原節子論・女神について考える


人類は、普遍的に「女神」に憧れている。
女神に何がしてほしいとか、そういうことではない。
目の前にいてくれるだけでいい。
女神の存在こそが人々の希望になる。
「生きる希望になる」というのではない。「もう死んでもいい」という心地にさせてくれる。それが人の心のカタルシス(浄化作用)であり、心はそこから華やいでゆく。そうやって生まれ変わったような新鮮な気持ちとともに華やいでゆくことを「希望」という。女神は、死の世界に誘う。人の心は、死と生のはざまに立って華やいでゆく。そこに立ってこそ、心も体も活性化する。われわれの「希望」は、死と生のはざまにある。そういう「非日常」の華やぎがなければ生きられない。
「生きる希望」なんかいらない。「今ここ」で燃え尽きたい。人類社会の「祭り」は、そのような「非日常の華やぎ」として生まれてきた。
毎日がお祭りであれば、という思いは誰の中にもあるが、現実はそうもいかない。われわれは「この生」という「日常」の中に閉じ込められて生きている。「生きる希望がある」ということは、「この生=日常に閉じ込められている」ということだ。
われわれの「希望」は、そんなところにはない。
人は、女神がまとっている「死の気配」に引き寄せられてゆく。そこから心が華やぎ、ときにダイナミックな集団行動が生まれてきたりする。それもまあお祭りのようなものだが、たとえば18世紀のフランス革命を率いた「自由の女神」の伝説などはその典型的な例だろう。それはべつに実在の人物のことを指してそう呼んだのではなく、「自由」の象徴としての「女神」なのだ。
そのときドラクロアという画家は、民衆の蜂起を率いるリーダーの女性を描いているが、とにかく「女神」に率いられる集団こそもっともダイナミックな行動を起こすということは、ひとつの人間性の普遍としてたくさんの例がある。
またフランスの場合は、15世紀のジャンヌ・ダルクという17歳の少女が、崩壊寸前のフランス軍を率いてイングランドとの戦いに奇跡的な逆転勝利をもたらしたという歴史も持っている。
ジャンヌ・ダルクは可憐な美少女だったということになっており、その少女が男装をし、鎧に身を包んで戦場を駆け巡った。彼女は、今は死者になっている偉大な先王の声に導かれてこの戦場にやってきた、と宣言した。その「女神」としてのカリスマ性は、そのように決然として死と生のはざまに立っていることの「非日常性」にあったわけで、それが、率いられるものたちに「もう死んでもいい」という勢いの華やぎ=闘争心をもたらした。
人間の集団は、「女神」を仰ぎながら活性化してゆく。
この国の戦後復興のスタートに華やぎをもたらしたのも、映画界の原節子であり歌謡界の美空ひばりという「女神」たちだったともいえる。
美空ひばりのどこに品性があるのかといっても、あんなにも華やかな声と歌唱力はもう人間離れしていた。つまり、この生の外(=非日常)にあった。少女のその声と歌唱力が、みじめな敗戦に打ちひしがれていた人々の心に「華やぎ」をもたらした。
ジャンヌ・ダルクがそうであったように、人間離れした「非日常性」こそが「女神」であることの条件であり、そこにこそ「女神」の「品性」がある。
人は、その人間性の自然・本質において、死と生のはざまに立とうとしている存在なのだ。心はそこでこそ華やぎときめき、命のはたらきが活性化する。



西洋における「女神」は、「自由」の象徴であるらしい。
では「自由」とは何か?
それは「もう死んでもいい」という勢いで心が華やいでゆくことであって、「生き延びたい」という欲望は、「死にたくない」というかたちでこの生に閉じ込められている閉塞感でしかない。人の心(知性や感性)は、生き延びたいという欲望とともに停滞し歪んでゆく。
生き延びることなんか「自由」でもなんでもない。「自由」とは「今ここ」で心が華やぎときめいてゆくことにある。生き延びようとする欲望が人類の知性や感性を発展させてきたのではない。生き延びねばならないという枷から解き放たれたところにこそ人間的な「自由」があり、知性や感性の華やぎがある。
「自由」は「死=非日常の気配」をまとっている。生き延びるためには、しなければならないことがあり、してはいけないことがある。それに対して「もう死んでもいい」と思い定めてしまえば、「何をしてもいい」し、「なんでもできる」ような気持にもなる。そうやってジャンヌ・ダルクという「女神」に率いられるフランス軍の士気が燃え上がっていった。
「女神」は、世の中の常識の外に立って民衆の心の「華やぎ」をもたらす。「こうしなければならない」とはいわない。「何をしてもいい」「なんでもできる」という。その勢いで、ジャンヌダルク率いるフランス軍は、劣勢に陥っていたイングランド軍との戦いに勝利しフランスを救った。
人の心は、「女神」を仰ぎながら「もう死んでもいい」という心地とともに華やぎときめいてゆく。それはもう、世界中どこでもそうなのだ。
原始社会が女にリードされながらいとなまれていたということは、そのときから人類はすでに「女神」という概念を無意識のうちに持っていたということを意味する。それはそのまま、「女神」にリードされていた、ということだ。
なんのかのといっても人の世は、男が女に求愛してゆく。それは、女が持っている「カリスマ性」に引き寄せられている、ということだ。女は、「もう死んでもいい」というかたちで非日常の世界に立っている存在であり、男の心はその世界に引き寄せられてゆく。そこに立つことこそ「自由」であり、心はそこから華やぎときめいてゆく。
体力的に弱いということではないけれど、女は「生きられなさ」を生きている存在であり、そういう「非日常」の世界に立っている。その気配に男は引き寄せられてゆくし、だからこそ女に現実的な面を見せられるとうんざりする。「今ここ」で「もう死んでもいい」というカタルシス(浄化作用)を体験すること、男は女とそういう「お祭り」がしたいのであって、一緒に生き延びたいのではない。カマキリのオスは、交尾をしたあとにメスに食われてしまうという。そういうようなこと。「女神」は、人を「もう死んでもいい」という「非日常」の世界に誘う。人の心は、そこから華やぎときめいてゆく。そこに「自由」がある。「自由」とは心が華やぎときめいてゆくことであって、生き延びることではない。そんないじましい欲望から解き放たれることを「自由」という。
「女神」に率いられた軍団は、「もう死んでもいい」という勢いで勇猛果敢になる。
「女神」に対する憧れは、世界中のどこにでもある。
原初の人類がどんな住みにくさもいとわずに地球の隅々まで拡散していったことからしてすでに、比喩的にいえば、ようするに「女神」に率いられながら起きていった現象だったのだ。そのとき原始人は、そうやって「もう死んでもいい」という感慨とともに心が華やぎときめいていったのであって、べつにそうやって生き延びようとしたのではない。彼らは、「女神」に率いられながら生き延びることのできない地に旅立っていったのだ。
この国の歴史は「アマテラス」という「女神」からはじまっているし、西洋でも、処女懐胎した聖母マリアという「女神」に対する信仰が根深くある。処女懐胎なんて、「非日常」の「自由」の極みではないか。まあそれが事実であったかどうかということなどどうでもいいことで、そこにこそ、「自由」を求めてやまない人の心の普遍が投影されている。
今をときめくアウンサンスーチー女史だって、ミャンマーの「女神」として存在している。彼女には、ジャンヌ・ダルクに似た「処女性=聖性」の気配がある。



平たくいえば、「女神」とは「憧れのお姉さん」ということ。17歳の少女に率いられた軍団のあらくれ男たちにとっては、そのジャンヌ・ダルクという少女が「憧れのお姉さん」だったのだ。
「憧れのお姉さん」は「処女」でなければならない。「処女」は男の欲望など無視して「非日常」の世界に立っている。男の心は、その「越えられない河」を隔てた「非日常」の世界に向かって旅立ってゆく。そうやって心が華やぎときめいてゆく。男の性欲は、「処女」という性交が不可能の対象に向かう。その「越えられない河」を超えてゆくことの「自由」に向かって漕ぎ出してゆく。まあ、セックスにおける女のセックスアピールになっているしぐさとか表情とか心のあやは、「恥じらい」とか「無邪気さ」とか、そうした「処女性」として表現される。
「処女性=非日常性」こそ、女のというか「女神」の「品性」なのだ。
この問題は、ややこしい。処女のくせに「処女性」を持っていないすれっからしの女もいれば、男とやりまくっていても「処女性」という「品性」を漂わせた女もいる。「娼婦の処女性」というのがある。
「処女性=品性」をそなえた女は、セックスをしたがってはいないが、「やらせてあげる」無邪気さを持っている。そうやって男がやりたくてたまらなくなる気配をすでに漂わせていると同時に、そのことの「不可能性」を男に抱かせもする。
処女であることなんかどうでもいいが、女の「品性」は「処女性」にあるともいえる。そうやって「マリア信仰」が生まれ、男装をした17歳の少女であるジャンヌ・ダルクにあらくれ男たちの軍団が率いられ、原節子は「永遠の処女」と呼ばれた。
原節子が処女だと思っている人間などひとりもいなかったが、それでも原節子は「永遠の処女」と呼ばれた。
「女神」がそなえている「処女性」、人類はそこにこの生から解き放たれてあることの「自由」を見出していったのであり、男のペニスが勃起することだってじつはその「不可能性」に向かってジャンプしてゆくことにほかならない。
まあ男にとっての女の裸はひとつの冒すべからざる「聖域(サンクチュアリ)」であり、そういう無邪気な「憧れ」を持っていないとペニスは勃起しないし、じつは誰だってどこかしらにそういう純情を持っている。それがなければ、生きものとしての普遍的な「求愛」という行為は起きてこない。
そして「女神」は、そういう「聖痕(スティグマータ)」をそなえた人類社会の「生贄」でもある。女だって、誰もがどこかしらに「女神」としての心模様を持っている。男は、その「もう死んでもいい」という気配に引き寄せられてゆく。
この国には、女がお酌をして話相手をするだけのいわゆる「水商売」という風俗産業の文化があるが、それは、かつてこの島国では女が「女神」だったという伝統を持っているからだ。裸で抱き合うことはしても最後の一線だけは越えさせない、というフーゾクだってある。それもまた、女の「女神」としての「処女性」の上に成り立っている。
西洋人からすると、この国の女はとても貞操観念が薄いように見えるらしいが、女の「女神」としての「処女性」が認められている社会だからこそなのだ。この国の女は、セックスをしたがっているわけではないが、「やらせてあげる」という「女神」としての「処女性」を持っている。
セックスをしたいという欲望は、西洋の女の方がずっと旺盛だ。だから西洋の男たちは、妻から毎晩のようにセックスすることを要求される。西洋の女の貞操観念は、そのようにして成り立っている。
しかしこの国の女は基本的にはそうした欲望を持っていない存在として、ただ「やらせてあげている」だけであり、だから夫婦のいとなみが週に一回でも月に一回でも、ときには年に一度か二度でも許されている。それはつまり、女の「女神」としての「処女性」が認められている社会である、ともいえるのだ。
この国の男たちは、女に「やらせてもらっている」だけなのだ。
女三界に家なし、という。この国の女は、「もう死んでもいい」という勢いで「非日常」の世界に立っている「女神」なのだ。



女が「自己保存の本能」が強い存在だというのは、嘘だ。男以上に「もう死んでもいい」という勢いを持った存在だからこそ、「自己保存」をしてバランスを取っているにすぎない。文明社会の制度性は、女に「自己保存」の態度を強いる。それだけのこと。文明社会とは「男社会」であり、自己保存の能力おいてまさっている男が女にもそれを持たせて男の優位性を保持しようとしている。しかし人は、「自己保存」の能力だけで生きられる存在ではないのであり、そのくびきから解き放たれて「非日常」の世界に立っている「女神」という存在も必要としている。それが人間社会の「祭り」という習俗の本質であり、そういう「自由」という「心の華やぎ」がなければ人は生きられない。それを失った現代人が、認知症鬱病やインポテンツになったりしている。
原節子が雲隠れして以来の日本列島では、そういう社会病理をどんどん進行させてきた。その問題はおそらく、原発や安保法制によっても、原発反対や安保法制反対によっても解決しない。それは、政治や経済の問題ではない。そういう「未来」に向かってどう生き延びてゆくかという問題ではなく、「今ここ」で心はどのように華やぎときめいてゆくかという問題であり、とりあえずここでは「現代社会は女神を見失っている」といっておこう。
人にとっては、生きることだろうとセックスすることだろうと、そういう「非日常=死」の世界に向かって「越えられない河」を超えてゆこうとするいとなみであるのかもしれない。「自由」とは、そこに向かって解き放たれてゆくこと。そうやって人の心は華やぎときめいてゆく。
「生き延びる」というスローガンを正義にして人と人が裁き合っていたらその能力を持たない弱いものや愚かなものたちは追いつめられてゆくばかりだし、そうやって現代社会では、認知症鬱病やインポテンツになったり、さまざまな発達障害を引き起こしたりしている。いじめとかセクハラとかパワハラというのも、まあそういうことだろう。
子供が親を殺したといっても、子供の罪を裁く前に、親による「パワハラ」はなかったかという問題がある。そのとき子供は、それほどに追い詰められせっぱつまっていた。
子供に愛され慕われている親が子供に殺されるはずがない。
誰もが、人を裁くことばかりしている。現代社会は、人と人の関係が不調になってしまっている。「女神」を見失っている。「女神」は、人間社会に人と人が他愛なくときめき合う「華やぎ」をもたらす。
「女神」は、すべてを許している。そこに「女神」の「品性」がある。言い換えれば現代人は、人を裁くことがどんなにか品性下劣な卑しいことかという自覚がまるでない。そうやって大人が子供や若者を、そして人が人を追いつめる社会になっている。「女神」のいない社会は、そうなってしまう。
追いつめられる息苦しさを誰もが抱えているのだが、それを自分もまた人を追いつめることによって解消してゆく。近ごろではそういうことを「負の連鎖」というらしい。子供を追いつめて子供から殺されてしまった親だって、それなりに時代=社会から追い詰められていた。
まあ、神から追い詰められている人もいる。
すべてのことが許されるなら社会の秩序など成り立たないが、秩序にはめ込まれることの息苦しさは誰の中にもある。他愛なくときめき合い許し合う部分がないと、人間社会は成り立たない。そうやって「祭り=娯楽」が機能しているし、恋もセックスも友情も親子の愛情も、じつはそういう関係の上に成り立っている。生き延びるための「正義=秩序」を共有して成り立っているのではない。
戦後社会は、それまでの軍国主義という秩序が壊され、その混沌の中から人と人が他愛なくときめき合う関係が生まれてきた。そしてその関係を成り立たせていたのは、未来に向かう政治経済ではなく、「今ここ」の心の華やぎをもたらす映画や歌謡曲などの「娯楽」だったのであり、そんな状況の象徴的な存在として、ひとまず原節子美空ひばりという「女神」が機能していた。
べつに「民主主義」という政治思想が戦後復興のスタートのエネルギーになったのではない。人と人が他愛なくときめき合う「お祭り」のエネルギーこそが戦後社会に「華やぎ」をもたらしたのだ。
日本人は、いまだに「民主主義」などというものはよく知らない。そんな主義思想が戦後復興のエネルギーになったのなら、それが成熟しているに違いない今ごろは、「無党派層」という人々などほとんどおらず、誰もが選挙に行く世の中になっているし、原発反対運動ももっと盛り上がっていることだろう。
この国には、「もう死んでもいい」という勢いで人と人が他愛なくときめき合ってゆくという伝統がある。そういう「祭り¬=芸能」とともに「女神」が機能してきた歴史がある
「女神」の文化……女が「女神」でなくなってというか、男が女の中の「女神」を見る視線を失ってというか、そうやって男と女の関係も人と人の関係も不調になってきたのだろうか。



原節子が雲隠れしてしまった1963年は、ケネディが暗殺された年だった。それがどうしたという話だが、このころが戦後という時代の流れの転換期だったともいえる。そろそろ映画産業が斜陽化しはじめていた。映画の時代からテレビの時代へ、ということだろうか。それはつまり、人々の意識が、映画という「非日常」の世界に対する憧れから、テレビから送られてくる「日常」の情報に耽溺するようになっていったということだ。そのとき時代は、「もう死んでもいい」という勢いの「祭り」の混沌を抜け出して、「生き延びる」ための「衣食住」に対する関心が中心になっていった。衣食住がどんどんファッショナブルになってきたといっても、庶民は、その場かぎりの娯楽に対する関心が薄くなってより高価な衣食住の商品を追い求めるようになっていっただけのこと。そうして娯楽はもう、毎日見るテレビですませた。その消費欲は、冷蔵庫や掃除機や洗濯機などの電化製品からマイカーやマイハウスへととどまるところを知らない勢いになり、やがてバブル景気へと突入していった。
あのころの日本人は、そのようにして華やかで享楽的な暮らしを謳歌しているように見えて、じつはどんどんいじましく「生き延びる」ことに執着していっただけなのだ。
そういう状況が原節子を雲隠れさせてしまった、ともいえる。古事記スサノオの神が勝手なことばかりしてアマテラスという姉の女神を天の岩戸に隠れさせてしまったように。
まあ原節子は、戦後の日本人の「お姉さん」であり「女神」だった。
あのころを境にして日本人は、「生き延びる」ことばかりに執着して、「もう死んでもいい」という心の華やぎをもたらしてくれる「女神」を見失っていった。そしてそのツケが、今どきのさまざまな社会病理となってあらわれている。



「女神」とは人としての「自由=解放=救済」の象徴であり、人が生きられなさを生きる存在であることの官能性を象徴する、そんななやましい何かのことだ。
「女神」とはもっとも本質的本格的な「品性」と「官能性」の象徴だとするなら、人類は、この生のいたたまれなさから解き放ってくれるそんな「非日常」的な対象に対するときめきとともに歴史を歩んできたのだが、この生の意味や価値ばかりをまさぐりながら「生き延びる」ことを善や正義のスローガンにしてしまっている現代社会はもう「女神」を見失っているのだろうか。そうともいえるし、人が人であるかぎりそういう「品性」や「官能性」に対する憧れがなくなることはないともいえる。
ときめくことは、「女神」に気づいてゆく心模様なのだ。人の心は、その「品性」や「官能性」にときめいてゆく。
「大衆性」などといって大衆は「キッチュ」なものが好きなように思われがちだが、「大衆性=キッチュ」とは対極の存在である原節子を「女神」として仰いでいったのは大衆だったのであり、神にも天皇にもアウンサンスーチー女史にも「大衆性」なんかないに違いない。
「大衆性」という「日常」に対する「神性」という「非日常」……這いつくばって生きる大衆だからこそ、「非日常」に超出したいという願いも切実なのだ。大衆だからこそ「女神」の「品性」や「官能性」に憧れときめいている。
とすれば、現在の日本人は大衆としての切実さを失っている、ということだろうか。「日常」を共有することの満足に浸り合っているだけで、「非日常」の「品性」や「官能性」に憧れ気づいてゆく切実さを失っている。そういう「ときめき」を失っている。
「この生=日常」の意味や価値をまさぐってばかりいるなんて、人類の知性や感性はそんなにも通俗的なものに成り下がってしまったのか。そうやって「自分=この生」に執着するばかりで、「自分=この生」を忘れて「自分=この生」の外の対象にときめいてゆくということができなくなっている。
「他者」とはつまるところ「この生=自分」の外の「非日常」の存在にほかならない。「女神」は、「他者」のもとに宿っている。「女神」とは究極の「他者」であるともいえる。「非日常の品性と官能性」をそなえた究極の「他者」のことを「女神」という。
誰だって、どこかしらで「女神」に気づいている。他者の存在に「女神の気配」を感じている。「女神の微笑みと嘆き」が人を生かしている。原節子にもアウンサンスーチー女史にもジャンヌダルクにも、そういう「女神」としての「微笑みと嘆き」が気配として漂っていることを大衆が気付き感じていったのだ。その気配のことを、ここではひとまず「品性」とか「官能性」といってみた。
生きてあるのはいたたまれないことだ。だから人は「女神の微笑みと嘆き」のそばにいたいと思う。「女神の微笑みと嘆き」が人を生かしている。
小津映画の中の原節子は、輝くばかりの微笑みを振りまきながら登場し、最後にはいつも泣いている。
「女神」は、この世界のすべてを許していると同時に、この生の嘆きを共有してくれる。そこにこそ原節子の「品性」があった。
まあ、成瀬己喜男も同じように原節子を重用したのだが、彼は「女神」としての「嘆き」にこだわり、それに対して小津安二郎はひたすら原節子の「女神の微笑み」を追いかけながら最後に泣かせて締めくくっていた。悲劇と喜劇、小津映画は、基本的にもっとも上質な「喜劇」だった。どちらの映画が好きかというのは人それぞれの趣味の問題だが、そういう監督として資質の違いはたしかにあった。
「ときめく」とは「非日常」の世界に超出してゆく体験。人はそうやって「世界の輝き」にときめいているのであり、「泣く」こともまた、そうした「この生=自分」が洗い流されてゆく「カタルシス=浄化作用」の体験にほかならない。
どちらの体験においても、そんなとき人は「女神」のそばにいる。