神という言葉をもてあそぶ・神道と天皇(79)

僕は、ひとつのことを一直線に掘り進んでゆくということがどうも苦手らしい。
どうしても考えることの筋道が右往左往してしまう。
まあ、日本人だから仕方ないということもあるのだろうか。
ほんとうは、原初の天皇は舞の名手としての巫女(=思春期の少女)だった、ということを探索したいわけで、そのためには日本文化の基礎としての処女性とか非宗教性とか非政治性とかをちゃんと確認しておきたい。しかもそれは現在の日本史の常識とか通説を疑うことでもあり、何をいっても聞き届けてもらえないのではないかという不安ともどかしさが付いてまわる。
ともあれ、ここでは基本的に、天皇を肯定する立場も否定する立場もとっていない。天皇とは何かと問うているだけであり、それは日本人とは日本文化とは何かと問うことでもある。
僕のような団塊世代が右翼になることはとても難しい。かといって戦後左翼の思想も、年々くだらないという思いが募ってくる。消し難い右翼に対する拒否反応と左翼への幻滅とのあいだを揺れ動きながらこのレポートを書いている。
いや、右翼思想に対する拒否反応があるといっても、べつに戦時中を生きたわけでもないから、直接的な恨みなんかない。しかしたとえば最近の森友学園問題のように欲の皮の突っ張った俗物根性丸出しの姿を見せられると、右翼なんてあんな人間ばかりかと誰だってげんなりしてしまう。「美しい日本」などといわれても、どうしようもなく薄っぺらでステレオタイプな内容だし、ちょっと考えればあの程度で満足していられるはずがない。
また、右翼であれ左翼であれ東大出のインテリだといわれても、悪いけど僕は「こうするべきだ」という「正論」の御託宣なんか興味がない。この国の現在や歴史がどうなっているかということが知りたいだけだ。

「神国日本」などという。この言葉は戦時中に大いに流行ったし、今でも好きな右翼が少なからずいるらしい。
本居宣長が「古代人は心底から神を信じていた」といい、それがきっかけで明治以降には神を信じることが日本列島の正しい伝統だというような風潮になっていったらしいのだが、彼は「よのつねならずすぐれたることのありて、かしこきものをかみというなり」といっているだけで、べつに「かみ」が存在するとはいっていない。この世界の森羅万象にあらわれる世の常ならず畏(かしこ)きもの、すなわち「超越的な気配(姿)」が「かみ」である、といっているだけだ。
つまり彼は、人の心には「超越的な世界」に対する「遠い憧れ」があるといっているわけで、青い空を見上げてその向こうの世界に想いを馳せれば、誰だってそんな感慨に浸されるだろう。それだけのことで、「超越的な現象」を生み出す「超越的な存在」を信じていたとまではいっていない。古代人にしても、そこのところはまあ「ひとまずそういうことにしておこう」と考え、その前提に立って「古事記」という物語を紡いでいった。
古代人は「超越的な世界」に対する「遠い憧れ」を生きていたのであって、「ゴッド=創造神」としての「超越的な存在」を信じていたのではない。
「創造神=超越神」の存在など問わないのが、日本人としてのというか人間としてのたしなみなのだ。古代ギリシャ人だって、ひとまず神が存在するという前提に立って想像の翼を広げてゆくという遊びをしていた。神が存在するかどうかというような野暮なことを聞かれても困る。なんだって神だし、なにも神ではない。
神が存在しようとするまいと、人は避けがたく「超越的な世界」に対する「遠い憧れ」を抱いている。それはもう、原初の森で人類が二本の足で立ち上がり、木々の頂の向こうの青い空を見上げたとき以来の伝統なのだ。
そのとき人類は、動物の基本的な生態としての「水平方向の視線」から離れて「垂直方向の視線」を獲得した。つまり、周囲に対する警戒心を忘れ、無防備な「遠い憧れ」に浸されていったということだ。
まあ、「無防備な心」なしに四本足の猿が二本の足で立ち続けるということなんかできるはずがない。
すなわちそのとき、「神にすがった」のではない。神にすがることの不可能性とともに神のことを想っていった、ということ。神の存在を問わないまま神のことを想っていった。そしてそれは日本列島の古代人の心でもあり、本居宣長は、そういう人間としての根源的な心理機制というか人情の機微のことを、なかば直感的に察知していたのかもしれない。
「神国日本」などといわれてもねえ、そうかんたんな問題じゃない。そうであるともないともいえないような、人間性の自然の問題をはらんでいるわけですよ。

日本人によるむやみな「日本礼賛」はつつしんだほうがいい。
日本人には、日本人としての「優秀さの自覚」とか「誇り」というようなものはない。ときどき右翼といわれる人の中にはそのようなものを持てといってくる人がいるが、それをいうこと自体が日本的ではないのだ。
日本人の集団性は、団結心ではなく、「おたがいさま=連携」の精神、すなわち「おもてなし(ホスピタリティ)」の上に成り立っているともいえる。そんな自覚も誇りも持っていない、いわば「生きらられない存在」だからこそ、そういう文化が生まれてくるのだ。
「神国日本」といっても、それは神や天皇が偉いのであって、日本人が偉いわけではない。そういう言い方をすること自体、「日本人」としての優秀さの自覚も誇りもないことを意味している。
「日本人」であることがそのまま「自分」であることなら、「日本人」であることのどこに誇らしさが持てようか。
ともあれ、太平洋戦争のときの兵士は、自分を捨てて国に身を捧げていった。そして戦後はその反動で、何か自分に執着することが美徳であるかのような風潮になっていったのだろうか。戦後左翼が「市民としての自覚」といおうと、今どきの右翼が「日本人としての誇り」といおうと同じことだ。自意識過剰の人間ばかりの世の中になってしまったし、それでも日本人の集団であるかぎり、混沌のままに連携してゆくといういかにも日本的な自意識の薄い集団性はつねに作用してきた。

戦後の日本人は、個人的な意識としてはずいぶん変質したかもしれないが、伝統としての日本的な集団性や関係性をすっかり失ってしまったわけではない。
まあね、「市民としての自覚を持て」とか「日本人としての誇りを持て」とか言われても、自分のことを棚に上げて言わせていただくなら、おまえらみたいなブサイクな人間たちから学ぶことなんか何もない、と答えるしかない。そうやって勝手に正義ぶって「正論」を振りかざしていい気になっていろ。そんなことをしても、おまえらのブサイクな心や顔つきが変更されるわけではない。われわれが気になるのは、人が魅力的であるか否かということだけだ。われわれは「正しさ」にひれ伏して付き従うつもりはない。人とときめき合って連携してゆくことができればと願っているだけだ……と。
戦後左翼があれだけしつこく市民正義を扇動してきて一時は洗脳されたようになったのに、それでも現在のこの国にその思想が定着したとはいえないし、近ごろは右翼思想が台頭してきて正義の座についているように見えても、右翼には醜い人が多いという感想が払しょくされているわけではない。左翼は愚かだし、右翼は醜い……これがこの国の一般的な感想で、なんだかしらけてしまっている無党派層とか選挙に行かない層と呼ばれる人たちが50パーセントもいる国というのは、いったいなんなのだろう。彼らはべつに、知的に最下層に属しているわけではなく、本格的知識人の中にもけっこうたくさんいる。
この国は、正しさ(=神の裁き)によって動いているのではなく、人と人のときめきときめかれる関係とともに動いている。どんなに正しかろうと、ブサイクな人間が何を扇動しようと、一時的にもてはやされようと、最終的にはその通りにならないのだ。
人間性の自然において、人は、正しさ(=神の裁き)に付き従って生きているのではなく、何かにときめきながら生きているだけだ。
右翼であれ左翼であれ、世のインテリがどんなに立派なことをいおうと、誰もがそれによってこの生を支えられているわけではない。われわれのこの生は、誰かに何かにときめくというそのことに支えられている。
立派な人や正しい人よりも、魅力的な人の存在のほうが、ずっとこの生の支えになる。その対象がたとえ「初音ミク」であっても、それはもう、そうなのだ。