他愛なさの集団性・神道と天皇(76)

近ごろは、靖国神社が、少女たちのコスプレファッションの聖地のひとつになっているらしい。
まあその前からそこは「パワースポット」として有名になっており、戦死者の「英霊=霊魂」が濃密に漂っているという噂がすでに定着している。
コスプレとは非日常の世界に超出してゆくファッションであり、「英霊=霊魂」を感じることによって、いっそう浮世離れした心地が湧いてくる。
彼女らが靖国神社に引き寄せられてゆく気持ちは、なんとなくわからなくもない。
そこに「英霊=霊魂」がいるはずもないが、ひとまず「ここに霊魂がいることにしよう」と思えば、やがてはほんとにいるかのような思いになってゆく。それが、人の心だ。
「いないということにしよう」と思えば信じ込まずに済むのだが、キリスト教社会やイスラム社会のように、社会制度がそうさせてくれない場合がある。この国でも近ごろは右翼の勢力が強くなって、ふだんは霊魂なんか信じていなくても、靖国神社に行くと「英霊がいることにしよう」と思わせられてしまうような空気が世の中に醸成されている。
「英霊がいることにしよう」と強く思い込んでいるものが、英霊がいると信じ込んでいる。
日本人は、ふだんは霊魂なんか信じていないからこそ、それが存在するかのように感じてゆく体験の新鮮さというのもあるのだろうか。

人類の歴史は、神や霊魂に気づいたのではない。神や霊魂がいることにしたから、しだいに「いる」と信じ込むようになっていったのだ。はじめに神や霊魂が存在することにしたがる社会の構造があった。そういう社会の構造がなければ、神や霊魂という概念が生まれてくるはずがない。
日本列島の古代以前は、そういう概念が生まれてくるような構造になっていなかった。縄文時代などは、大きな都市集落も、戦争というトラブルもなかった。弥生時代だって、多少のトラブルは生まれてきたとしても、縄文時代の延長の人々の「寄り合い」で収拾し、「神の裁き」など必要なかった。
基本的に、日本列島は「神の裁き」がはたらいていない精神風土の歴史を歩んできた。それはもう今でもそうだし、それによって高度な「混沌」の文化が育ってきた。
ただ、宗教など知らなくても人は「非日常=異次元の世界に超出してゆく」という心の動きを持っているのであり、その心の動きと神や霊魂という概念が結び付けば、かんたんに神や霊魂が存在すると信じ込んでゆくことができる。
コスプレファッションの少女たちは、ひといちばいダイナミックな「非日常の世界に超出してゆく」心の動きを持っている。彼女らは、「非日常の世界に超出してゆく」体験をより深いものにするための契機として、「靖国神社の英霊」を信じ込んでいる。彼女らにとっていちばん大切なのは、あくまで「コスプレファッションの非日常性」にある。コスプレファッションで靖国神社を歩くと、いつにも増して非日常的な気分になれる。
一般の参拝客だって「英霊を祀る」という「儀式・形式」に対する思い入れがあるだけで、じつはそれほど深く「英霊」の存在を感じているわけではない。ほんとうの墓は、故郷にちゃんとある。
日本人にとって神や霊魂の存在は。「儀式」を飾るものとしての思い入れがあるだけで、本気で信じ込んでいるわけではない。もともと人と人の関係のトラブルの少ない土地柄だし、それを「神の裁き」にたよるという歴史も持っていない。神や霊魂を本気で信じてゆくような社会の構造になっていない。
日本列島は、人類が宗教の呪縛から解き放たれるための最後のよりどころとなっている。
「日本は神の国だ」などといってもそういう言葉で生活を飾っているだけで、ほんとは神のことなどよくわかっていない。「神は隠れている」のであり、だからどんな解釈もありだし、どんな解釈も実感をともなっていない。
日本列島においては、神は関係を結ぶことができない対象なのだ。

日本人は、信仰心というものを血肉化していないからこそ、かんたんに洗脳されてしまう。そうやってさまざまなカルト宗教にしてやられることになるわけだが、オウム真理教がはびこりだしたころ、吉本隆明中沢新一や島田裕己等、多くの知識人がそれを本格的な宗教だと持ち上げていた。そうしてそのあとオウムによる一連の犯罪が表面化しても、彼らは、自分が何を見誤っていたかということを説明できなかった。
まあ本格的であってもなくてもどちらでもいいのだが、宗教であることそれ自体がいかがわしいのだということを、この三人のインテリはなんにもわかっていない。
カルトだろうと世界宗教だろうと麻原彰晃だろうとキリストだろうとたいして違いはないわけで、人はなぜ宗教に洗脳されてしまうのだろうという問いが、彼らにはなかった。
宗教は人類の宝物ではなく、思い入れが強くてなかなか捨てることのできないやっかいなゴミみたいなものなのだ。
まあ日本人は宗教がいかにやっかいなものであるかということを骨身にしみてわかっていないから、子供がおもちゃをいじくるようにして宗教を語りたがるインテリが後を絶たないことになる。
つまり、あれらの高名なインテリだろうと、コスプレファッションで靖国神社に出かけてゆく今どきのギャルだろうと、根は同じなのだ。日本人は宗教のやっかいさを骨身にしみてわかっていないから、かんたんに宗教に洗脳されてしまう。
コスプレのギャルたちだって、なかば本気で靖国神社には英霊が棲み着いていると信じているというか感じている。
日本列島は神の国だといい、誰もがそれを本気で信じているとしても、それでもこの国は宗教を血肉化する歴史を歩んでこなかった。日本人にとって宗教は、ただの子供のおもちゃであり、それを血肉化できるような社会の構造になっていない。それはもう、縄文時代から現在まで、ずっとそうなのだ。
宗教を血肉化していないから、混沌を混沌のまま集団をいとなんでゆくことができる。宗教をおもちゃにすることができる。

まあ、生きることなんか、おもちゃ遊びでいいのだ。それが人間性の基礎であり、究極の理想でもある。どうせみんなすぐ死んでゆくということは、ただのニヒリズムではなく、とても深く重い認識なのだ。
人生の意義とか意味をもったいぶって語るほうが、よほどおちゃらけているし、ずっとふてくされたニヒリズムだと思える。よほど暇を持て余しているのだろうか。よくそんなことに悩んでいられる余裕があるものだ、と思う。みんなそれどころじゃないところで生きているというのに、勝手に悩んで悦に入っている。
他愛ない人間のほうが、ずっと深く切実に考えたり感じたりしている。
世界の輝きにときめいていたら、自分のことに悩んでいる暇なんかないではないか。
自分の人生を、意味とか意義とか価値という物差しによってひとつの「秩序」として構築してゆく思考が、そんなに偉いのか、そんなに大切か。人は、世界の輝きに対するときめきを失って暇を持て余したときに、そんな悩みに浸され抜け出せなくなってゆく。
「他愛なくときめく」というところから学ぶことができなくなったらおしまいだし、じつは誰だって心の底ではそこから学びながら生きている。ことに日本列島の文化はそのことを基礎にして育ってきたのであり、外国人観光客は日本人のその他愛なさに驚きときめいている。これじゃあ憲法第九条を残してしまうのも無理はないなあ、と苦笑いしていたりする。
悩みの解決策なんかない。ただ、他愛なくときめいてゆくことによってそこから解放されるというだけかもしれない。それは、解決策よりももっと本質的で有効な解決だともいえる。他愛ないときめきを持っていないからぐずぐず悩まねばならないし、そうやって精神を病んでゆくことも多い。
他愛ないときめきとともに生きることはけっして安全で有利な生き方とはいえないわけで、すなわちそれは混沌を混沌のままに生きるということだ。しかしまあ、それによる醍醐味も成果もないわけではない。だから日本人は、そうやって生きることができる集団性の文化をはぐくみながら歴史を歩んできた。「おたがいさま」ということ、そういう集団性がなければ、誰もがそのようにして生きることはできない。
そして、この世でもっとも混沌を生きているのは処女(思春期の少女)であり、起源としての天皇が処女(思春期の少女)であるところの「巫女」だったということは、なによりも深く切実に人間性の本質に根差したことなのだ。

現在の少女たちのコスプレやロリータのファッションだって、混沌を混沌のままに生きて非日常の世界に超出してゆくということにおいて、能のコンセプトと同じなのだ。それは、日常の自分が「消えてゆく」という自己表現であり、彼女らの心はすでに「他界」にある。今どきの大人たちのように日常の自分にしがみついていたら、誰があんなにも素っ頓狂な恰好ができるものか。彼女らの非日常の世界に対する超出願望がいかに切実なものであるかということ、それがいかにこの国の伝統に根差した美意識かということを、今どきの大人たちは何もわかっていない。それは、大人たちの社会の「生活者の思想」に対するひとつの反逆なのだ。
美は、「他界」にある。
少女たちだって、「処女幻想」を遠い憧れとして抱いている。それはもう、人類普遍の幻想なのだ。
起源としての天皇が支配者だったとか呪術師だったとか、まったくばかげている。ものごとを表層的にしかとらえることができないから、そういう認識になる。
神武天皇が支配者として二千数百年前の奈良盆地に登場してきたとか、共同体の起源神話としては世界中どこでもそういう物語をつくり出すわけだが、じっさいに大和朝廷の共同体が本格化してきたの千五百年前からだし、それ以前の原始的な集団がだんだん共同体のかたちになってゆくという過程を考えねばならない。それはもう想像するしかないことだが、そのための手掛かりとなる考古学の証拠がまったくないというわけでもない。
たとえば纏向遺跡が王朝跡だなんて、そんなことがあるものか。邪馬台国がどうとかこうとか、ほんとにくだらない。何が古代のロマンか。そのころの日本列島に国家共同体など存在しなかったのだ。
大和朝廷は、いきなり現れたのではない。原始的な集団がだんだんそうなってゆく歴史のなりゆきというものがあったのだ。
世の歴史家は、人類史において国家共同体がどのように形成されていったのかということを考えたり想像したりすることに対して、とても怠惰で乱暴だ。それは、日本列島の住民の特異な集団性を考える上でとても大切なことだというのに。
海に囲まれたこの島国の住民は、どのようにして原始的な集団を国家共同体へと発展させていったか……そのことを考える手続きを省いていきなり王朝の話を持ち出されても、ちょっと待ってくれよ、といいたくなってしまう。
宗教の話も国家共同体の政治の話も、仏教伝来以前の段階に当てはめることはできないし、現在でもこの国の文化や集団性は、原始的な性格を色濃く残している。