愚かなものたち・ネアンデルタール人論105

 数万年前のアフリカのホモ・サピエンスとヨーロッパのネアンデルタール人とではどちらの方に言葉が発達する契機が豊かにあったかといえば、より生きられない環境を生きていたネアンデルタール社会の方にあったはずだ。といってもそれは「生き延びるための道具」としてではなく、「生きられなさを生きる作法」として生まれ育ってきたのだ。生きられないものには「今ここ」しかない。その「今ここ」に対する切実さにともなう反応の豊かさとともに人類の言葉が生まれ育ってきた。
 氷河期の北ヨーロッパの冬なんて、口を開けることもできないくらい過酷な環境だった。それでも、そこにこそ言葉が生まれ育ってくる契機があった。
 人類学者たちはよく、どちらの喉の構造が言葉を発するに適していたか、などという問題を上げたりしているが、言葉なんてさしあたりオウムだって話せるのであり、喉の構造なんか関係ない。おそらく二本の足で立ち上がった直後の人類だって、猿よりもずっと多様な音声を発する存在になっていたはずで、それはもうすでに「言葉」だったともいえる。それは、喉の構造の問題ではない。言葉が生まれてくる契機を持った「社会の構造」の問題なのだ。
 人類は、喉の構造が発達して言葉をしゃべるようになっていったのではないし、言葉が発達していなければ喉の構造が発達しないのでもない。言葉をしゃべるのに喉の構造なんてオウムやカラスの喉でもなんとかなるのだし、おそらくチンパンジーならもっとうまくしゃべることができるだろう。しかし、言葉が生まれてくるような社会の構造の成熟がなければ言葉は生まれてこない。
 言い換えれば、人類史において、そういう社会の構造の成熟があればどの地域からでも自然に言葉は生まれてくるのであり、起源としての言葉は誰かがつくってみんなに広めていったのではないし、ある地域で発生した言葉が世界中に伝播していったのでもない。「社会の構造の成熟」さえあれば、どの地域からでも言葉は自然発生してくるし、地域ごとに言葉の違いはとうぜん生まれてくる。
 したがってやまとことば=日本語は、どの地域から伝播してきたものでもない。日本列島ならではの「社会の構造の成熟」によって「おのずから」発生してきたのだ。
 まあそれぞれの地域にすでにそれぞれの言葉が存在することによってたがいに伝播し合い影響し合うようになってくることはあるとしても、言葉のない地域に言葉が伝播してゆくということは原理的にありえない。言葉を持っているものが言葉のない地域に移住してゆけば、その地域の作法にしたがって言葉なしに生きてゆくしかない。その地域にすでに言葉があるからこそ、よそ者のその言葉も翻訳してもらうことができるわけだが、現在のこの国に在日朝鮮人がたくさんいるからといっても、朝鮮語を知っている日本人なんかほとんどいないし、日本語が朝鮮語の影響を受けているわけでもない。彼らだって、日本で日本人と一緒に生きてゆくためには日本語を覚えるしかない。占領されたのでもないかぎり、日本という地域=風土では日本語しか機能できない。それと同じことだ。古代の日本列島にたくさんの朝鮮半島からの渡来人がやって来たとしても、べつにそれによってやまとことばが朝鮮半島的に変質してきたのでもない。渡来人だって、二世三世になれば、みんな日本語=やまとことばしか話せなくなってゆく。
 かんたんに「言葉は伝播してきた、伝播してゆく」などという問題設定で語源論を語ってもらっては困る。


 起源としての言葉は、生き延びるための道具として誰かひとりがつくってみんなに広めていったのではないし、地域から地域へと伝播していったのでもない。
原初の人類は思わずさまざまなニュアンスの音声を発してしまう猿だったのであり、その集団の中ですでに誰もが共有している音声が抽出されながら言葉になっていっただけのこと。そうやって共有していることに気付き、やがてその音声を意図的に発しながら、共有していることを確認し合っていったのだ。
 人類の言葉は、誰かひとりの天才がつくったのではなく、その集団でいつの間にか誰いうとなく生まれ育ってきたのだ。
 言葉は、それぞれの地域によって違う。それは、共有している音声がそれぞれの地域によって違うからだ。その共有されている音声は、それぞれの地域の風土や集団のかたちによって違ってくる。そういう地域ごとの風土や集団ごとのかたち、すなわちそういう「無意識」のかたちが言葉を生み出し育ててきたのであって、「意味」を伝達しようとする個人の観念世界から生み出されたのではない。
 人類はなぜそんなにもさまざまな音声を発してしまう猿だったかといえば、ほかの猿よりもずっと四苦八苦して生きていたからだ。それが二本の足で立ち上がったことの結果であり、だから、嬉しいにつけ悲しいにつけ、怖いにつけ親しみ深いにつけ、思わず音声がこぼれ出てしまうほどに豊かな心の動きが起きるようになっていった。
 二本の足で立っている猿である人類は、存在そのものにおいて「生きられなさ」という「苦」を負っている。だからこそ言葉を生み出し、知能が発達してきた。
 原初の言葉は、生き延びるために「意味を伝達する」道具だったのではない。そんな「目的」など忘れた「愚かで弱いもの」として、「生きられなさ」を生きてあることの「今ここ」に対する切実で豊かな「反応」から生まれてきたのだ。
 生きられない弱い猿だったからこそ、「今ここ」に対する反応が切実で豊かだった。
 言い換えれば人は、生き延びる能力を持てば持つほど、持ちたいと思えば思うほど、「今ここ」に対する反応の切実さや豊かさが失われてゆく。そうやって現代人の心は病んでいる。
 知能すなわち人間的な知性や感性は、「生き延びる能力」としてはたらいているのではない。「生きられなさを生きる」ことによって生まれ育ってくる。そこにこそ人類史における言葉の起源の契機がある。
 言葉の起源は、その思わず発せられた音声の「意味」に気づいていったことにあるのではない。その音声のイントネーションやリズムという「感触」に気づいていったことにあり、その「感触」には、人間的なさまざまな「感慨のあや」がこめられていた。そこに気づいていったことが言葉の起源だったわけで、その「感触に気づく」はたらきにこそ知能すなわち人間的な知性や感性の基礎と究極のかたちがある。
 原初の言葉は、歌であり音楽だった。そういう「官能性」が人類の言葉を育ててきた。
 

現代社会においては、知能とは生き延びる能力だと合意されているし、生き延びる能力としての「幸せ」を誰もが追い求めている。生き延びる能力としての会社の仕事や学校のお勉強がうまくできないことは「愚かなこと」になっている。しかしそんなことをいっても、「生きられなさを生きる」ことの、その「今ここ」に対する反応の切実さと豊かさにこそ人間的な知性や感性の自然・本質があるわけで、人間社会から「愚かなもの」がいなくなってしまうことは永久にありえない。本格的な学者や芸術家だって、基本的には「もう死んでもいい」という勢いで知性や感性をはたらかせている生きることが下手な「愚かなもの」だし、人間社会は、生きることができない障害者や老人や赤ん坊に人間としての尊厳を感じたりしながらそういうものたちをけんめいに生かそうともしている。
 人が生きることの下手な「愚かなもの」になってしまうのは人間性の自然・本質であり、現代人は、生き延びることが上手なものや生き延びることに執着したものになることによって、人間的な魅力を失い、精神を病んでゆく。まあ、そうやって認知症になったり鬱病になったりインポテンツになったりしている。
 人は生きられない「愚かなもの」だからこそ、自分の外の世界や他者に対して、自分を忘れて豊かに他愛なくときめいてゆくのだし、そうやって原初の人類は一年中発情している猿になり、言葉を生み出していった。
「愚かなもの」でなければ、自分を忘れてときめいてゆくという体験はできない。他人を「なんと愚かな……」とさげすみながら自分の生き延びる能力や生き延びようとする欲望に執着していたら、知性や感性やときめきも失ってしまう。失いたくなくて、今どきの若者や子供たちの多くは、生きることが下手な「愚かなもの」になってゆく。それはむしろ人間社会の健全ななりゆきであり、まあこの国は、そうやって「愚かなもの」として生きる文化の伝統がある。「何しょうぞ、くすんで一期は夢よ、ただ狂え(閑吟集)」という中世の言葉もあるくらいで、明日も生きてあることを勘定に入れないのなら、ただもう「狂って」生きるしかない。そしてそうやって人類は、世界の輝きにときめきながら一年中発情している猿になり、知能という知性や感性を進化発展させてきたのだ。
 この国の文化の伝統は、「この生」や「自分」に執着してゆくようにはなっていないし、それはそのまま二本の足で立ち上がって以来の人類史の伝統でもある。
 人類は、生きられない「愚かなもの」として歴史を歩んできたのであり、それこそが言葉の起源をはじめとする知能という知性や感性の進化発展の契機になってきた。
「愚かなもの」にこそ、自分を忘れて世界の輝きにときめいてゆく契機がある。
 内田樹は「人間とは自己意識である」といっていたが、そうやって生き延びようと「自分=この生」に執着してばかりいるところにこの人の知性や感性の限界がある。まあいまどきのインテリはたいてい同じ穴のムジナかもしれないが、おそらくそこにこそ高度経済成長を果たしてきた戦後の日本社会の病巣がある。彼らは、人間的な知性や感性の源泉である「生きられない」という「嘆き」を知らなすぎる。
 人間的な知性や感性やときめきは、「生きられない」という「嘆き」とともに生きている「愚かなもの」のもとにある。というか、人間なら誰だって「愚かなもの」である部分を抱えているのだし、この世から「愚かなもの」がいなくなることは永久にない。
人間的な能力も魅力も、「愚かなもの」のもとにこそある。この国の中世では、そういう、時代をリードする才能豊かで魅力的な存在のことを「ひょうけもの」といった。「ひょうけ」とは、非日常的な世界に解き放たれてゆくこと。「ひょうけもの」とは、そういう「自由人」のことでもある。
生き延びようとする欲望に執着してこの生に閉じ込められてしまえば、「ときめき」もない。「何しょうぞ、くすんで一期は夢よ、ただ狂え」とは、そうやって「もう死んでもいい」という勢いでこの世界の輝きにときめいてゆくことであり、そうやって狂い愚かになりながら解き放たれてゆくことを「ひょうけ」といった。


 氷河期の北ヨーロッパに住み着いていったネアンデルタール人だって、その苛酷な環境ゆえに誰もが「生きられない愚かなもの」だったわけで、しかし人類の言葉や知能はその「生きられなさ」を生きるところから生まれ育ってきた。
 人類の歴史は「生きられなさの嘆き」を深くしてゆく歴史だったのであり、そうやってより生きにくい土地生きにくい土地へと移動しながらとうとう地球の隅々まで拡散していった。
「生きられなさの嘆き」のないところから知性や感性が生まれ育ってくることはない。人類の言葉はそうやって生まれ育ってきたし、人と人のときめき合う関係だって、じつはそのような、人間が存在そのものにおいて抱えている「嘆き」の上に成り立っている。
 生き延びる能力を自慢したり、生き延びるための規範で人を裁いてばかりしていても、その人が他人の目に魅力的な存在として映るわけではない。自分では正しく魅力的な存在のつもりでも、他人がその通りに評価してくれるわけでもない。そんな問題意識で未来の社会を構想しても、少なくとも人と人が豊かにときめき合う社会が来ることはない。
 今どきの大人たちは、自分でうぬぼれるほどには人にときめかれていない。何はさておいてもまずあなたになんか誰もときめかない……といいたくなるような自意識過剰の大人たちが今どきの世の中にはたくさんいる。誰もが生き延びる能力を持っていることに満足し、誰もが生き延びる能力を持とうと焦っている……そんな世の中が「いい社会」なのだろうか。彼らは人を裁いているだけで、誰にもときめいていないし、誰からもときめかれていない。彼らに「いい社会」を語る資格があるのだろうか。社会のダイナミズムは、人と人が豊かに他愛なくときめき合っているところから生まれてくるのではないのか。われわれはそいうことを、ネアンデルタール人の社会やこの国の縄文・弥生時代から学ぶことができる。そこでは、「生きられなさの嘆き」を生きていた。とすれば、そもそも「いい社会」などというものが存在し得るのか、という問題がある。
 われわれは「生きられない社会」を生きている。それを「憂き世」という。この国の伝統として、社会とはそういうものだという思いがある。「生きられない社会」が悪いわけではない。人と人はその思いを共有しながらときめき合っている。どんな社会であれ、「生き延びる能力」が価値になると息苦しくなってくるし、「生き延びる能力」を持とうとして心が歪んだり停滞したりしてくる。
 人の世は、「生きられなさの嘆き」を共有していることの上に成り立っている。だから人は人にときめいてゆくのだし、ときめかれる魅力的な人も存在する。
 人は「生きられなさ」の気配にときめき、献身してゆく。それはもう、コンビニや牛丼屋の店員の腹を空かした客に対するサービスだろうと、旅館の女将や仲居の疲れた旅人に対するもてなしだろうと、障害者や老人や赤ん坊に対する介護だろうとみな同じであり、そのとき相手は、「生きらられなさの嘆き」を抱えたものたちなのだ。
 誰もが生き延びる能力に執着していたら、ときめき献身してゆく相手なんかいなくなってゆくし、人間性の自然としてそんな世の中が招来することなどありえない。
 この世の中には、「もう死んでもいい」という勢いで他者にときめき献身してゆくことができる人がいるし、人が必ず死ぬ存在であるかぎり、「生きられなさの嘆き」を深くしている人もたくさんいる。
 まあ、「腹が減った」とか「寒い」とか「疲れた」という嘆きだって、本質的には「生きられなさの嘆き」なのだ。人が生きてあるかぎり「生きられなさの嘆き」はいつもついてまわるし、ときにはそれを忘れて世界の輝きにときめいてゆくという体験がなければ生きられない。
 誰だって、「生きられなさの嘆き」を生きている。
人は、「生きられなさの嘆き」を抱えた存在としてこの世に生まれ出てきて、その嘆きとともに年老いて死んでゆく。「生きられなさ」こそこの生の本質であり、そこでこそこの生が活性化する。冒険家であれスポーツ選手であれ、「生きられなさ」の果てまで行った人たちなのだ。彼らは、これ以上進めば死んでしまう、という地平を生きているわけで、そこでこそ命が活性化するという逆説がある。生き延びることなんかに執着していたら極限の冒険なんかできないし、極限のスポーツ技術も得られない。彼らは、「もう死んでもいい」という勢いでこの生を超えてゆく。彼らは、「もう死んでもいい」という地平にたどり着く。
生き延びるためには、冒険なんかしてはいけない。運動神経が鈍いということは、身体の冒険ができないということだ。それでも、できないくせに下手の横好きでスポーツをしたがる人が多いのは、彼らだって身体の冒険をしたがっているということだろう。
本格的な冒険家だけが冒険をしているのではない。誰だって冒険心は持っている。まあ、人の心が「ときめく」ことそれ自体が、「もう死んでもいい」という地平に立つことなのだ。女は、そうやってオルガスムスを体験しているらしい。セックスだって、ひとつの冒険だ。この世の中には、セックスをしたがっている人のなんと多いことか。そしてセックスなんかどうでもいいという人だって、それ以外それ以上の冒険の体験をしていたりする。べつにセックスでなくてもいいのだが、「もう死んでもいい」という勢いでときめいてゆく体験がなければ、人は生きられない。
冒険とは、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」になること。「生きられなさ」を生きること。
原初の人類は「もう死んでもいい」という勢いで二本の足で立ち上がっていったのだし、「もう死んでもいい」という勢いで生きられない氷河期の極北の地まで拡散していった。


人は誰だって「生きられなさ」を生きている。おそらくそこにこそこの生の自然・本質がある。何かに「ときめく」ことそれ自体がそういう体験なのだ。
われわれの無意識は、「もう死んでもいい」という勢いを持っている。誰だって持っている。誰だって「世界の輝き」にときめいて生きている。「世界の輝き」が人を生かしている。
言い換えれば、生き延びようとする欲望に執着しているものから順番に「ときめき」を失ってゆく。それは生き延びようとしている「自分」に執着していることなのだから、とうぜん「世界」に対する反応は鈍くなる。彼らは世界の「意味」や「価値」のことをよく知っているが、この世界が存在することの「感触」に気づいてゆく人間的な知性や感性のはたらきがすでに希薄になっている。平たく言えば、「人情の機微」というか「人の心のあや」に鈍感になってしまっているのだ。
赤ん坊は、この世界の「意味」や「価値」など何も知らないが、われわれよりももっと深く豊かに「世界の輝き」という「感触」に気づきときめいてゆくことができる。彼らは、冒険家だ。「もう死んでもいい」という勢いの無防備さで、「自分を」を忘れてときめいている。
ときめくとは、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」になることだ。
「世界の輝き」は、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」が、もっとも深く豊かに体験している。生き延びる能力なんかに執着していたら、心はときめかなくなってゆくし、ときめかれる存在にもなれない。
 発達心理学ではよく、赤ん坊や幼児の「口唇性欲」なとといわれたりしているが、それと同時に母親が赤ん坊を抱き上げたりおっぱいを吸わせたりしているときには、どこかしらで赤ん坊にセックスアピールを感じているのだろうか。赤ん坊の愛らしさは、赤ん坊のセックスアピールでもあるのか。
 人は、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」にセックスアピールを感じる。なぜならセックスとは、「もう死んでもいい」という勢いでなされる、いわば「死の衝動」だからだ。
人が人にときめくことだろうと介護をすることだろうと、「生きられなさ」に対する反応であり、それによって「もう死んでもいい」という心地にさせられる。人と人の関係は、そういう無意識的な心模様の上に成り立っている。「もう死んでもいい」という勢いを持たなければ人は生きられない。そこでこそ世界は輝いている。
 つまり、「生き延びる」ことが称揚される社会では、人と人のときめき合う関係は生まれてこない。平和で豊かな現代社会は、そうやって人と人の関係が不調になってしまっている。友情だろうと親子の愛情だろうと男女の恋だろうと、「生き延びる」ことをスローガンにしていたら、不調になってしまう。
 人と人は、「もう死んでもいい」という勢いでときめき合う。そういう勢いでときめき献身し合う関係になってゆく。
 生きられない弱く愚かなものになってゆくことこそ、人の自然なのではないだろうか。そこでこそ人と人はときめき合い、そこでこそ人間的な知性や感性が生まれ育ってゆく。そこでこそ命が活性化する。
「生き延びる」ことをスローガンにして未来のよい社会を構想しても、原発反対を叫んでも、人と人がときめき合う関係は組織できない。そんな自意識過剰の人間が寄り集まった仲間内だけの空騒ぎが人の世の動きの大きなうねりになることなど、原理的にありえない。


 前回の記事につなげていえば、弥生時代奈良盆地がなぜそのころの日本列島でもっとも発達した都市集落になってゆくことができたかといえば、「もう死んでもいい」という勢いで人と人がときめき合ってゆく関係がもっとも豊かに起きていたからだ。その関係が集団として組織されながら巨大古墳の造営をはじめとする大掛かりな土木工事がなされていたわけで、そこからやがて大和王朝という国家組織も生まれてきた。
 生きられない弱く愚かなものにならなければ、他愛なく豊かにときめき合う関係を体験することはできない。現在のこの国で生きることが下手な弱く愚かなものたちが増えているということは、「生き延びる」というスローガンによっては社会的な大きなうねりにはならないということを意味する。
弱く愚かであるとは、生き延びる未来のことを忘れて、目の前の「今ここ」に他愛なく心が動かされてしまうということだ。そんな弱く愚かな性向を持っていたら現代社会ではうまく生きてゆけない。しかし、おそらくそれこそが人間性の自然であり、そういう弱く愚かなものたちはどうしても生まれてきてしまうし、彼らを生き延びることに執着した存在に教育してゆくことはけっしてかんたんなことじゃない。生き延びることに執着したら、もともとその能力を持っていない彼らはさらに生きにくくなってしまう。彼らはそんな不自然を生きることはできない。必要なのはたぶん、彼らを生き延びられるようにしてやることではなく、彼らを彼らのままで生きさせることなのだろう。妙な「教育」なんかしてもしょうがない。その教育者よりももっと高度な知性や感性の持ち主として、「もう死んでもいい」という勢いで本格的な学問や芸術に熱中しているものたちがいるのだから、そんな「教育」が説得力を持つはずがない。「生き延びる」ことを称揚したがる教育者ほど「世界の輝き」に対するときめきが希薄で、彼らは、この世の弱く愚かなものたちに幻滅されている。
この世の弱く愚かなものたちは、「世界の輝き」に他愛なく豊かにときめいてゆく。そしてじつは、人間なら誰だってどこかしらにそういう心模様を持っている。だから、そういう他愛なくときめき合う関係を基礎として持っていなければ、社会的な大きなうねりにはならないのではないだろうか。
 現代社会では、「自己」とか「この生」とか「人間」という概念に「意味」や「価値」が付与され、称揚されている。しかし人は自然・根源において、自己やこの生の意味や価値に執着しながら生きているのではなく、自己やこの生を忘れながらそこから解き放たれてゆく体験の上に生きている。それが「ときめく」ということだ。
 こんなにも「生き延びる」ことが称揚される世の中で、それでも生きられなない弱く愚かなものたちが生まれてくるということは、大人たちの生き延びようとする欲望がどんなに不自然なことかということと、生きられない弱く愚かなものたちがどんなに自然な存在かということを意味している。
「生きられない」ことこそ、この生のというか人間であることの先験的な与件なのだ。そこにおいてこそ、本格的な学問も芸術も人間的な豊かな「ときめき」も体験されている。
 原発反対を叫んで「生き延びる」というスローガンを組織しようとしても無駄なことさ。原発がどんなに危険で凶悪なものであったとしても、それでもそれを受け入れてしまう人間の愚かさや弱さやかなしみをもう一度考えてみてもいいのではないのだろうか。
 まあネアンデルタール人が置かれていた環境の苛酷さは、原発事故が起きた後の「チェルノブイリ」や「フクシマ」とおなじだったともいえる。それでも人は、そこで生きてゆこうとする。「もう死んでもいい」と思い定めて生きてゆこうとする。その「愚かさ」をあなたは否定するのか?
 人は、生きられない弱さや愚かさを生きることによって世界の輝きにときめいてゆく。そのときめきは、生き延びる能力を持ったあなたたちの正義や幸せのもとにあるのではない。いやまあそうやって市民正義や幸せを称揚し合唱していればいいのだけれど、それを排斥する能力も資格も弱く愚かなものたちにはないのだけれど、そうやって人の心は停滞し病んでゆくという現実も確かにあるわけで、それでも人の世から弱く愚かなものたちがいなくなることはないし、「世界の輝き」はそこにおいて立ちあらわれている。
 それは、正義や幸せを執着しながらこの生に閉じ込められて生きるか、それともこの生から解き放たれて生きるかという問題だろうか。


 人は、この生から解き放たれる体験がないと生きられない。人の心は、この生から解き放たれて「世界の輝き」にときめいてゆく。人間性の自然は、「生きられない弱く愚かなもの」として生きることにあり、「生きられない弱く愚かなもの」として滅びてゆくことにある。滅びてゆくことが生きることだ。人の心の自然は、世界の「意味」や「価値」にときめいてゆくのではない、世界の存在そのものに愚かに他愛なくときめいてゆく。世界は、存在そのものにおいて輝いている。すべては許されている、ということ。
 弱く愚かであることは生きにくいことだけど、それでもそれは許されているし、世界はそこでこそ輝いて立ちあらわれる。
この世の中から弱く愚かなものがいなくなることはない。人間性の自然・本質は、そのものたちのもとにある。
 生き延びる能力を追い求め、それが善だとか幸せだとか人間性だとかと合唱しているあなたたちの心こそ病んでいるのだ。
「もう死んでもいい」という勢いで世界の輝きにときめいてゆく、その弱さや愚かさこそが人間性の自然であり、その「ときめき」とともに人類の文化は進化発展してきた。そういう「官能性」が人類の進化をもたらしたのであって、人類学者がよく云う「未来に対する計画性」という「生き延びる能力」が人の知能の本質であるのではないし、それが人類の進化をもたらしたのでもない。
「生き延びる能力」を持ってしまったら、人の心はときめかなってゆく。
 まあ、「生き延びる能力」を持っているものや、生き延びようとする欲望の執着しているものよりも、「もう死んでもいい」という勢いを持った弱く愚かなものたちの方がずっと人として魅力的だし、健全・健康でもあるのだ。そういう自分を忘れて他愛なくときめいてゆく無防備な集中力が人を生かしているのであって、自分を生き延びさせるためにたえず緊張して生きていたら心が病んでゆくに決まっている。その自己撞着の「緊張感」の果てに現代人は、認知症になったり鬱病になったりインポテンツになったりしている。
 そうやってつねにまわりを監視し、自分とまわりを見比べながら優越感に浸っていられたら「自己」は安泰かもしれないが、浸れなくなったら途端にパニックを起こしてしまう。生き延びることに執着するとは、ようするに「自己の安泰」を後生大事に抱え込んでいるということであり、そういう自己意識=自己撞着でたえず緊張して生きている。そうして「自己の安泰」を失うと途端にパニックを起こし、激しく人を憎悪したり、自分の心が停滞・固着して身動きできなくなったりする。つまり、そうやって他者の「心のあや」に気づくはたらきがどんどん鈍くなってゆく。鈍くなりながら、ますます「自己の安泰」に執着するようになってゆく。「自己の安泰」の執着しながら、認知症鬱病やインポテンツになってゆく。現代社会においては、そんな自閉症的な生きる作法が善や正義になっている。


 鬱病の人に、「自分に自信を持ちなさい」といってもだめなのだ。その言い方が、かえってその人を追いつめてゆく。彼は、「自分」に執着することから逃れられない。生き延びる能力が発揮できているときはそれが大きな満足になるのだろうが、その能力を失えば、際限なく自分が自分に追い詰められてゆく。
「自分」に執着することから解放されなければ、「世界の輝き」にときめいてゆくという体験はできない。
 今どきは、人の「心のあや」に気づくはたらきが鈍い大人がたくさんいる。彼らは、自分に執着しているぶんだけ自分の外の世界の「なんとなくの感触」に鈍感で、「すでに決定されている」ところの「意味」や「価値」ばかりまさぐっている。それが彼らの世界とのかかわり方で、鈍感だから「意味」や「価値」執着するしかない。そうしないと生きられない。しかし、本格的な知性や感性や人間的な「ときめき」の豊かさは、「なんとなくの感触」に気づいてゆくところから生まれ育ってくる。「生き延びる未来」のことなんか忘れて目の前の「今ここ」の対する反応の豊かさがなければ、それに気づいてゆくことはできない。
 ここでいう「もう死んでもいいという勢い」とは、「今ここ」に対する反応の豊かさのこと。滅びることが生きることだ、と言い換えてもよい。その反応の豊かさは「自分」が消えてゆく体験であり、そこにこそ人間的な「快楽=官能性」があり、その「快楽=官能性」が人を生かしている。生き延びることに執着してばかりいると、そういう人間性の 逆説というか命のはたらきの逆説に裏切られて、心も体も病んでゆく。そこに現代社会の危うさがある。
そりゃあ生き延びる能力があれば、この社会で大手を振って生きてゆける。しかしその不自然を告発するようなかたちで、弱く愚かな子供や若者が増えてきている。だから今どきの大人たちはその弱さや愚かさが目障りなのだろうし、弱く愚かなものたちはそういう大人たちに幻滅している。彼らは、大人たちを見習って生き延びる能力を持とうとしない。大人たちに幻滅しながら、いつの間にか避けがたく弱く愚かなものになってゆく。そうやって彼らは、人間性の自然に回帰してゆく。そしてその一方で、大人たちのというか時代のそうした不自然に囲い込まれて心を病んでゆく若者や子供たちもいる。
 今どきの大人たちは、戦後の高度経済成長という平和で豊かな社会を生きることによって獲得したその「生き延びる能力」を子供や若者たちに見習ってもらえているか?原理的に、子供や若者たちがそんな能力を見習うことはできない。なぜなら彼らは、その本質・自然において、「自分」も「生き延びる未来」も忘れて目の前の「今ここ」のこの世界の輝きに他愛なく無防備にときめいているものたちだからだ。
 大人たちは、まさにその「生き延びる能力」によって認知症鬱病やインポテンツになってゆく。彼らは、生き延びようと緊張しっぱなしで生きてきたのであり、その緊張の果てにそういう症例を引き起こしている。かれらはその「生き延びる能力」が健全・健康な老後を約束していると思い込んでいるが、そういう現在の情況にはなっていない。彼らはもう、健全・健康な老人にも魅力的な老人にもなれない。生き延びる能力に執着したものたちが生き延びる能力を失えば、心はパニックに陥って崩壊してゆくか限りなく停滞してゆくかのどちらかしかない。
 生き延びることができる社会がいい社会であるとはかぎらないし、この世から生きられない愚かで弱いものたちがいなくなるということはない。人間とは本質・自然において生きられない愚かで弱い生きものであり、その性向を携えて人類史は進化発展してきた。生きられない愚かで弱いものにならなければ世界の輝きにときめいてゆくことはできない。その無防備で他愛ない「ときめき」こそが、人間的なこの生やこの社会や人と人の関係が活性化する契機になっている。


 人の心の正しさや美しさという「意味」や」価値」などどうでもよい。人の心のなんとなくの「あや=感触」に気づき合うことができるだけの「ときめき」がなければ、この世の人と人の関係はどんどん不調になってゆく。
 これからはお金(=経済)の意味や価値に執着する時代から人の心の正しさや美しさという意味や価値が大切にされる時代になってゆく……といっている人がいる。しかし、そんなことはどっちでも同じさ。「意味や価値に執着する」というその鈍感さからは何も生まれない。そうやってあなたたちは認知症鬱病やインポテンツになってゆく。そうではなく、「なんとなくの感触」に気づきながら人の心はときめいてゆくのであり、その「官能性」によって人類の文化は進化発展してきたのだ。
 われわれは、誰からも好かれ誰にでもときめいてゆくことができる老人になれるか。それはとても難しいことだが、ここまで医療技術が発達して誰もが「老人」として生きるほかない世の中になったのであれば、それもまた現在のこの社会が抱えている課題のひとつに違いないし、さしあたってその課題は克服されていない。醜い嫌われ者の老人が増えている世の中らしい。それでも世の中は、そんな老人たちをけんめいに介護しようとしている。あなた自身の正しさや美しさなど、どうでもいいのだ。そんな意味や価値から解き放たれていないと老後は生きられないし、若者や子供たちの弱さや愚かさを非難している場合ではない。その弱さや愚かさからこそ、世の大人たちが学ぶことがあるのではないだろうか。
 老人が「世のため人のため」などといってあまりエラそうにしない方がいい。あなたにそんな仕事をする権利も能力もない。老人はこの社会のやっかいものであり、それはもう、そうなのだ。だから、自分なんか野垂れ死にしたってかまわない存在だという自覚のひとかけらくらいは持っていてもいいのかもしれない。
 老人の「生き延びる知恵」などどうでもいい。老人なんか、赤ん坊と同じように他愛なくときめいている存在であればそれでいいのだし、いいかえればそこにこそ老人の尊厳がある。人類は、「生き延びる知恵」など称揚して歴史を歩んできたのではない。人類は、根源・自然において「生きられない愚かで弱いもの」なのだし、そのことによって文化を進化発展させてきた。
 人類の知能は、この世界の「意味」や「価値」に気づいていったのではない。この世界の「感触」に気づいていったのだ。おそらくそこにこそというか、その「官能性」にこそ、人類文化の「起源論」を解くカギがある。