よくわからない・神道と天皇(77)

日本列島は世界的に見ても観光資源が豊富だが、そのわりに外国人観光客の数は多くない。それは、彼らを受け入れる環境が整っていないということがあるらしい。旅館やホテルにしても、おもに国内の観光客(団体客)ばかりを相手にしてきて、物心両面で外国からの少人数の客をもてなすことができるかたちになっていないのだとか。
日本人はとても旅が好きな民族で、それなりに豊富な観光資源を守り育ててきたわけだが、もともと島国だから国内だけで完結してしまっていたという歴史がある。
しかし今やもう、たとえヨーロッパからでも国内旅行とそう変わりない時間や料金で来ることができるようになってきている。
われわれはまだ外国人観光客のもてなし方(ホスピタリティ)をよく知らないし、知らないままそれが洗練発達していると感心されたりもしている。
たとえば日本の商店のサービスは素晴らしいといっても、家電や洋服の売り場の店員が「何をお探しですか」とべたべた寄ってくるのは、日本人どうしだって辟易するところがある。
近ごろのマスコミやネット社会では安直な「日本礼賛」の情報がむやみにあふれており、それはまあ、右傾化という社会の動きと連動している現象なのだろうか。
といっても、国家神道に毒された今どきの右翼がほんとうに深く「日本とは何か」ということをわかっているかといえば、そうともいえないことのほうがずっと多い。
まあ、安直な日本礼賛や安直な天皇礼賛のほうが多くの支持を得ることができるから、インテリたちもそれ以上深く分け入って考えることをしなくなってゆく。彼らは自分の思考や知性の存在理由というか価値を、民衆を洗脳できてナンボだと思っているし、日本人全体がかんたんに洗脳されてしまう民族でもある。その共犯関係で、歴史の真実がどんどん置き去りにされてゆく。
われわれ民衆は、世の右翼に洗脳されつつ、彼らを超えてゆく。仏教に洗脳されつつ神道を生み出していったように、漢字を受け入れつつ平仮名を生み出していったように、受け入れ洗脳されつつそれを超えてゆく。
近ごろの戦後左翼の退潮は、戦後に受け入れた欧米の近代合理主義がこの国で変質しつつあることを意味するのかもしれない。しかし、かといって正義正論を声高に振りかざす右翼たちのそのブサイクな顔つきにも、われわれ民衆はいささかしらけてしまっている。
そこで両者の中間のような「新保守主義」なる言葉が出回ったりしてきているのだが、日本人の混沌とした心は移ろい変わってゆくのであり、「守るべきもの」などといわれてもピンとこない。何かを守ろうとする自我の薄い民族なのだ。
日本人の自我は、あいまいで混沌としている。

インテリだろうと庶民だろうと、頭の悪い人間ほど知ったかぶりをしたがる、と誰かがいっていた。そうだと思う。
彼らには「何だろう?」という問いがない。
世の中には、「知っていること」で生きている人と、「問い」を生きている人がいる。そして人類は、「問い」を生きることによって知能を発達させてきた。
すでに知っていることに興味なんか湧くはずがない。
人は、知らないことに興味がある。だから、旅をする。
右翼であれ左翼であれ、わかったような顔ばかりして「日本人とは何か?」という問いを持たない人間たちのいうことなんか、ほとんど信じられない。そんな日本礼賛ばかりしている右翼や、これだから日本人はだめなのだとわかったようなことばかりいっている左翼よりも、外国人による先入観のない視点から教えられることのほうが多い。
日本人は、「日本人とは何か?」と問い続けているのであり、そういう「混沌」を生きているのだ。だから、日本という国や日本人のいいところを外国人に教えてやるなんてことはできない。そんなことは外国人が勝手に感じたり知ったりすることで、われわれは避けがたく日本人であるほかないが、日本人のいいところがどこにあるかということなんかよくわからない。よくわからないから、誰もがどこかしらに、そういうことをひけらかすことに対するはにかみやつつしみがある。それはまあ、単純に「謙虚」というのとは、ちょっと違う。ほんとうに「よくわからない」のだ。
よくわかっているつもりの日本人こそどうかしている。「よくわからない」という、その「他愛なさ=混沌」にこそ、日本人の日本人たるゆえんがある。よくわかっているつもりの右翼の人たちだって、いざ外国人の前で日本人のいいところを述べよといわれたら、たちまち口ごもってしまうしかないのだ。
まあ、外国人観光客の誘致は結構なことだとしても、安直な日本礼賛だけはやめておいた方が賢明かもしれない。自画自賛は日本列島の伝統ではないし、そんなことばかりしていると人に嫌われる。
外国人観光客を「受け入れる」ことと「誘致する」こととはちょっと違う。主体的能動的な「誘致する」ということには、あまり自覚的にならないほうがいいのかもしれない。それは日本人の柄ではないし、あまり小賢しいことをすると墓穴を掘る。
日本的なサービスは、基本的には自分を捨てて相手に献身してゆくことにあり、自分を見せびらかすことではない。日本人の「自分」は、あいまいで混沌としている。だから「来るものは拒まず」ということはあっても、「誘致する」という動機=自意識はない。
日本人がどんな民族かということは、よくわからない。「よくわからない」と自覚することが「わかる」ことなのだ。そのあいまいで混沌としていることそれ自体に、日本人が日本人であることの根拠がある。