日本的な美意識・神道と天皇(88)

パンとサーカス」という言葉がある。
大衆は愚かな生きものだから「パン」という物質的豊かさと「サーカス」という娯楽を求めるだけで、正義に対する信念など持っていない……というような意味らしい。
まあ、ローマ帝国はそうやって内側から腐ってゆくことによって滅びていった、という教訓として欧米で言い習わされており、今どきのこの国の気取った右翼インテリが好んで使う言葉にもなっている。そして彼らの考える「正義に対する信念」はおもに「国防意識」を指しており、目の前に中国・朝鮮からの脅威が差し迫っているというのにどうしてそのことを本気で考えようとしないのか、という。
しかしそんなことをいっても自分たちだって「パンとサーカス」が好きで、国を守ることは国の「パンとサーカス」を守ることだろう。その「国防」という意識そのものが、「パンとサーカス」に対する執着以外の何ものでもない。
自分たちだってただの俗物のくせにそういう気取ったことをいうところが、なんともうさんくさい。
そんなに「パンとサーカス」がくだらないのなら、国なんか滅びてもかまわない、といえよ。大衆なんかみんな死んでしまえ、といえよ。人類なんか滅びてしまえ、といえよ。人間が「パンとサーカス」以外の何で生きているというのか。

現在の外国人観光客がこの国の何にときめいているのかといえば、「パンとサーカス」がとても高度に洗練されたかたちで実現されていることにあるのだろう。
それはともかくとして、「パンとサーカス」の両方が満たされているに越したことははないが、どちらかひとつしか得られないというか、ほんとうにせっぱつまったときに人はどちらを選ぶだろう。
これは、かんたんだ。
食い物が得られなくても、娯楽としての快楽は体験することができる。人間の集団には、食い物以前に人との出会いがある。セックスがある。食い物が得られないと絶望すれば、娯楽を工夫しながら今ここをやり過ごすしかない。
貧乏人の子だくさん、などというが、貧乏人ほど「娯楽=サーカス」に対する希求が切実になる。ときには「パン」そっちのけで「サーカス」に耽溺していったりする。
この国の終戦直後の食糧難の時代をどのように乗り切ったかといえば、歌謡曲をはじめとする娯楽に耽溺してゆくことによって食糧不足に耐えていたわけで、食い物を買う金を削ってでも娼婦を買っていた男たちもたくさんいた。その「サーカス」を希求するダイナミズムこそ戦後復興の基礎になった。そのとき人々は、争って食いものを奪い合うことよりも、食い物不足に耐えながら、基本的に人と人がときめき合うという娯楽に対する希求を共有しながら連携していった。これは最近の大震災のときも同じで、「絆」などといいながらボランティア活動をはじめとする人と人のときめき合う関係を止揚してゆくムーブメントが起きていった。それは、「パンよりもサーカス」というムーブメントだった。
まあ学問や芸術だってもちろんそうだし、スポーツやセックスや恋愛だってひとつのサーカスだろう。人は寝食を忘れて熱中できることを持っている存在なわけで、それを「サーカス」という。
日本列島の食文化は、「見栄え」ということにとてもこだわる。それは、「食う=パン」ということから逸脱して、それ自体がすでに「サーカス」になっているともいえる。
今どきの右翼の妙な国防意識よりも、大衆の「サーカス」に対する希求のほうがずっと日本列島の伝統にかなっているし、集団運営のためのずっと高度な思考にもなっている。
今どきの右翼の論者たちに、右翼でないものは抹殺してしまえ、という衝動がないといえるか?僕は、潜在意識としてそれは「ある」と思う。まあ左翼だって同じかもしれないが、とにかく、大衆は愚民だという彼らのその「自己撞着」がグロテスクだと思う。
もう一度言う。人間が「パンとサーカス」以外の何で生きているというのか?えらそげな宗教心や政治意識で生きればえらいとでもいうのか?
彼らは大衆よりも鈍感な存在で、そうした大げさなスローガンという思想信条を持たないと自分を支えられないらしく、しかしその自分を支えようとする自己撞着自体が鈍感であることの証しなのだ。
日本列島の大衆にとっての生きることは、世の「処女(思春期の少女)」たちのように他愛なくときめいてゆけばいいだけであり、しかしそこにこそ日本的な美意識が高度で精緻に洗練されてきた秘密がある。

イスラム教徒はやることも考えることも何かにつけて大げさで、良くも悪くも細部のニュアンスを大事にする日本列島の国民性とは対極にあるといえる。彼らは何かに対してひどく鈍感で、日本列島の住民は良くも悪くも敏感でナイーブな民族だともいえる。
結論から先にいってしまえば、彼らは「ときめき」のない民族なのだ。だって、世界でもっとも宗教らしい宗教に縛られている人たちなのだもの。
イスラム教徒の鈍感さは、宗教がいかに人を鈍感にしてしまうかということを物語っている。
この国にも「鈍感力」といった作家がいたが、そりゃあ鈍感である方が生きやすいに決まっているさ。
宗教は人の心から「ときめき」を奪い、鈍感にしてしまう。それによって救われよりよく生きることができるとしても、それはもう、そうなのだ。砂漠の民はもう、そのように生きるしかなかった、ということだろうか。
無防備に他愛なくときめいていってしまうところが無宗教の日本人の弱点だし、ユダヤ教イスラム教は、他者や異民族に対する徹底的な警戒心の上に成り立っている。
キリスト教だってユダヤ教から派生したきた宗教であるわけだが、ヨーロッパ人は、しかしときに日本人以上に他愛なく純粋だったりする。そういういわば「ピュア」な人が自己主張が強いヨーロッパで生きるのはとてもしんどいことかもしれないが、それでもそういう人が生まれてきてしてしまう文化土壌がヨーロッパにはあるし、誰もがそういう部分を持っている。イギリス人やフランス人はほんとにしたたかで高慢ちきな人たちだと思うが、それでも日本列島の文化の無防備な他愛なさや混沌としたあいまいさをいちばんよく理解してくれるるのも彼らなのだ。そこに、ヨーロッパ文化の奥深いところがあるのだろうか。彼らは、キリスト教文化に冒されているという以前に、他愛ないときめきを生きたネアンデルタール人の末裔でもある。

差別するつもりはないけど、世界中がイスラム教徒ばかりになってしまっていいかといえば、それはそれで世も末だと思わなくもない。人間というのはそんなものでもないだろうと思う。とうぜん彼らはそうなればいいと思っているのだろうが、そうとは思わない人間だってたくさんいるわけだし、イスラム教徒がイスラム教を放棄する日だって来るかもしれないし、イスラム教徒の中にも非イスラム的な部分がある。。
イスラム教徒の女がブルカという布を被る習慣はだんだん後退してきているし、イラン映画とかを見れば、女たちが男に支配され隷属する世の中なんかいやだと思うような状況になってきてもいるらしい。
イスラム教徒が増えつつ、イスラム教自体の宗教的な内容が衰弱してゆく、ということが起きないとも限らない。
人類社会はどのようなかたちになってゆくのだろう。
イスラム教は困ったものだが、イスラム教よりキリスト教のほうがすぐれているというようなことはいえない。
まあ、宗教的な救済をありがたがったり自慢したりしているかぎり、キリスト教イスラム教も仏教も天理教もスピリチュアルも安泰なのかもしれない。しかしそれでも、知性や感性が豊かだとかピュアだとか敏感だとかセックスアピールがあるとかのこの世の魅力的な人は、宗教的な傾向が希薄な人のほうに多い。たとえ信仰を持っていたとしても、誰だって、宗教から解き放たれたところで、魅力的な振る舞いや表情になっている。
アインシュタインユダヤ人だが、敬虔なユダヤ教徒だったわけではない。敬虔なユダヤ教徒キリスト教徒でいたら、大科学者にはなれない。
アメリカはキリスト教原理主義の国で、無神論者であることをカミングアウトしにくい社会状況があるのだが、アメリカの本格的な科学者や芸術家のほとんどがじつは無神論者であるらしい。もちろん原理主義者のいかがわしい科学者もたくさんいるわけだが、その研究はもう、科学というよりたんなる宗教にすぎない。欧米には「錬金術」の伝統があるから、そういうことも成り立つのだろうか。彼らの社会では、黒を白と言いくるめることも、ひとつの正義であったり学問であったりするわけで、子供のうちから「ディベート」というかたちでそういう自己主張のトレーニングをしている。つまり、宗教に汚染された集団においてはそういう生態が発達する、ということだ。
しかし黒を白と言いくるめる自己主張というならイスラム教やユダヤ教のほうがもっと本格的で過激で、だから彼らは商売がうまいし、キリスト教徒がイスラム教に改宗させられることはあってもその逆はない、という現在の状況がある。

ヨーロッパにはユダヤ教徒を差別・弾圧するという歴史の伝統があるわけだが、ユダヤ教と同根であるイスラム教徒に対しても同じような感情や態度になるという情況にだんだんなってきている。そして差別・弾圧すればイスラム教徒の自己主張がおさまるかといえば、今ところは逆効果で、かえってイスラム教に侵蝕されてきている。
過激派でなくとも、とにかくイスラム教は、もっとも本格的な宗教になっているというその宗教的な性格そのものがやっかいなのだ。キリスト教の神もユダヤ教の神もイスラム教の神もみな同じで、イスラム教徒ほど深く強く神を信じているものたちはいない。
この世の中が宗教者ばかりになってしまったら、何もかも黒を白と言いくるめられてしまう。それでいいのだろうか。
つまり、黒を白と言いくるめる能力を持った人間が天下の世の中になる。彼らは「正義=神の裁き」の名のもとに黒を白と言いくるめる。今どきの右翼も左翼も、まあほとんどがそういう人種であり、それは、とても宗教的な態度なのだ。
この先の世界は、ますます宗教的になってゆくのだろうか。それとも非宗教的になってゆくのだろうか。
この世界のどんな宗教も、イスラム教徒を懐柔・改宗させてしまうような魅力は持っていない。もしそれができるとしたら、「他愛ないときめき」から生まれてくる非宗教的な集団性の文化によってであろう。
個人だろうと集団だろうと、魅力的じゃなければ誰もときめかない。そんなことはあたりまえすぎるくらいあたりまえのことで、正しければときめいてもらえるというような、そんな虫のいいことを望んでも何もはじまらない。正しいといったって、黒を白と言いくるめているだけなのだ。
憲法第九条を破棄せよという正義・正論が、守るべきだという愚直な論理よりも優れているという根拠などない。それだって黒を白だと言いくるめているだけであり、処女のように「混沌」を生きようとするのが伝統である日本人には、正しいことなどどこにもない、という感慨がある。そのくるおしさとなやましさを生きながら日本人は、日本的な美意識を洗練・成熟させてきた。