処女の気むずかしさと憂鬱・神道と天皇(87)

今をときめく「ベビーメタル」の3人の娘は、拍子抜けするくらいメタルロックのおどろおどろした呪術的な雰囲気はなく、これじゃあAKBと大した違いはない、とさえ思う。
それでもAKB以上に世界中で大うけしている。一流の演奏者による高度なメタルロックの重低音をバックにしながら、オーディションによる選りすぐりの美少女たちは「かわいい」の表現に徹している。AKBとのいちばんの違いは、ここには「処女の気むずかしさ」がある、ということだろうか。AKBだって海外でも人気があるのだろうが、彼女らほどではない。
もちろんそこには音楽業界の大人たちのしたたかな商業戦略があるわけだが、それはそれとして、処女のかわいさの表現もここまで来たか、という感もある。処女のかわいさは「気むずかしさ」に極まる、ということだろうか。
処女の宗教性ということなら、ヨーロッパにはマリア信仰がある。浮世離れしていなければ、処女じゃない。そのことの舞台装置としては、メタルロックがぴったりかもしれない。
その舞台は、宗教的でありながら、宗教を超えている。
異次元の世界に超出してゆくカタルシスは、けっして宗教によってではなく、宗教を超えてゆくことによってはじめて体験される。
宗教的な恍惚とはつまるところ自我に閉じ込められる体験であり、そこから解き放たれたところにこそ「異次元の世界」がある。
そして「処女の気むずかしさ」こそが、人々を「異次元の世界」に誘ってくれる。
とにかく、世界中でロリキャラがもてはやされるようになってきており、ロリキャラは日本列島の娘がいちばんサマになるらしい。欧米の娘は体格がすでに大人びているし、自我を漂わせてしまっている。
外国人は、日本人が漂わせている自我の薄い気配に感動する。
近代合理主義の自我=主体性信仰が破綻しはじめている時代なのだ。
人々は、政治や宗教に縛られつつ、政治や宗教に飽き飽きしてきてもいる。

一般的に語られている、その、宗教に対する認識は違う。
その、神道に対する認識は違う。
その、天皇に対する認識は違う。
世の右翼も左翼も、自分では正義・正論を語っているつもりでいい気になっているが、正義・正論にとらわれているというそのこと自体が人間としてブサイクなのだ。
宗教であれ神道であれ天皇であれ、その基礎=前提となる認識=定義を世間で合意されている通りに受け入れ、そこから考えはじめるのならここでの論考ももっとスムーズに進められるのだが、ここではその基礎となる認識=定義そのものが信じられない。それをひっくり返してそこから進みたいのだが、これがそうかんたんにはいかない。何をいっても「これで人に通じるのだろうか?」という心もとなさばかりが先に立つ。
まあ、世の右翼や左翼や宗教者たちのような「信念を貫く」という態度はとれそうもない。その「信念を貫く」という態度そのものがひとつの迷妄にちがいなく、そんなものはただのオカルトだと思っている。
信念なんかないのだけれど、ひとまず戦略的確信犯的に「それは違う」といってしまうことは必要かもしれない、とこのごろ思いはじめている。
それにしてもこの世の中には、なぜこんなにも「それは違う」と思えることに溢れているのだろう。もしかしたら真実なんかどうでもよくて、「こういうことにしておこう」と勝手に自分たちの都合がいいように決めつけて世の中が動いているのかもしれない。
文明社会は、人を思考停止に陥らせる仕組みを持っている。もしかしたらわれわれ現代人は、原始人や古代人よりもっと迷信深いのかもしれない。
政治なんかただの呪術で、人類史においては、呪術が発展して政治になった。原初の王は、呪術の祭司だった。
文明社会は宗教=呪術とともに生まれてきた。宗教=呪術は、政治家の本能のようなものだ。いやもう、右翼であれ左翼であれ、政治を語りたがるインテリの思考においても、宗教=呪術の本能ははたらいている。
べつに政治なんか無用のものだというつもりもないし、文明社会は政治なしには成り立たない仕組みになっているのだろうが、宗教であれ政治であれ、それが崇高なものだとはさらさら思わない。
宗教家や政治家に崇高な仕事をしているかのような気取った自意識を振りまかれると、うんざりする。
この世に崇高な仕事などというものはない。高潔な宗教家だろうと、こずるい詐欺師だろうと、夢中になってやればどちらがどうということもない。人は何かに夢中になる生きものだ、という事実があるだけだろう。つまり人は、自分を忘れて何かに夢中にさせられてしまう。それは、「自分」なんか「からっぽ」の存在にすぎない、ということだ。

この国の職人仕事のレベルは高い、という評価があるとすれば、それだけ夢中になって仕事をしているというだけで、日本人の知能指数は高いとか、そういうことではない。その職人仕事のレベルは、その職人を取り巻く世界の伝統の蓄積とその職人の夢中になる態度との相乗効果によって引き上げられてゆく。そのとき職人は、その伝統の蓄積に憑依している。日本列島の職人仕事は、夢中になり方も含めて伝統のレベルが高いのであって、職人の個人的な能力そのものは、世界中どこでもとくに大きな差はない。そこのところにおいては、みな同じ人間なのだ。どこの国でも素質がある人もいればない人もいる。
日本人のレベルが高いのではない。日本列島の伝統のレベルが高いのだ。
同様に、宗教者がやっかいな信仰に凝り固まっているといっても、その人の内面がどうのという以前に、宗教がそのようにしてしまう力を持っている。
厳密な意味での「内面」などというものはない。あるのは自分を取り巻く世界の空気というか幻想空間だけであり、それはもう人類の歴史と言い換えてもいいし、宇宙の歴史だともいえる。そういう自分の外の世界によって自分の「内面」がつくられている。固有の内面などというものはない。内面は「からっぽ」なのだ。われわれは人類の歴史を生きているのであって、自分で自分の内面をつくっているのではない。自分の内面をつくっている自分、などというものはない。そういう「自分」などないから、「自分の内面」がつくられる。そういう「自分」があるというのなら、「自分の内面」をつくる「自分」とはいったいどんな「内面」を持っているのか、ということになってしまう。
われわれが死んでゆくとき、「自分の内面」は「人類の歴史」に溶けてゆくのだろう。
われわれは「からっぽの自分」を生きているからこそ、「内面」を持つことができる。
「自分」の本質は、「からっぽ」であることにある。「自分」なんか「からっぽ」にして夢中になってゆくから、「内面」を持つことができる。まあ乳幼児は、そうやってこの社会の歴史としての「言葉」を覚えてゆく。そうやって「内面」を形成してゆく。
われわれの心は、自分をからっぽにしてこの世界に「憑依=反応」してゆく。であれば、「自分」に対する執着が強いものほど鈍感だということになる。彼は、人類の歴史を内面化することに失敗している。そうやってこの世界にうまく反応してゆくことができないまま心を病んでゆくのかもしれない。

「神(ゴッド)」とはこの世界をつくった存在であるのだから、この世界が存在する前にすでに存在していたことになる。心の中に神との関係を持っているものは、それだけでこの生が完結してしまって、自分の外の環境世界に反応できなくなってゆく。
心の自然なはたらきにおいては、世界は出会うべき対象であって、すでに存在する対象ではない。心は、世界と出会って反応してゆく。
それに対して心の中に神との関係を持っているものは、世界や他者に対する反応を喪失したまま、世界や他者を神の裁きにしたがって支配してゆこうとする。そしてこれは宗教者だけではなく、文明社会で生きるものの普遍的な心理であり、文明社会とはもともと宗教の上に成り立っている社会なのだ。
そうして、支配欲は人間の本能だ、という議論も生まれてくる。共同体の政治権力は民衆を支配し、大人たちは子供を支配してゆく。そうやって誰もが「神の裁き」を代行している。
文明人は、宗教を否定できない。なんといってもこの世界の宗教は甘やかされ過ぎている。キリスト教や仏教ならいいというものでもなない。どんな宗教だろうと、新興のいかがわしいカルト宗教以上でも以下でも以外でもないのだ。彼らは、世界や他者に対する反応を喪失しつつ世界や他者を支配しようとしてゆく。
しかし世の中はややこしい。たとえば「自然を守れ」ということ自体が自然を支配することであり、人類の文明がシロクマやクジラを滅ぼそうと、草食動物の群れが草原を砂漠に変えてしまおうと、人類だってひとまず自然の一部なのだから同じことなのだ。
残念ながら今どきは、文明社会の「主体性=能動性」に対する信仰が大手を振ってまかり通っている。「近代合理主義」と言い換えてもよいのだろうか。その自意識過剰の論理。「自分」なんか「からっぽ」だということが認めてもらえない世の中だ。「自分」は「環境世界=人類の歴史=宇宙の歴史」によってつくられるのであって、「自分をつくる自分」なんか「からっぽ」であるのだし、自分をからっぽにして世界や他者の輝きにときめいてゆくということができないから心を病む。

宗教とは心を病んだまま生きてゆく装置であり、みんなが病んでいる世の中なら、病んだほうが生きやすい。まあ文明社会は、そういう構造になっている。
そしてそれでも人は、「自分をからっぽにして世界の輝きにときめいてゆくピュアな心」に対する「遠い憧れ」を手放すこともできない。なぜならそこにこそ人間性の自然があるわけで、人は、人間性の自然から逸脱しつつ、人間性の自然に回帰してゆこうともしている。
かんたんにいえば、生きているのは汚れてゆくことで、世の中は汚れてゆくことに居直った大人たちの思考にリードされて動いているわけだが、それでも誰もが心の底では「ピュアな心」に対する「遠い憧れ」を抱いて生きている、ということだ。
そういう「遠い憧れ」を失ったらときめき感動するという体験はできないし、その体験を失って心を病んでゆく。
しっかり自分を見つめて正しい自分を構築する……というようなことに頑張っても心の病の治癒にはならない。自分なんか「からっぽ」にして他愛なくときめいてゆけばいいだけのことさ。自分を知ることは自分を忘れることであり、すなわち自分が「からっぽ」であるのを知ることだ。
今どきの右翼や左翼が「正義・正論」を振りかざして政治を語るのは汚れていることに居直っている態度であり、今やそういう病理が庶民の大人たちの世界にも蔓延してしまっている。それはまあ、戦後の欧米的な民主主義や近代合理主義の洗礼によるのだろうが、そうした病理が蔓延してしまっているがゆえにそれにうんざりしている子供や若者たちもまた増えてきている。彼らは団塊世代ほど大人たちに反抗しないが、団塊世代よりももっと深く大人たちに幻滅している。
そりゃあ若者だっていろいろだが、彼らのあいだから「かわいい」の文化が生まれてきたということは、それだけでもう大人たちに対する幻滅をあらわしている。
「かわいい」の文化の中心は、ロリータ趣味(処女性)の美学にある。そしてこれこそが日本列島の文化の伝統であり、その他愛なくときめいてゆく処女性は、非宗教的なコンセプトの上に成り立っている。

日本列島は、何はともあれ先進文明国の中でもっとも非宗教的非政治的な国であり、その性格とともに処女性の文化が育ってきた。いつまでたっても外交交渉がへたくそで、憲法第九条もぐずぐずといまだに破棄できないでいる、この処女性という限界こそ日本列島の可能性であり、人類の希望でもある。
非宗教的非政治的な日本列島が滅びたら、人類に残されている人間性の自然が滅びる。
現在のこの国に外国人観光客が増え続けているのは、たとえ買いかぶりにしても、彼らには、ここに来れば人類の可能性を見つけることができる、という思いもあるに違いない。
列車の正確な時間運行とか、多様な食文化があるとか、サービスの洗練度が高いとか、心地よく穏やかな自然があるとか、宗教的でありつつ宗教に冒されていない寺社のたたずまいとか、外国人はそこに、もっともプリミティブであると同時もっとも未来的な人間性であるところの「処女性」を見ている。
この世界の構造を解き明かしたつもりの宗教による妙な悟りなんかより、何もわからないまま他愛なくときめいてゆく「処女性」のほうがずっと人類の希望になりうる。
まったく、山手線や地下鉄が二分遅れただけで「遅延」になってしまうなんて、「処女の気むずかしさ」そのものではないか。その処女性によって、世界のハイテク技術をリードしているのだし、清潔で治安がよい街づくりを可能にしている。それは、宗教とは対極にあるコンセプトなのだ。
処女(思春期の少女)のわがままな気むずかしさ……彼女らは、この生やこの世界の「混沌」を生きている。彼女らの生や世界は、神が定めた整合性(=秩序)を持っていない。
日本列島は信仰心があいまいだからこそ、電車のルーズな時間運行や不潔な町の景色を嫌う。それは、「規律正しい」というのとは違う。それは、細部のあれこれの「まぎれ」を徹底的に微調整しているのであり、そうやって「混沌」の中に身を投じてゆくことの上に成り立っているのだ。
神の秩序を信じているから、電車の10分や20分の遅れなど気にしない。遅れたって世界の秩序は神が保証してくれている。思考や行動がルーズな国ほど宗教が強く機能しているという傾向がある。
たとえば陽気なラテンの南ヨーロッパと陰鬱な環境の北ヨーロッパとどちらに宗教色が濃いかといえば南であり、「神は死んだ」という言説はつねにドイツをはじめとする北の哲学者によって提唱されてきた。
陽気で楽天的であることが悪いわけではもちろんないが、そのために集団の連携がいいかげんになるということもある。彼らは神を当てにし過ぎているし、日本人は神をほとんど信じていない。
日本文化の高い洗練度は、「混沌」を生きる処女の気むずかしさと憂鬱の上に成り立っている。
北ヨーロッパの先進国の人間なんか高慢でいけ好かないところも多いが、あんがい彼らこそ日本文化のよき理解者だったりする。彼らには、宗教を当てにし過ぎることに対する反省がある。
処女の気むずかしさと憂鬱こそ人類の希望なのだ。宗教も、えらそげな右翼の正義・正論の政治談議も、どうでもいい。