きよきあかきこころ・神道と天皇(86)

左翼も右翼も好きじゃない。
えらそうに正義・正論を振りかざされても、世の中は彼らのいう通りになるとはかぎらないし、世の中を自分の思う通りにしようとする、その権力志向のさまが鬱陶しい。日本人はいつからそんな自意識過剰の民族になってしまったのか、と思うばかりだ。
よい世の中をつくるといっても、彼らのようなグロテスクな人間ばかりが集まっても、ろくな世の中になるはずがない。彼らと出会って、いったい誰が「この世の中は捨てたものじゃない」と思うのか。
よい世の中をつくることなんかできない。なぜならよい世の中をつくろうとすること自体が、自意識過剰のいやらしい人間のすることだからだ。
よい世の中をつくるのではない、よい世の中に「なる」だけだ。なぜならよい世の中は、すでによい世の中なのだから、誰もよい世の中をつくろうとなんかしていない。
よい世の中をつくろうとするものは、「今ここ」の世の中を受け入れることはできない。よい世の中になっても、よい世の中を受け入れることはできない。
よい世の中をつくろうとするのはひとつの支配欲であり、そういう人間ばかりの世の中がよい世の中であるはずがない。
よい世の中とは、よい世の中をつくろうとするものがいない世の中のことだ。
世の中は、よい世の中をつくろうとしてどんどん歪んでゆく。よい世の中をつくるためには邪魔なものは排除しなければならないという発想も生まれてくるし、よい世の中をつくるためというスローガンのもとで個人が抑圧されるという事態もめずらしくない。右傾化、というのはそういうことだろうか。移民・難民の排斥とか、この国でも関東大震災のときに在日朝鮮人を集団でリンチするという事件があった。また、お国のためには特攻隊で死ね、という命令が正当化されている時代があった。
はじめに世の中があって、そのために個人あるのか。
人は人に献身する存在であって、世の中に献身するということが先に立つと、ろくなことはない。よく知らないが、JICAとかNGOとか、貧しい国を助けるといっても、基本的には人に献身しようとする心意気でなされているのだろう。
帝国主義だろうと共産主義だろうと、国家主義はいずれ破綻するというのは歴史の教訓だ。そしてなぜ国家主義かといえば、自分を正当化するためのよりどころとして国家という枠組みが必要になる、ということ。それはもう、宗教者が神の裁きや教団という枠組みに潜り込んでゆくのと同じだ。
自意識の強いものたちは、潜り込んでゆくことができる枠組みを欲しがっている。ひきこもりが自分の部屋に閉じこもるように、国家や宗教という枠組みに潜り込んでゆく。国家の正当性(=アイデンティティ)が、自分の正当性(=アイデンティティ)になる。
ナショナリズムは自意識を棲み家としている。右翼だろうと左翼だろうと、つまるところは自意識過剰のナショナリストであり、それはまた精神を病んだ引きこもりとも宗教者とも何ら変わるところはない。みんな「自意識過剰」なのだ。

僕は、「分類する」ということは、あまり趣味ではない。なぜならそれは、そうやってひとまず納得し、思考停止しているだけだからだ。
たとえば古人類学では、こんなことをいっている。もともと人類は20以上の種に分かれていったが、最終的にはホモ・サピエンスだけ生き残った。だからホモ・サピエンスだけが人類種で、ネアンデルタール人をはじめとするほかの種は人類以外の種である……と。
何をバカなことをいっているのだろうと思う。
「20以上の種」といっても、オタクの学者たちが、目くそ鼻くその骨格の違いをあげつらって別の種だと勝手に分類しているだけで、そのていどの違いなど、男と女の骨格の違いよりもずっと些細なことなのだ。20だろうと30だろうと、みんな同じ人類だったに決まっているさ。同じ人類でも、環境や食いものの違いが骨格の違いになって現れただけだろう。ピグミー族とマサイ族だって同じホモ・サピエンスなのに、どうしてそんな目くそ鼻くその違いだけで別々の種にしてしまわないといけないのか。こだわるところが違うだろうという話だ。それは、環境や生態の違いであって、種の違いではない。
最新のゲノム遺伝子解析の結果によれば、現在のアフリカ以外のすべての人類にネアンデルタール人の遺伝子が数パーセント混じっているらしいのだが、これは、残りの90パーセント以上はネアンデルタール人の遺伝子ではないということを意味するのではない。あえて乱暴に言ってしまえば、もともと90パーセント以上はネアンデルタール人ホモ・サピエンスも同じだったということであり、つまり、現在のアフリカ以外の人類はみなネアンデルタール人そのままの末裔なのであり、状況証拠としてしてはそうでないとつじつまが合わないのだ。
現在のアフリカだけにはネアンデルタール人の遺伝子が混じっていない純粋なホモ・サピエンスがたくさんいるわけだが、そんな彼らが爆発的に人口を増やしながら世界中に散らばっていったのなら、彼らと同じ純粋ホモ・サピエンスも現在の世界中にいくらでもいるはずだろう。
アフリカ人ほど拡散しない生態の民族もいないわけで、だから、ピグミー族とマサイ族が同じアフリカのすぐそばで暮らしながら、まったく没交渉のままあんなにも大きな身体形質の違いになってしまったのだし、このことに照らし合わせるなら、数万年前のアフリカ人は何処にも拡散していっていない、と考えるしかない。彼らは、遺伝子配列がホモ・サピエンスとして完成すればするほど、ますます拡散しない生態になっていったのだ。そうして、その後の世界の文明の歴史からどんどん取り残されていった。
というわけで、原初の人類は20以上の種に分かれていったというのなら、現在の高身長のマサイ族と低身長のピグミー族が別の種であることをきちんと説明していただきたいものだ。

話は横道にそれたが、とにかく、むやみに政治のことに執着する右翼も左翼も引きこもりもご立派な宗教者も発達障害アスペルガー統合失調症も今どき流行りの迷惑老人も、「自意識過剰=自己愛」ということにおいてはみな同じなのだ。そしてたいていの場合、自分は人よりましな人間だとうぬぼれているし、うぬぼれるほどにはまわりの人から好かれても尊敬されてもいない。
今どきは、誰もがみずからの自己愛を正当化したがっているというか、見て見ぬふりをしたがっているというか、そのようにして自己愛が許される社会になっているから、自己愛の強いものほど社会の表面にしゃしゃり出てくる傾向があるし、自己愛(自己撞着)に閉じ込められて精神を病んだりするものも少なくない。
たとえば、ネトウヨと呼ばれている若者たちなんか、ただの精神を病んでいるだけの嫌われ者なのだろうが、マスコミの表舞台で活躍する右翼知識人だって増えてきているし、政治の世界でも陰に陽に大きな勢力をつくっている。
彼らは人からちやほやされたくてたまらない人種で、だからどんなに見え透いたお世辞でもだらしなく喜ぶし、同時にどんなささいな悪評や反論に対しても、必要以上に傷ついたり怒り狂ったり憎んだりする。まあ右翼でも左翼でも、自己撞着の強い人間は、共通してそういう傾向を持っている。宗教者だって、そうやって神に隷属しながらよろこんだり、他者に対しては、自分は神との関係のもとにあるというそのことに優越感を抱いて支配しにかかる。彼らの中には、傲慢な支配欲と、みずから進んで何ものかの奴隷になりたがる卑屈な欲望とが共存している。
誰もがそうした支配欲と奴隷根性を併せ持つことによって、共同体がもっとも過激に機能することができるのだろう。そのお手本がイスラム社会で、この国の右翼だって同じような精神構造を持っている。ただこの国の社会は、イスラム社会ほどにはそれを徹底させることができるだけの仕組みになっていない。
つまりこの国には、イスラム社会ほど強力な神の支配も救済もない。

天皇の処女性。
清明心……やまとことばで「きよきあかきこころ」というのだろうか。この国には神の裁きも救いもないが、そういうピュアな心に対する憧れというか信仰のようなものが歴史の無意識として深く息づいており、それが特攻隊の「大和魂=散華の精神」のよりどころになっていた。
この国にはイスラム社会のような「神の全能性」に対する信仰はないが、「かみ」の「きよきあかきこころ=処女性」に対する遠い憧れが歴史の無意識として社会を覆っている。
日本人は、誰もが「きよきあかきこころ」を持っている、というのではない、誰もが「きよきあかきこころ」に対する遠い憧れを抱いている、ということだ。
そして「きよきあかきこころ」の体現者=形代として「天皇」を祀り上げてきた。
日本人が「きよきあかきこころ」の持ち主だというのではない。誰の中にもそういう心に対する遠い憧れがあって、それが歴史の無意識としてこの社会を覆う「空気」になっている、というだけのこと。そしてその「遠い憧れ」は、日本人でなくても、宗教という覆いさえ取り除けば、世界中の誰の中にもある。それはおそらく、普遍的な人の心の属性なのだ。
まわりの国を警戒しなければならないというのは世界の常識であるが、他国に対してであれ他人に対してであれ、いっさいの警戒もなしに他愛なく無防備な心のままに生きられたらどんなにいいだろうという思いだって、誰の中にもあるだろう。まあ、そういう思いに引きずられて原始人は世界の隅々まで拡散していったともいえる。
警戒するのが正義・正論に決まっているが、それでも人の心の底には他愛なく無防備な心のままに生きたいという思いが、やみがたく息づいている。
正義・正論を振りかざせばえらいというわけではないし、正義・正論の通りに歴史が動いてゆくわけでもない。
正義・正論という神の裁き。神の裁きに従えば正義・正論で生きられる。しかし、正義・正論の通りに生きたいと願うのが人の心の本質であるのではない。人の心は、そんなものよりもっと高貴な「きよきあかきこころ」に対する遠い憧れがある。
だから、右翼であれ左翼であれ、彼らがどれほど正義・正論を振りかざそうと、彼らがうぬぼれるほどには、彼らが人から好かれることも尊敬されることもない。
この生やこの社会が存続するための正義・正論をどんなに振りかざそうと、人は、「もう死んでもいい」という勢いで「今ここ」のこの世界や他者にときめき感動してゆく心の動きを持っている。ときめき感動してゆく心を肯定するなら、この生やこの社会の存続のための正義・正論をまるごと肯定することはできない。どれほど肯定しても、それでも人の心の底には「いつ死んでもかまわない」という感慨が息づいているし、その感慨とともに人類の知能や文化は進化発展してきたのだ。
正義・正論をいい気になって振りかざしてばかりいるなんて、人間としてブサイクだ。
この社会の存続のためにというコンセプトで憲法第九条のことをどうのこうのといっても、人の心の底には「いつ死んでもかまわない」という感慨が疼いているのであり、この社会この国どころか、人類滅亡というそのこと自体を、じつは誰もが心の底では不幸なことだとは思っていない。しょうがないではないか。人類の知能や文化はその「覚悟」とともに進化発展してきたのだし、その「覚悟」なしには、知性も感性も人から好かれる人間的な魅力も育たない。
三島由紀夫は「武士道とは<きよきあかきこころ>である」というようなことをいつもいっていたし、自分がその心の持ち主のつもりでもいた。まったく、その心根のなんとブサイクなことか。そんな自意識過剰が武士道であるのなら、武士道なんかドブに捨ててしまってもかまわない。
生きているのは汚れてゆくことであり、誰も「きよきあかきこころ」なんか持つことはできない。でも「きよきあかきあかきこころ」に対する遠い憧れなしに生きることもまたできない。そして、「汚れている」という自覚のないものにその「遠い憧れ」を持つことはできないし、その自覚は誰の中にもある。