閑話休題・原節子の死
原節子が死んだ。
日本中に静かな、ほんとに静かな衝撃が走った。
その日の新聞の社説はすべて原節子の死を扱っていた。
事実としては、ある女がこの世界の片隅でひっそりと死んでいったというだけの話で、べつに現在の日本人の誰もがそのことに大きく心を動かされたわけでもなく、むしろほとんどの人の口の端にも上らなかったに違いないのだが、それでもそれは、たしかにひとつの時代の終焉を象徴する出来事だった。
もうあんな女優は二度とあらわれない、という感想は、おそらく原節子を知っている人の誰の中にもある。
原節子について考えるとき、僕の頭の中にはいつも「品性」と「官能性」という言葉が浮かぶ。
原節子の圧倒的な存在感は、「品性」と「官能性」にあった。だから、「永遠の処女」などという代名詞が冠せられたのだろう。
古事記の神話を映画化した監督は、原節子を「天照大神」に起用した。その気持ちは、なんとなくわからなくもない。
かつて、社会党の党首になった土井たか子のブームが起きたことがあった。彼女は原節子には似ても似つかないブサイクなおばさんだったが、それでもどこかしらに原節子と共通する「品性」と、まあ「憧れのお姉さん」的な「官能性」を感じさせるものを持っていた。わりと大柄で洋服の趣味もよく、それなりに見栄えがしたということもあり、彼女も現代の「アマテラス」だったのかもしれない。
「品性」とは何だろう?
「官能性」とは何だろう?
どんな美人女優も、そこにおいて誰も原節子にはかなわない。
吉永小百合も松坂慶子も鈴木京香も、原節子ほどの「品性」と「官能性=存在感」はない。だから、原節子ほどの「伝説の女優」にはなれない。
女の、というか女優の「品性」や「官能性」は、美貌だけの問題ではない。育ちがいいとか悪いということとも違う。あえていうなら「俗っぽくない」ということだろうか。この世ならぬ「非日常」の存在の気配。
たとえば吉永小百合の場合は、「やさしい」とか「清く正しい」とか、そういう「人格」が「気配」としてあらわれてしまっている。そこが好きだという人も多いのだろうし、本人もそういう「人格」であろうとする欲望があるのだろうが、「品性」は「人格」ではない。「人格」は俗っぽい。「伝説の女優」は、「人格」など持っていない。「人格」を希求する欲望を持っていない。「女」であることも「人間」であることも超越している。それでいて、そこに「女」であること「人間」であることの究極の気配がある。そこにこそ、もっとも本格的な「官能性」がある。どんな女優も、原節子ほど「官能的」ではない。原節子ほど、女であることや人間であることのなやましさといたたまれなさを知っていた女優もおそらくいない。そうやって、突然映画の世界からいなくなってしまった。
「官能性」とは、「いなくなる」ことだ。「いなくなる」ことのなやましさとくるおしさを「官能性」という。
ほんとに、「品性」とは何だろう、「官能性」とは何だろう、と思う。
その「究極の品性と官能性」が今、滅びたのだ。