正義を押し付けてくれるな・神道と宗教(89)

現在の世界は、政治や宗教に飽き飽きしはじめている。
だって、今どきの政治や宗教など、あれこれのいざこざの種をつくっているだけなのだもの。
そのいざこざをおさめることこそ最重要の課題だというが、それによってまた新たないざこざが生まれてくるだけだったりする。みんなして生き延びようと争い駆け引きしているばかりで、その循環はもう、どこまで行ってもやむことがない。そうやって生き延びたいという過剰な自意識をぶつけ合っている。
「何が正義か」というところを争い駆け引きするのが政治で、宗教家どうしは「何が神の裁きか」というところを争う。「正義」といっても「神の裁き」といっても同じことだ。「神の裁き」を母として「正義」という概念が生まれてきた。
生き延びることが価値であるのなら、どうしてもそうなってしまう。
生き延びることなんか価値でもなんでもないと覚悟を決めないことには、そのような悪循環はおさまらない。彼らは、神が人間をつくり人間を生かしている、という。だから人間が生き延びることは神のおぼのおぼしめしだし、生き延びることは善であり、生き延びようとするのはすべての生きものの本能だ、と信じているらしい。けっきょく政治家も宗教者も、そのように考えながら、あれこれのいざこざを起こし続けているのだ。
その悪循環がいやならもう、神なんかいない、人類なんか滅びてもかまわない、と覚悟を決めるしかない。もともと人類はそこから生きはじめる存在だったのであり、だから猿の集団性の限界を突破して際限なく大きな集団をいとなむことことできるようになったわけで、生き延びることが大事なら、限界値に達する前に邪魔者はどんどん排除してゆく。
原初の人類は、生き延びることが大事という生態を捨てて、際限なく大きな集団をいとなむことができるようになっていった。誰もが自分を忘れて他者を生かそうとしていった。そうやって連携しながら、際限なく大きな集団になっていった。それは、「いつ死んでもかまわない」という覚悟が共有されている集団だった。
まあ、そこから支配と被支配の関係の文明社会がつくられてゆくわけだが、人が「いつ死んでもかまわない」と覚悟を決めながら他者に献身してゆく存在なら、それに付け込んで支配者=権力者が生まれてくるのも、歴史の必然的ななりゆきだったともいえる。
生き延びようとする支配者と、「いつ死んでもかまわない」と覚悟しながら他者に献身してゆく被支配者との関係、こうして文明社会の「秩序」がつくられていった。
支配者のいない民衆だけの社会なら、誰もが「いつ死んでもかまわない」と覚悟している。
そして民主主義社会は、誰もが支配者だから、誰もが生き延びようとしている。

人類は、文明社会の発祥とともに、「支配する」という関係性にめざめていった。支配者だけでなく、誰の中にも「支配欲」がはたらくようになっていった。親と子や男と女をはじめとして、一般的な人と人の関係そのものにそういう関係性が混入していった。
「教える」とか「伝達する」とか「説得する」ということはひとつの「支配」のかたちであり、原始時代にそのような関係性はなかった。たとえば、石器のつくり方を教えるとか伝えるなどといっても、原始人の場合は子供の世代が勝手に学び習得していったのであって、親の世代が教えたのでも伝えたのでもない。まあ、技術の伝承などはそれで十分であり、そのほうがかえって引き継ぐ世代での突然変異というかイノベーションが起きる可能性が高いのだ。
日本列島の職人の世界でも、師匠は何も教えないで弟子が勝手に学び習得してゆくという関係でその技術を洗練発達させてきた。これは原始的な人と人の関係であり、日本列島の民衆社会では、誰もが「学ぶもの=被支配者」であるという、「支配者」が存在しない原始的な関係の集団性を残してきた。
だから、古代や中世の民衆どうしのもめごとは、お上の定めた「法」によってではなく、民衆自身で調停する習俗が機能していた。
日本列島には、「支配」が存在しない原始的な関係性が洗練発達したかたちで機能している。治安がよくて清潔な街づくりをしているといっても、誰もが「被支配者」の立場に立てば誰もが他者を攻撃することも街を汚すこともできなくなってゆくだけのことで、べつに「治安を守らねばならない」とか「街を汚してはならない」という「神の裁き」がはたらいているのではない。
神の裁きを代弁するかのような正義・正論で「よい社会」がつくれるわけではないのだ。それを振りかざせば、停滞するか混乱するかのどちらかなのだ。このことは、イスラム社会が見事な反面教師になってくれている。正義・正論で「アラブの春」を迎えた彼らの世界が、今どういうことになっているのか。
この国の右翼だろうとヨーロッパの右翼だろうと、いい気になって正義・正論を振り回してばかりいると、それに反発する動きもかならず起きてきて、たとえばシリアの内戦のような混乱を起こしかねない。イギリスのブレグジットだって、下馬評では離脱の票が圧倒するだろうといっていたのに、ふたを開けたらほとんど半々だった。で、いまだに国内の混迷を抱えたままでいる。フランスしかり、これだけ左翼思想の不合理が露呈してきた時代になっても、世の中は右翼一色になるというわけにはいかない。
世の中は、正義・正論の通りに動いてゆくわけではない。
人は正義・正論を生きたいのではなく、この世界の輝きにときめいて生きてゆこうとしているだけではないだろうか。
人の心も社会の空気も、何かに導かれて動いてゆくのであって、主体的にめざす方向を決めてもその通りにはならない。
人の心は魅力的なものに引き寄せられてゆくのであって、正しさに引き寄せられるのではない。民衆が正義・正論になびかないからといって、「愚民だ」と腹を立ててもしょうがない。正義・正論に執着してもものごとは解決しないのであり、嫌われ者ほどそんなものに執着するという人の世の現実がある。嫌われ者の集まりである右翼集団よりもベビーメタルやAKBのほうが好きだといって何が悪い。
文明社会においては、いつの時代も人々の動向は政治志向と非政治志向に分かれる。それは、社会的にどのような身分であれ「支配者」として生きたいものが一定数生まれてくるということだし、個人の心の中にも政治志向と非政治志向のせめぎ合いがある。
たとえば商人が物を売ることだって、ひとつの政治的支配的志向性であると同時に、他者に献身しようとする非政治的被支配的志向性でもある。
政治志向とは支配志向のこと、「支配者」になって自意識を満足させようとする。何かを「伝達」しようとか「説得」しようとすること自体がひとつの支配志向であり、文明社会はそういう欲望を肥大化させてしまう構造を持っている。

この国に「無党派層」とか「選挙に行かない層」がたくさんいるということは、とても大事なことなのだ。それこそがこの国の文化を洗練させてきた伝統であり、世の政治志向支配志向が肥大化したものたちには、そこのところの微妙なニュアンスはわかるまい。
ブサイクな賢者よりも魅力的な愚者のほうが愛される。ブサイクなものほど賢者になりたがる。生きることが上手な大人よりも、生きることが下手な処女のほうがずっと魅力的だ。
生き延びようとする欲望よりも、「いつ死んでもかまわない」という覚悟のほうがずっと美しいし、じつは日本列島の文化はその覚悟とともに洗練発達してきた。前者の欲望は「支配者」として生きようとし、後者の覚悟は「被支配者」として生きようとしている。
人がなぜ正義・正論を持とうとするのかといえば、それこそが人を支配するためのもっとも有効な武器にほかならないからだ。正義・正論という神の裁き、それがこの社会を生きにくく息苦しいものにしている。まあ彼らはその息苦しさの中でまどろんで生きていたいのだろうが、他者との他愛ないときめき合いを生きようとしているわれわれはそうもいかない。
ときめき合う関係を失ったものから順番に支配欲に目覚めてゆく。
生きることが上手なものの正義・正論がなぜ説得力を持たないかといえば、そこにこちらの心を縛り付けようとする支配欲が透けて見えるからだし、生き延びようとすることが少しも美しくなく、むしろブサイクに見えてしまうからだ。そうやって世の中は、けっして正義・正論の通りには動いてゆかない。
これほど政治のことがあれこれ語られる世の中になったというに、それでも今なお「無党派層」とか「選挙に行かない層」がたくさんいるということは、この国の希望であると同時に、それこそがこの国の世界観や生命観の伝統の正味にほかならない。
この国の世界観や生命観や美意識は、「もう死んでもいい」という無意識とともに生まれ育ってきた。べつによい社会をつくろうと計画して歴史を歩んできたわけではない。「よい社会」など当てにせず、ただもう「今ここ」の目の前のその人とときめき合って生きてゆこうとしてきたことの結果として、たとえば治安がよいとか清潔だとかという社会になってきただけだ。

よい社会をつくろうとしたら、正義・正論という神の裁きで人の心や生活を縛ってゆくのがいちばん有効だろう。まあ、そうやってイスラム社会が生まれてきた。
この国にはイスラム社会みたいになりたいと思っている人間なんかほとんどいないのに、それでも今どきの右翼はやたら正義・正論を振り回してこちらの心を縛り付けてこようとする。自分たちがイスラム社会と同じようなことをしようとしているということを、まったく自覚していない。この国には、伝統的なメンタリティとして、そういうことに対する拒否反応がある。何々党を支持するとか、選挙に行くとか、よい社会をつくるとか、そんなことはもううんざりなのだ。いや、そういうことをいわれたら誰だって多少はひるんでしまうところはあるのだけれど、無意識や潜在意識のところで「そんなことはどうでもいい」と思っている。
世の右翼たちよりも、「無党派層」や「選挙に行かない層」のほうが、ずっと本質的にこの国の伝統を背負っているし、そこにこそ普遍的な人間性の自然がある。この国には「正義・正論=神の裁き」など機能していないのであり、そんなものを追い求めるのがこの国の伝統であるのではない。この国の伝統は、「正義・正論=神の裁き」に執着することによってではなく、「今ここ」のこの世界の輝きに他愛なくときめいてゆくことによって生まれ育ってきた。
この国の高度に洗練された技術や美意識や集団性は、今どきの右翼たちが振り回すところのこの生やこの社会の「秩序」を目指す正義・正論によってではなく、ひたすら細部の「混沌」と戯れてゆくことともに生まれ育ってきた。
「よい社会」なんかどうでもいい。「今ここ」のあなたにときめいてゆくことができればそれでいい。そういう流儀でこの国ならではの文化を洗練発達させてきた。「よい社会」を構想できないという限界こそが、日本列島の可能性でもある。
ともあれ、よい社会をつくろうとか国民を団結させようとか、そんなことばかり考えていたらイスラム社会みたいになってしまうのがオチなのだ。
あえていってしまうなら、僕の眼には、今どきの右翼の論客の多くがイスラム教徒と同じ人種に見えてしまう。イスラム教徒とはもっとも神の裁きに縛られている人々であり、だから、他者を神の裁きで縛ってしまうことにもためらいがない。この国の今どきの右翼だって、国歌・国旗の問題をはじめとして、積極的に人の心を縛ろうとしている。

国を愛することは、国民の義務か?
今どきは左翼だって、国を愛することが美徳であるかのようなことをいう。
ほとんどの外国人は、国家や国旗を愛している。だから国を愛するのは人類普遍の心の動きだといいたいのだろうか。
でもそれは、日本列島には当てはまらないのだ。そこのところで外国人の真似をしろといわれても、うまくできない。
日本列島の民衆は、明治時代になるまでの長いあいだ、「国家」という意識を持たないで歴史を歩んできた。四方を海に囲まれた島国に置かれていれば、国境線を意識することもない。べつに国家や国旗が嫌いというわけではないが、日本人が自覚している「くに」は「国家」ではなく「ふるさと」なのだ。
グローバリズムとやらで世界が狭くなってきた現在となってはもう、日本列島のたんなる名称として「日本」を意識しても、「国家」という単位に対してはほとんど実感がない。
われわれは日本列島を意識しているだけで、「日本」という「国家」を意識しているのではない。
国家とは単なる幻想である、というのはよく語られていることだが、外国人はその幻想にたしかな実感と愛着があって、日本人は幻想そのものがあいまいなのだ。
日本人が日本の自慢をうまくできないのは、国家という単位に対する実感が希薄であるのと、自慢をするのははしたないことだという精神風土があるし、この世の中に対して「憂き世」という感慨がある。われわれもう、幾重にも愛国心を持てない条件を抱えている。
愛国心を持つなんて、ただの外国人の猿まねで、非国民のすることだ、ともいえる。
何しろ古代以来、国家制度とは無縁のところで、民衆自身によるインフラ整備や民事調停の習俗を維持してきた民族なのだ。つまり、国家などというものは権力者が勝手に運営しているものであって、民衆のあずかり知らないものだった。姥捨て山は、国家が命じた習俗ではないし、親殺しとして国家から裁かれたわけでもない。
日本列島には、外国のような「国家権力と民衆との契約関係」などというものは伝統的に存在しなかった。愛国心などというものは、そうした「契約関係」からしか生まれてこない。
まあ明治維新以降の歴史で愛国心を持つことを押し付けられてきたが、おそらくそれは実感をともなっていない愛国心で、「お国のために」といっても、民衆が「お国」とは何かということをちゃんとわかっていたかどうかはあやしいところがある。「天皇陛下万歳」といっても、「日本万歳」とはほとんどいわなかった。
そうして戦後は、愛国心を持つことが後ろめたいことであるかのような空気のまま現在に至っている。そんな日本人にいきなり愛国心を持てという方がどうかしている。

今どきの右翼の人たちは、左翼に対しては「反日」というレッテルを張って忌み嫌い見下している。同じ日本人に対して、どうしてそういう言い方をするのか。彼らだってみな日本人であることを自覚したうえで左翼的な発言しているだけだろう。「反日」なんじゃない、日本人であることを恥じているだけじゃないか。
そんなことをいうなら、日本人のくせに日本万歳の愛国心を振り回すなんて尻が軽すぎるんだよ、と反論したくなってしまう。恥じらいを失った日本人なんか醜いだけだ。われわれは、日本人であることを受け入れ日本列島に対する愛着はあっても、日本という国に対する愛着などない。国などというものはただの幻想だということくらい、当たり前すぎるくらい当たり前のことではないか。そんなものはよくわからない。妙な愛国心など持たないのが、日本人としてのたしなみであり、日本列島の伝統なのだ。
左翼であれ右翼であれ、どうして国家とか政治というものが信じられるのか。そうやって正義・正論を振り回しつつ正義・正論に踊らされている、その尻の軽さがよくわからない。
ほんらい、日本人にとっての生の根拠は、国家の存続にもたれかかってゆくことにはなかった。そんな愛国心なんかどうでもいい。日本人は日本列島を愛しているが、日本という国を愛しているのではない。国などというものはよくわからないから、愛しようも嫌いになりようもない。

この国には国や政治に対して無関心な層がたくさんいる。日本列島にはそういう歴史の無意識がはたらいているから、いつまでも憲法第九条が残ってしまう。それはけっして現実的ではないのだけれど、ただ「美しい文言だ」という、いささか感傷的な理由だけで残ってきた。
憲法第九条をここまで延命させたのは、左翼思想によってではない。国のことなんか知らないという、日本列島の住民の歴史の無意識の問題なのだ。その是非は、すでに何が正義・正論かというところから逸脱してしまっている。
憲法第九条が不合理で非現実的であることくらい大抵のものが知っている。それでもここまで維持されてきたのは、日本列島の住民の暦の無意識に「いつ死んでもかまわない」という勢いの感慨がはたらいているからであり、それによって日本的な文化を洗練発達させてきたのだ。つまり、日本列島の住民の基本的な生きる作法は、生き延びるための正義・正論よりも、「もう死んでもいい」という勢いで「今ここ」の世界の輝きに他愛なくときめいてゆくことの上に成り立っている、ということだ。
右翼も左翼もそういう政治的無関心を大衆の愚かさだというが、この国の伝統においては、正義・正論を振りかざすことが無関心であることよりも賢いことだともいえないのであり、そういう無関心はもっとも本格的な知性の持ち主のものたちのもとにもある。とうぜんだろう。なぜなら正義・正論に満足するとはそこで思考をやめているだけのことであり、本格的な知性とは正義・正論が成り立たない荒野に分け入ってゆくことだからだ。
「荒野」すなわち「混沌」、それこそがこの国の文化の伝統のコンセプトであり、生きられなさを生きようとする人間性の自然でもある。右翼や左翼がなんと叫ぼうと、この国の文化の洗練・発達を担保しているのは、人間なら誰の心の底にも疼いているに違いない、「いつ死んでもかまわない」という勢いとともに世界の輝きに他愛なくときめいてゆく感慨にある。それが、この国の伝統としての「無常」ということだ。
人類の歴史は、どんなに生き延びるための正義・正論で動かそうとしても、避けがたくそんなことはどうでもいいという、人間性の自然としてのもうひとつの流れがはたらいている。