会でもなかったが、それでも人と人が他愛なくときめき合うという人間性の自然・本質を、われわれよりずっと深く豊かに生きていたのだ。
世界がよくなってくれと願うことを否定するつもりはさらさらないが、それは、「この民族の美しい伝統を守ろう」とか「民主主義という市民正義を守ろう」とか、そういうあなたたちの「自我の充足」にあるとは思わない。そうやって「生き延びる」ことよりも、人と人が他愛なくときめき合うという希望や理想に向かう試行のあげくに挫折し滅んでゆくことのほうがずっと尊いと思う。
右翼も左翼も、「別れを惜しむ」ということができない人たちであり、そうやって仲間どうしが結束し、それぞれの「自我の充足」に潜り込んでいる。それは、ときめき合っているのではないし、その結束は、たがいの敵に対する憎悪や侮蔑の上に成り立っている。そうやって「自我の充足」をまさぐり合っている。まあそんな政治思想とは無縁の庶民の世界でもそうなんだけどさ。そういう世の中なんだろうね。くっつくことができるか、敵対するか、その二者択一で人を選別する。自分が生き延びるために役立つ相手かどうかと、選別ばかりしている。そうやって仲間も敵も、監視し続ける。
生き延びることが、そんなに大事か。その自己撞着はなんなのか。
それでも、人の世はそれだけではすまない。「生きられない弱いもの」はいつの世にも存在するするし、「生きられない弱いもの」として「生きられなさ」に飛び込んでゆこうとする衝動は誰の心の底にも息づいている。少なくとも若者や子供たちは、そうやって「生きられなさ」にときめき感動している。そんな衝動とともに「下流」に向かって落ちこぼれていったって、それはもうしょうがないことだ。それが人間性の自然なのだし、今どきはそんな人間を生きさせないような世の中の仕組みになっている。
それでも人の心は、「生きられなさ」に飛び込んでゆくようにして感動し、ときめいている。
それでも若者や子供たちは、避けがたく「生きられなさ」に飛び込んでゆくような生き方をしてしまうし、「生きられなさを生きるもの」に感動しときめいている。
「ときめき合う」ということ、そして「別れを惜しむ」ということ、そうやって人の世は流れてゆく。
まあ人類はそうやって滅んでゆけばいいのだろうし、人の一生もそうやって死んでゆくのが自然ななりゆきであるのではないだろうか。