他愛なさの集団性・神道と天皇(78)

人は先験的に「関係」の中に置かれている存在であり、人の「集団性」という問題は、いろんなことを考えさせられる。
日本人は集団主義個人主義かというような問題設定なんてナンセンスだ。人間なら誰だって集団性と個人性の両方のメンタリティを持っているわけで、どのような集団性か、どのような個人性か、というところを問わなければ意味がない。そしてそれはもう、人によっても国によっても違う。と同時に、人類が普遍的に共有している集団性や個人性というのもあるにちがいない。
それぞれの国民性のことを指して、「民度」が高いとか低いというような言われ方をするのだが、日本人の集団性は、とても洗練していると同時に、とても原始的でもある。とすればそれは、民度が高いことになるのか低いのか、よくわからない。
原始的・本能的な集団性や個人性は人類が普遍的に共有しているものであり、観念的なレベルになってくると、人によっても国によっても違ってくる。
政治経済の意識が高くて駆け引きが上手な民族は、民度が高いのか?この点においてなら、大陸諸国に比べて日本列島は子供みたいなものだろう。何しろ憲法第九条などというきわめて非現実的で幼稚な約束事を、いまだにぐずぐずと捨てきれないでいる国民なのだ。
憲法第九条が非現実的で幼稚な約束事だということなんか、わかりきったことだ。それでもなぜ戦後70年間維持されてきたのか……アメリカに守られながら経済発展に専念してきたからか。それだけでは、半分の説明にしかならない。
もともと国家に対する意識や生き延びようとする欲望が希薄な民族だからだということもある。その「民度の低さ」が、憲法改正の足を引っ張っている。
とはいえ、世界でも群を抜いて治安がよくて清潔な社会をつくっているのは「民度が高い」からだともいえる。
人と人が親しみ合うといっても、そういう関係性は家族単位や部族単位などで、世界中どこにでもある。しかしこの国では、そういう単位の結束から離れたところで、親しみ合う関係性がはたらいている。だから、たとえば商店でお客に対して「いらっしゃいませ」とか「ありがとうございました」といって敬意を払うことができる。集団の単位で結束してゆく関係性は文明社会の制度とともに生まれてきたが、この国には、それ以前のとてもプリミティブな親しみ合う関係性がはたらいており、それが社会の治安のよさ等になっている。であればそれは、民度の高さか、それとも低さか。

日本列島の集団性は、基本的に原始的で混沌としている。共同体的な「結束」という色合いが薄い。
ただもう他愛なく親しみ合っているだけだともいえる。
猿とでも親しみ合えるのが日本列島の集団性だ。長野県では猿と人間が一緒に山の温泉に入っていて、それが観光の目玉になっていたりする。
鹿はもともととても警戒心の強い動物らしいが、奈良公園ではたくさんの鹿が平気で観光客に寄って来て鹿煎餅のおねだりをする。嘘か本当か知らないが、こんなことは世界中でも奈良公園だけだという。しかも、ただの餌付けというのとはちょっと違って、鹿はその煎餅で命を長らえているというのではない。公園中にたくさんたむろしているが、観光客におねだりしてこない鹿もたくさんいる。彼らの主食はあくまで自然の木の実や草で、屋台の売店に置かれた煎餅を襲撃してくることはなく、それを買ったお客にだけ寄ってくる。煎餅をもらえなくても彼らが死ぬということはないし、お客と戯れたがっているだけのようにも見える。そうして最近は、煎餅をもらう前にお辞儀をするという芸もする。
奈良公園には、人と鹿が親しみ合うことができる気配が漂っている。おそらくそれは1000年かけてそこで育てられてきた関係であり、日本人にはそういう無防備で原始的な集団性がそなわっているらしい。
なんとまあ他愛ない集団性であることか。われわれは、日本人の集団性の伝統および本質について、もう一度認識しなおしたほうがいいのではないだろうか。
まさかそこで人と鹿が「団結・結束」しているという人はいないだろう。結束は、同質性の上に成り立っている。そうしてそのかたちを維持するために、本性的に外部を排除しようとする衝動がはたらく。まあそれが戦争をしたがる文明制度の本質であり、そのためのよりどころとして宗教すなわち共通の規範としての神が見い出されていった。
日本人は単一民族であり、その同質性を守って歴史を歩んできた、などというのは今どきの凡庸な右翼の決まり文句であり、まあそれが戦時中のスローガンにもなっていたとしても、日本列島の集団性の本質は、じつはけっしてそのようなかたちで成り立っているのではない。同質性で結束していないから鹿や猿とだって親しみ合えるし、治安が良いとか清潔だとか大震災に遭っても暴動や略奪をおこさないというような高度な集団性の社会を実現することができる。
右翼の多くは。日本人は戦争に負けたことによって日本人としての伝統=本質を失ったとさかんに吹聴しているが、むしろそれによって伝統=本質がよみがえったというべきかもしれない。
戦争に負けたことによって、共同体の制度性としての「同質性の秩序」という呪縛から解き放たれ、日本人ほんらいの「混沌を混沌のまま収拾してゆく」という集団性の文化がよみがえってきた。
まあそれによって戦後の混乱期を乗り切ったのであり、そういう集団性のダイナミズムと洗練を持っていたからアジアでいち早く復興を果たし、さらには高度経済成長へと突き進んでいったのだろう。
伝統がよみがえったから京都や奈良の観光がさらに活性化してきたのであって、見失ったのなら、京都や奈良だって見捨てられていったことだろう。京都や奈良だけでなく「ディスカバー・ジャパン」などというかけことばとともに「小京都」という言葉が流行ったりもした。
べつに戦争の時代を否定するつもりもないし、すべては宿命的な歴史のなりゆきであり、戦後だって、日本人は日本人だったのだ。
今どきの凡庸が説くステレオタイプな「日本の伝統」とか「美しい日本」という合言葉には、ほんとにうんざりさせられる。

他愛なく親しみ合うということ、それが人類の集団性の基礎であり究極のかたちであるのではないだろうか。そしてそれは、宗教が機能していないところで実現される。言い換えれば、宗教がその実現を阻んでいる。
日本列島には、世界の未開の地域よりももっと原始的な集団性が残っている。日本列島の歴史は、原始性を原始性のまま洗練発達させてきた。
原始時代とは、宗教も共同体の制度もなかった時代のことをいう。
それはつまり、日本人には信仰のアイデンティティも国民としてのアイデンティティもきわめて希薄である、ということを意味する。それでいて、日本人以外の何ものにもなれないのが日本人なのだ。
日本人が日本人であるゆえんは、信仰や信念のような「観念」にあるのではなく、「無意識」にある。
縄文人は、原始時代よりもはるかに洗練発達した文化を持っていたが、宗教とも共同体の制度とも無縁だった。そしてその他愛なさこそが、現在に至るまで、日本人が日本人であることの基礎的な意識のかたちになってきた。
大陸では、この国の縄文時代である4〜5千年前からすでに宗教や政治等の文明制度に目覚めていた。それはまあ戦争や階級制度に目覚めてゆくということだが、日本列島でそうなってきたのは、1500年前ころの大和朝廷の成立とともに仏教が伝来してきてからのことにすぎない。
民衆社会の階級制度が発達して国家の階級制度になっていったのではない。国家の階級制度が民衆社会にも敷衍されていったのだ。
先史時代の民衆社会は階級制度を持っていなかった。だから無際限に膨らんでゆくことができたのであり、これ以上ふくらんだら収拾がつかなるという段階になって、はじめて国家制度=階級制度が生まれてきた。そうして国家は、どんなに人口がふくらんでも、「国家」以上の単位になることも、国家としての階級制度が変更されることもなかった。
縄文時代弥生時代の「村」に階級制度があったのなら、村以上の単位の集団になってゆく動きは起きてこなかった。村の階級は、国家の階級制度をなぞるようにして生まれてきたのであって、最初からあったのではない。その階級は、国家の階級制度を補強するかたちで生まれてきた。

奈良盆地で階級が生まれてくるような余剰の食料を生産できるようになったのは、おそらく古墳時代になってからのことだ。
まあ人間なんか何を食っても生きられるわけで、余剰の食料があるにもかかわらず人々にそういう耐乏生活を強いるような国家権力によって、はじめて階層が生まれてくる。
根源的には、人はどんな不幸にも耐えることができる。それは、それほどに他愛ない存在であるということだ。しっかり考えて悩みを克服するとか、そんな小賢しい屁理屈がそれを可能にするのではない。人間的な深く豊かな思索は、「悩み」などというところにあるのではない。他愛なさのもとでこそ、自由に知性や感性が羽ばたくことができる。
ともあれ、原始的な誰もがかつかつの生活をしている時代に階級なんか生まれてくるはずがないではないか。
誰もが少しずつ余裕のある暮らしができるようになってくると、その余裕の部分を搾取するようにして権力が生まれてくる。それはもう現在でも同じで、社会が豊かになってくれば、必然的に階層・階級が生まれてくる。
終戦直後よりも現在のほうがずっと階層化が進んでいる。
みんなが豊かになる社会など生まれてくるはずがない。なぜなら人間はかつかつの暮らしでも生きられる生きものであり、余剰の部分を搾取しようとする権力は必ず生まれてくるし、人間は搾取されても耐えることができるようになっている。
そしてここでいう「権力」は、税金を搾り取る国家や労働者の上に立つ資本家だけでなく、商品を売りつけることだってひとつの搾取に違いない。
人が生きるということの基礎的なかたちは、生きるか死ぬかのかつかつのところにあり、貧乏人だって金を巻き上げられるようにできている。いや、べつに巻き上げるから悪いというのではなく、人間の本性は生きる死ぬかのかつかつの暮らしを否定していないのだし、そこにこそもっとも本質的な人の暮らしがあるともいえる。
まあ、貧乏であろうとあるまいと、人は生きるか死ぬかのぎりぎりのところに立とうとするのであり、「もう死んでもいい」という勢いで何かに熱中してしまう生きものなのだ。
人間性の根源・究極において、人は、どんな不幸にも耐えることができる。そういう存在の仕方をしているから、原始人はどんな住みにくさも厭わず地球の隅々まで住み着いていったのだし、国家文明という膨らみすぎた集団の中で他者を支配し搾取する「権力」が生まれてきたのだろう。
かなしいことに人は、生きるか死ぬかのせっぱつまったところまで支配され搾取されても、それでもそれに耐えることができる。そうやって人類史に国家文明が生まれてきた。
今どきの歴史家は、国家文明が生まれてきたことを何か人間的な文化の進化発展であるかのように考えているが、じつは、それによって文化の停滞が起きてきたともいえるのではないだろうか。

人類史における国家文明発祥の地である現在のエジプト・メソポタミア・インド・中国の地域は、現在の世界の「文化」をリードしているといえるだろうか。どうしてあのあたりばかりで紛争が起きるのか。
むやみに扮装ばかり起こしているのは、人間としての「集団性」の文化が停滞しているからだろうし、ユダヤの知能が発達しているからといって、彼らが人類をリードするような「集団性」の文化を持っているともいえない。現在のイスラエルや世界中に散らばるユダヤの知識人や富豪や政治家は、世界でもっとも進んだ「集団性」の文化をそなえているか。
人類史における国家文明の発生は、そこでいったん「人間的な集団性の文化」の進化発展が止まった、ということを意味するのではないだろうか。それはまあ、「混沌を混沌のままに生きる」という人類700万年の集団性のダイナミズムの文化が、「秩序の中に閉じ込めてしまう」というかたちに変質し停滞していったことを意味する。
国家文明の発生によって、権力支配による「秩序」の中に閉じ込められて生きるか死ぬかのせっぱつまったところで生きる階層が生まれてきた。
3〜4千年前のアッシリア王朝だろう殷王朝だろうと、強大な権力による残虐支配と戦争ばかりに終始していた。それが人間集団の究極の「秩序」のかたちであり、権力者はもう、好き勝手に集団を動かしていた。いつの時代も権力志向のものたちは、自分の思うように社会を動かしたいのだ。今どきのインテリが「未来の社会はかくあらねばならない」というのと、古代アッシリア専制君主の「権力志向」や「秩序志向」と、いったいどれほどの違いがあるというのか。文明の発生段階からすでにそのような政治経済の極北状態が展開されていたというのはひとつの驚きであり、人類はそこから一歩も進んでいないし、そこに向かおうとしているのだろうか。

人間はどんな不幸にも耐えることができる存在であり、そういう人間性の与件に乗っかって権力支配が生まれてきたのであり、現在の知識人たちによる声高なアジテーションだってひとつの権力支配以外の何ものでもない。
この社会に「秩序」の構造は必要か?
この社会に正しい裁きは必要か?
そんなことが必要だといっているかぎり、「神」も「権力支配」もなくならない。
と同時に、人間性の自然としての、不幸という「混沌」を生きようとする無意識の衝動がなくなることもない。なぜならそこでこそこの生は活性化するのであり、そこにこそ人間的な「快楽」のかたちがあるからだ。
むずかしいことじゃない。わからないことを「何だろう?」ということ自体が、ひとつの「不幸という混沌」を生きようとする態度にほかならない。
混沌を混沌のまま生きようとする集団性の文化は日本列島においてことに顕著だが、それは、世界中の人間の無意識が共有している集団性の文化でもある。
渋谷駅前のスクランブル交差点は今や世界でいちばん有名な場所のひとつらしいが、そこでは、あれだけの群衆が誰も人とぶつかることなく、そしてどの車もクラクションを鳴らすことなく流れてゆく。それをここでは「混沌を混沌のままに生きる集団性の文化」というわけだが、日本人にとってはあたりまえのことでも、外国人からしたらそれですんでいることがとても不思議であるらしい。
で、こんな集団性がもしも天皇制の上に成り立っているとしたら、われわれはその是非をなんと判断すればいいのだろう。
まあ、現在の天皇は「初音ミク」だ、といっても僕はかまわないと思う。日本列島では、「処女性=他界性」が祀り上げられてゆく。たとえ天皇がいなくなっても、日本人は、これからも天皇のような存在を祀り上げて歴史を歩んでゆくのだろうな、と思わないでもない。そして人間なんか、世界中どこでもそんなようなものだ、とも思う。