嘆きのゆくえ・神道と天皇(90)

解散総選挙だってさ。
僕はこの国の未来がどうあるべきかということのいかなる意見も持ち合わせていないが、さすがにこんな状況になってくると、いったいどうなってしまうのだろうという感慨はいやでも湧いてくる。
政治家はもう、なんだか右翼ばかりになってしまいそうな勢いではないか。戦前戦中の大政翼賛会的、というのだろうか。
誰といわなくてもお分かりだろうが、政治の世界が、ひとりの権力亡者の薄気味悪い女にいいように引っ掻き回されている。
今や右翼にならないと当選できないような状況になってきているのだとか。
現在の政治の世界のなりゆきがそうなっているのなら、それはもうそういうものかと納得するしかないのだが、やっぱり世の右翼たちによるあの党派的集団催眠的な盛り上がりはなんとも気味悪い。
「日本人が『かみ』や『天皇』を祀り上げるのはどういうことか?」という僕の問いなど完全に置き去りにされてしまっているのだろうか。
右翼の天皇観などぜんぜん変だし、天皇制は諸悪の根源だという左翼の思考だって何かいびつだ。どちらも自分こそは正しいと主張するばかりで、かれらには天皇とは何かということをもう一度起源・本質に立ち返って問い直すという態度はまるでない。
で今回は、国民投票をするとかしないとか、憲法第九条をどうするかという議論もあるらしいが、右翼だろうと左翼だろうと、正義ぶって「俺が決めてやる」というような態度で迫ってこられると、うんざりだ。

というわけで、さしあたり憲法第九条について考えてみようか。
まあわれわれ下層の民衆にとって憲法などというものはただのお飾りで、美しければ美しいほどいいのだし、むずかしいことなんかわからない。「愚民」だといいたければいえばいい。しかしこれは、日本列島の伝統の美意識が試されている問題でもあり、世の政治オタクたちが競い合っている正義・正論だけですむわけではない。
われわれ民衆は、戦争になってから戦争を実感するのであって、「戦争になりそうな予感」などない。そういう「今ここ」しか実感できない愚かな存在なのだ。そしてそういう愚かさを大切にするところにこそ、この国ならではの「無常」の伝統がある。
美しいものに対する遠い憧れを抱いているものたちの心の半分は、すでに死に浸されている。人は、死に浸されている心で美しいものにときめいてゆく。人の心は、すでに死に浸されている。だから人は、死者のことを想う。
死に浸されている心は、憲法第九条を否定できない。否定しないと国を守れないとわかっていても、否定できない。
国は守らねばならないのか?そんなことはわからない。ただ人は、何かに対して命を捧げるという気持ちがあるから、戦うことができる。何に対して命を捧げるのか?美しいものか?それとも崇高なものか?いずれにせよそれは、国ではない。
人は死に浸された存在だから、そのとき戦士たちは、命を捧げるというそのことに命を捧げている。人間性の尊厳に向かって命を捧げているというか、命を捧げることができなければ人間ではない、という心地になってゆく。そうして、国よりももっと美しいもの、もっと崇高なものを見出してゆく。たとえば、恋人や母親は、国よりももっと美しく崇高なものに違いない。今ここの一瞬の自然の輝きだって、国というわけのわからないものよりはずっと美しく崇高だ。
特攻隊員は、まず最初に「お国のために死ぬ」という思想を叩き込まれる。しかし、最後の日が近づくにつれて、「国」という意識はだんだん薄れてくるものらしい。そういう生き残りの特攻隊員の証言が数多くある。「命を捧げる」という感慨が薄れるわけではないが、その対象はやがて「国」ではすまなくなってきて、もっと美しいものやもっと崇高なものでなければならなってくる。
国家とはたんなる「共同幻想」であり、人は国家を「存在」として実感することはできない。死が間近に迫れば、国どころではなくなってしまう。
そりゃあ胸に焼き付いた恋人の微笑みのほうがずっとたしかな「存在」であり、ずっと美しく崇高であるに違いないし、そのときひとまず天皇はそういう美しく崇高なものに命を捧げる心のよりどころとして機能していた。だから「天皇陛下万歳!」と叫んで死んでゆくこともあった。
とにかく人の心はすでに死に浸されているから、特攻隊員の「命を捧げる」という覚悟が消えることはなかった。
戦場の兵士は、この世のもっとも美しく崇高なものに命を捧げているのであって、国に対してではない。
憲法第九条は、戦場に赴く兵士の尊厳のために存在している、ともいえる。

死を前にした兵士は、国よりももっと美しく崇高なものを見ている。
また日本人は死者のことを身近な存在として想う死生観の伝統があるから、外国人以上に死を厭わない覚悟を持つことができる。日本人にとっての死者は、天国や極楽浄土に行くのでも生まれ変わるのでもなく、残されたものの「哀惜の念」とともにこの世界のどこかに漂っているのであり、そうやって「幽霊」という共同幻想が機能してきた。
日本人の死に浸された心は、国を滅ぼすかもしれない憲法第九条をここまで放棄することができなかった。日本人には、国よりももっと美しく崇高なものに対する遠い憧れがあるから国のために死んでゆくことができる。愛国心なんか世界中の人間が持っているが、愛国心では特攻隊はつとまらないのだ。
愛国心が大切なら憲法第九条は破棄しなければならないが、国以上に美しく崇高なものを想うなら、それはそのままでもよい。
憲法第九条を残すことは、死に臨む特攻隊の兵士の想いと、どこか通じている。特攻精神がなければ、憲法第九条は守れない。
まあ、戦時中だろうと平和ボケした現在だろうと、日本人は日本人なのだ。
いつの時代も、日本人に愛国心などはない。日本人にとっては国以上に美しく崇高なものに対する遠い憧れがあるから、そのよりどころとして天皇を祀り上げてきたのだし、憲法第九条が守られている。天皇は国家が生まれる前から存在していたし、国家を超越した存在として現在まで機能し続けている。
憲法第九条は、国家の存続などということを超越した美意識を持たなければ守れない。美意識とは死に魅入られることと同義であり、人間性の自然においてはそうやって生と死のはざまで心が華やぎ命のはたらきが活性化してゆくわけで、そこに憲法第九条という問題の一筋縄ではゆかないややこしさがある。それが国を守るには極めて不合理な条文だということくらいわかりきっているのだが、それでも抗しがたく定着してしまっているところに、たんなる憲法解釈だけではすまない微妙な問題をはらんでいる。
この国には、死に対して親密なメンタリティの伝統がある。それが切腹や特攻隊の習俗を生み出し憲法第九条を存続させているのだとしたら、もはや右翼か左翼かという問題でもあるまい。まあ、そのメンタリティで天皇を祀り上げてきたのだし、天皇と同じようにひとつのお飾り(=象徴)としてそれを存続させてきた。
憲法なんか、ただのお飾りでいいのだ。具体的な「法」を絶対のものにすることなく、その上位に「お飾り」を置くところにこそ、日本人の集団性というか日本列島の精神風土の伝統がある。

日本列島には、町内会とか村の寄り合いとか、公権力の「法」にたよらない民事調停の伝統がある。それは、「法」よりももっとも上位の調停の基準があるというか、善悪とか正邪を決定しないでその場の空気の「なりゆき」のままに調停してゆく集団運営の習俗を伝統として持っている、ということだ。その、善悪も正邪もどうでもいいという習俗の伝統の上に憲法第九条が存続しているし、戦時中の権力者たちの会議だって、まるで村の寄り合いのように「なりゆき」のままに流されてきただけだということは、戦後の極東裁判におけるA級戦犯たちのあいまいな陳述にもあらわれていた。
いつの時代も日本人は日本人なのだ。
日本人は、憲法のことを「神の裁き=法」だとは思っていない。憲法なんかただのお飾りであり、だからこそそれが日本人の心のよりどころになっている。
この世の美しく崇高なものに対する遠い憧れを持っているものにとっては、「神の裁き」としての善悪も正邪もどうでもいい。因果なことに日本列島は、そういう精神風土の歴史を歩んできた。
天皇神道の「かみ」も、善悪や正邪を決定しない。
日本列島には、キリスト教イスラム教やユダヤ教のような「神の裁き=正義」を祀り上げてゆくような思想の伝統はない。そしてそれは、天皇が歴史的に権力とは無縁のたんなるお飾りだったことを意味する。日本人はお飾りを祀り上げる。憲法第九条だって、ただのお飾りなのだ。
しかし、無用のお飾りこそが大切なのだ。それは、人間性の自然としてのこの世の美しく崇高なもの対する遠い憧れの上に成り立っているであり、それを失って人は生きていられるだろうか。
われわれは、憲法第九条という問題をどう扱えばよいのだろうか。それは、このまま迷宮入りしてしまうのだろうか、それともそろそろこのへんで決着をつけてしまうのだろうか。