ロリータと女子会・神道と天皇(80)

近ごろ、「女子会」という言葉が妙に目立ってきている。
「コンパ」とか「婚活」というようなことが、ちょっと野暮ったくなってきたことの反作用だろうか。男たちが今なおそれを追いかけているとしても、女たちはもう、いささか飽きてきている。
「男子会」は女がいないことの一抹の物足りなさが残るが、「女子会」はもう、それだけで完結してはしゃぎ合える。男の本能は女を求めているが、女は、男を受け入れても男を求めているのではない。
昔だって、クリスマスに男とデートするなんて野暮ったいことはしたくない、という女子はいた。
日本列島には「女子会」の伝統がある。
長屋のおかみさんたちの井戸端会議だって、ひとつの女子会だろう。現在だって「ママ友」の「女子会」がある。放課後のマクドナルドではしゃいでいる女子高生のグループもある。
発表当時の源氏物語の人気を支えていたのは貴族の娘たちで、印刷技術がなかった当時は、それをみんなで回し読みしていた。縄文時代は女子供だけの集落がたくさんあったし、土器をはじめとする縄文文化のほとんどは女がリードしていた。
日本列島の文化の伝統においては、「女子会」が持つ華やぎや愛らしさが尊重されてきた。
AKB48や宝塚歌劇団などの女子会文化は、日本列島に特有のものらしい。女子会なんか世界中のどこにでもあるが、日本列島では、その華やぎや愛らしさや細やかさをひとつの美のムーブメントとして昇華させてゆく。
古代以前の神社の巫女集団にについて語られるとき、ごく当たり前のように「女が持つ呪術性」という問題設定で説明されているのだが、呪術の能力なんか男でも持っているのであり、女の専売特許でもなんでもない。現在の占い師の数だって、男と女の数は半々だろう。呪術の能力が女の先天的なものだというのなら、なぜチベットダライ・ラマは男なのか。呪術の能力のほとんどは、修行や生後環境で身に付けることができる。
女が生まれながらに持っている能力は、呪術の能力なんかではなく、華やぎとか愛らしさとか、まあそのようなものであり、そんなことはあたりまえではないか。そしてそれは、求めても得られるものではないと同時に、失うまいとしても失ってゆくほかないものでもある。その若さ、処女性……どんな美人でも、歳を取れば「若い娘にはかないません」という。
したがってその巫女集団は、宗教組織だったのではなく、おそらく古代のAKB48や宝塚のようなものだったのだ。
世界中どこでも、若い娘が持っている華やぎや愛らしさにときめき感動しながら歴史を歩んできたのだ。つまり誰もがそれに人として生きてあることのいたたまれなさを癒されているのであり、それは、人類にとって呪術なんかよりずっと大切なものだ。

日本列島は、どこよりも「処女性」を尊重する文化が洗練発達している。そこから、ロリータ趣味に満ちた現在の「かわいい」の文化が生まれてきた。現在、世界中でもっとも人気のあるロリータのカリスマは「初音ミク」と「きゃりいぱみゅぱみゅ」だろうか。若者たちはその「他界性」にときめきながら、生きてあることのいたたまれなさから解き放たれてゆく。
戦後の原節子は「永遠の処女」などと呼ばれて、大人にも若者にも人気があった。しかし今どきの大人たちのおおくは自意識たっぷりに自分たちの「大人ぶり」に執着ばかりして、「処女性」に対する「遠い憧れ」を失っている。たとえば、内田樹上野千鶴子のあのブサイクな顔つきを見れば、それがよくわかる。
呪術とは生き延びるためのものであり、きわめて現世的な欲望の上に成り立っている。だから現世的な政治権力と結びつくのであり、呪術によってこの生の向こうの「他界」に超出してゆけるわけではない。
文明社会が不可避的に生き延びるための呪術を必要とする構造を持っているとしても、人間性の自然においては、生き延びたがっているのではなく、この生のいたたまれなさから解き放たれた「他界」に超出してゆくことを願っている。生きることのカタルシスは、心が「他界」に超出してゆくことにある。
この生の「他界」は、「呪術」によってではなく、「芸能」によって体験される。
芸能は、その本質において呪術ではない。日本列島の芸能の伝統は、呪術性ではなく、「処女性」にある。まあだから、宝塚やAKB48や初音ミクが生まれてきたし、それはもう縄文時代からそうだったのであり、しかもそれが人類の普遍的な芸能のエッセンスでもある。
処女だって「処女性」に対する「遠い憧れ」を持っている。それが、今どきの「ロリータ・ファッション」の意味するところだ。
「処女性」及び「女子会」の文化、女が生まれながらにして持っている華やぎや愛らしさや潔さやくるおしさやなやましさや他愛ないときめきやかなしみ等が入り混じった、その「混沌」とした気配が日本列島の文化の伝統の通奏低音になっている。
無防備で混沌とした集団性の文化。海に囲まれたこの島国では、異民族の圧力から逃れて生き延びようとする欲望を持つ必要のない歴史を歩んできた。つまり大陸のような、まわりの他者や異民族に対する警戒心とともに「生き延びようとする欲望」が育ってくる、というような環境ではなかった、ということだ。
処女(思春期の少女)とはこの世でもっとも無防備な混沌を生きている存在であり、彼女らこそ。この世でもっとも深く切実に生きてあることのいたたまれなさを知っている。処女のチャーム(魅力)とでもいうのだろうか……彼女らは存在そのものにおいて、「生きてあることの華やぎや愛らしさや潔さやくるおしさやなやましさや他愛ないときめきやかなしみ等が入り混じった、その混沌とした気配」を漂わせている。

まあ僕なんか「少女買春」など畏れ多くて出来そうもないが、そういう気持ちがわからないわけでもない。よかれあしかれ、「処女(思春期の少女)」は人類普遍の憧れであり、処女自身だって「処女性」に憧れている。「ロリータ・ファッション」はそうやって生まれてくるわけで、初音ミクやきゃりいぱみゅぱみゅやは若い男だけに人気があるのではない、もしかしたら娘たちのほうがもっと切実に本格的に憧れているのかもしれない。
今どきは、この国でも、思春期にさしかかる直前のころの自分の娘にやたら触りたがる父親がけっこういるらしいが、それが近親相姦にまでエスカレートするケースは世界中にいくらでもある。
「処女性」は、人類永遠の憧れなのだ。そしてこの問題は本当にやっかいで、たとえば憲法第九条を否定する今どきの右翼の多くは、日本列島の文化の伝統=本質としての「処女性」を思想として身体化することに失敗している人たちだといえる。そしてそういう連中が、あんがい「少女買春」にはまっていたりもする。
ロリータに手を付けられられること自体が、ロリータの尊厳が見えていないことの証拠だともいえる。
日本列島では、男だって「処女性」を持っているし、老婆になってもなお「処女性」を失わない女もいる。なぜなら、人々が祀り上げる天皇自身がもっとも高貴な「処女性」の体現者だからであり、この国を訪れた外国人観光客は、この国の文化のその「処女性」に驚きときめき、そして人間性のもっともプリミティブな部分に触れたような心地で懐かしんでもいる。
「処女(思春期の少女)」とはこの生の混沌を生きる存在であり、そこにこそ心がこの生の外の「他界=美」に超出してゆく契機がある。そうやってこの生の混沌は、混沌のまま収拾されてゆく。それは、この生が「消えてゆく」体験であって、この生の「秩序」を構築してゆくことではけっしてない。
オカルト愛好家による「自分の外から自分を見ている」という幽体離脱の体験なんか「神秘」でもなんでもない。自分を忘れて(=自分が消えて)世界の輝きに他愛なくときめいてゆく、その「他愛なさ」にこそこの生のもっとも深い「神秘」がある。
まあ、処女(思春期の少女)は、存在そのものが神秘だ。世界が存在することそのものが「神秘」だ……そう感じてときめいてゆく「他愛なさ」を共有してゆくこと。すなわち「神国日本」などといっても、宗教のオカルト(=呪術)など機能していないところにこそ日本列島の「集団性」がある。
とにかく、今どきの右翼であれ左翼であれ、彼らの自意識過剰のえらそげな振る舞いや思考に、日本人らしさは何も感じられない。正義なんか振り回しているかぎり、ちっとも日本的ではないのだ。この国には正義など存在しないし、それでももっとも原始的でもっとも高度かつ未来的な「集団性」が機能している。

現在のロリータ系のアニメは世界中で人気があるし、この国の映画でも、『フラガール』とか『リンダ・リンダ・リンダ』とか『スウィング・ガールズ』など、青春映画の一ジャンルとして思春期の「女子会」の活躍を描いた作品がたくさんある。
「日本人とは何か?」という問題において、凡庸な右翼たちの振りかざす正義などよりも、今どきの「女子会」の愛らしく華やかなパフォーマンスのほうが、ずっと学ぶべきことが多い。
たとえば、現在の女子高生のブラスバンド吹奏楽)部でもっとも人気があるのは、京都の橘高校らしい。ブラスバンド吹奏楽)といっても、オーケストラのように座ったままで演奏するジャンルと、行進しながらいろんなパフォーマンスを添えてゆくジャンルがあり、京都橘高校は、後者のジャンルにおいて圧倒的な革新性と華やかさを持っているのだとか。
まあ、そのパフォーマンスにおいて革新的な華やかさと完ぺきな調和性を両立させることはけっしてかんたんなことではなく、いくら全国大会の常連校とはいえ、その「けれんみ」は邪道だと評価する審査員も少なからずいて、ナンバーワンの座にいるとはいえない。
ともあれ、保守的な審査員に嫌われていることを承知であえてその姿勢を貫いているところがすごいし、そんなスタイルが日本列島のもっとも古い町のひとつである京都から生まれてきたということにも、何かこの国の伝統の一筋縄ではいかないところが感じられる。
日本列島で最初に市電が走ったのは京都で、京都が保守的な町だともいえない部分もあり、共産党が強い土地柄でもある。
京大と東大では、京大のほうが革新的で、ノーベル賞の受賞者もより多く輩出している。
京都の革新性とは、いったいなんなのだろう。つまり、革新的であることそれ自体が日本列島の伝統だ、ということ。
処女(思春期の少女)は、革新的だ。大人の女へと成長しはじめたみずからの身体の鬱陶しさを脱ぎ捨て、心は「他界=異次元の世界」の世界に超出してゆく。
彼女らは、ときに自分の命を屠り去ってしまうことも厭わない。
京都橘高校吹奏楽部の女子たちは、百人が飛んだり跳ねたりしながら演奏を続け、しかもその変幻きわまる混沌を一糸乱れぬかたちで表現してみせる。第三者からは、ほとんど不可能だろうということを実現してみせる。こんなことは、外国人にはまずできない。だから、外国に行って演奏すると、おおいに受ける。
その「シング・シング・シング」というジャズの名曲に乗った激しい動きのパフォーマンスには、スカートの下のパンツが見えそうなくらい大きく股を広げたりしながらとてもダイナミックであると同時に、いかにも少女らしい華やぎと愛らしさがある。無防備でダイナミックで、「もう死んでもいい」という極限的な勢いを感じさせる。
そんなにも激しく動きながら演奏し、しかも百人全員の動きをそろえたり、有機的に連携させたりしてゆくことがどうしてできるのか。
彼女らは、大人の女の体になってゆくことの鬱陶しさを振り切るようにしながら、けれんみたっぷりの集団パフォーマンをつくり上げてゆく。そういう不可能に挑むような練習にのめり込んでゆくことが、彼女らの青春になっている。
その「けれんみ」は、もしかしたら舞妓の姿の非日常性と通じているのかもしれない。京都には、そういうパフォーマンスを生み出す文化的な風土があるのだろう。
少女の集団パフォーマンスには、混沌を混沌のままに昇華してゆく華やぎと愛らしさがある。そしてそのもっともラディカルなかたちが京都から生まれてきたということは、あんがい偶然ではないのかもしれない。