清純な魂・神道と天皇(91)

たとえそれが実用的でなくても、日本人は歴史的に、正義ではなく、この世のもっとも美しく崇高なものを祀り上げてきた。正義を振りかざすのは下品なことだ、と思っている。
正義ぶった政治オタクなんか、うんざりだ。こういうご時世だからこそ、あえてそういってしまいたくなる。
まあ政治オタクでなくても、今どきは正義・正論で人を裁きたがる大人たちがたくさんいるし、その一方で正義・正論を超越した発想のマンガやアニメが多くの若者たちに支持され、しかも「ジャパンクール」として海外でも受け入れられている。
なんのかのといっても海外の国々は宗教の影響で、どうしても正義・正論の枠から解き放たれた発想ができない。
日本列島の伝統には、正義・正論などというものはない。そのかわり、それ以上の美しく崇高なものに対する遠い憧れがある。この国のアニメやマンガの描く世界が正義・正論から外れているのにそれでも外国人から魅力的だと受け入れられるのは、それ以上の美しく崇高なものに対する遠い憧れを持っているからであり、たとえアンモラルでも、モラルを超えた清純な魂の輝きがあるのだ。
アニメやマンガの表現がなぜ普遍性を持っているのかということは、もっと考えられてもいい。そこには、世界中の人の心の奥に息づいているところの、ある清純さに対する遠い憧れが表現されている。
清純さはひとつの他愛なさであると同時に、しょせんはただの通俗でしかない正義・正論よりももっと高次の倫理なのだ。

最近は、庶民が政治家のスキャンダルに過剰反応し、よってたかって俗っぽい正義・正論でつるし上げにかかるという動きが度を越している。政治家の不倫はいけないといっても、おまえらだって不倫の一つや二つはしたことがあるだろうし、したいだろう、という話だ。そしてそれを訳知り顔の知識人が「愚かなポピュリズムだ」と嘆いてみせるという構図になっているわけだが、彼らの正義・正論で人を裁きたがる態度がそのまま庶民に伝染しているだけのことだろう。
民衆は、洗脳されやすい人種なのだ。知識人が凡庸な正義・正論を振り回すかぎり、民衆だって同じ凡庸な正義・正論でスキャンダルを裁くことをやめない。まあ、知識人が民衆を洗脳するというより、世の中全体がそういう空気になっていて、両者それぞれの立場で自意識過剰になってしまっているだけのことかもしれない。
そういう時代なのだろう。どちらも時代に踊らされているだけのことだが、誰だって人間としてあるいは日本人としての本性に沿った心の動きで生きている部分も持っているのだし、そういう部分を客観的に言葉にできるレベルで心得ているがの知識人のたしなみというものだろう。
少なくともマンガやアニメの作者たちは、そのへんの政治オタクのインテリよりはずっと正義・正論を超えた「清純」なもの」をよく知っている。
知識人であれ庶民であれ、今どきの大人たちの多くは、人や社会に干渉してゆくことが正義で賢いことであるかのように考えている。「主体性」に対する信仰。それが政治というものの本質だろうし、彼らはそこに人間性の自然と尊厳があると考えている。そうやって政治オタクの知識人がえらそげな顔をし、民衆は政治家のスキャンダルを糾弾している。
もともと日本人は国家などというものに興味がなかったし、主体的な「政治」に向かうよりも「なりゆき」に身をまかせるのを生きる作法として歴史を歩んできたのだ。ましてや他人のスキャンダルなんか見て見ぬふりをするのが人としてのたしなみだと心得ていた。
誰だって生きてゆくことは汚れてゆくことであり、清廉潔白であることが人としてのたしなみであるのではなく、清廉潔白でないことを自覚できるかどうかとわれわれは試されている。だから「見て見ぬふりをする」しかないのだ。
むやみに正義・正論を振りかざすのははしたないことだと自覚するところにこそ、日本列島の伝統の精神風土がある。日本列島の住民は、宗教的政治的な正義・正論よりももっと高次の「清純さ=美しく崇高なもの」に対する遠い憧れがある。
むやみに正義・正論を振りかざしたがる政治オタクなんかうんざりだ。
「政治」という名の宗教、宗教だから正義・正論を押し付けてくる。

今回の解散総選挙は「国難突破選挙」というキャッチフレーズになっているのだとか。
ずいぶん大げさなことをいう。
はたして国民は、そんなことを実感しているだろうか。
国民にとって「国難」とか「戦争の危機」というのはある日突然実感するものであって、最初から実感しているのは権力者たちだけなのだ。権力者はそういう強迫観念を持っているし、まあ民主主義の今どきは多くの民衆が国を背負っている気分になっているのかもしれないが、この国の伝統としての民衆の本性は、先のことなど考えずにひとすら「今ここ」に「反応」してゆくことにある。
そりゃあ、政治家やマスコミがそれを煽れば、国民だってその気になってゆく。しかしそれでも、心のどこかしらでは上の空で聞いている。
それは、愚かなことだろうか?
愚かでけっこう、愚かであることがこの国の伝統なのだ。
その愚かさによって右翼勢力が圧勝するのか、それともそうならないのか、もちろん僕にはわからないが、この国の民衆には、他愛なく扇動される愚かさと、いざとならないと危機を実感しない愚かさすなわち「そんなことはどうでもいい」という拒否反応の両方がある。
太平洋戦争があんなにもひどい展開になり、民衆は窮乏を極め、理不尽な召集令状にも甘んじて従っていったのは、国家権力に対する従順さと無関心があったからで、不平不満が爆発する気配はまるでなかった。それがあれば、戦争はもっと早く終わったのかもしれない。
広島と長崎に原子爆弾を落とされたのは、われわれ民衆の責任でもある。だから天皇は「一億総懺悔して」といった。
そのとき民衆の国家権力に対する従順さは、無関心という拒否反応でもあった。
国家権力を信じているから、国家権力を動かそうとする。皮肉なことに、戦前戦中の民衆は、今どきの民主主義の市民や50年代60年代の学生運動の闘士たちよりも、ずっと国家権力に対する拒否反応を持っていた。
もともとこの国の民衆には、国家意識とか愛国心などというものはないのだ。そういうものがあれば、あのときもっと不満を募らせていた。

右翼は「憂国」という言葉が好きだ。そんな観念は国家権力を信じ国家権力に執着しているものが持つもので、そこのところで三島由紀夫は「全共闘の学生に対するシンパシーがある」といっていた。
しかし戦時中の民衆は、国を憂えることなどなく、ひたすらその窮乏をみずからの運命として耐えていた。
人間性の自然には「いつ死んでもかまわない」という感慨が疼いていて、人はどんな不幸にも耐えてしまう。だから、あんなにもひどいナチスの圧政下に置かれたユダヤ人も抵抗することをしなかった。因果なことに、抵抗しないことは人間性の自然で、それが人類史の普遍的な流れになっている。
不幸に耐えられないこと、すなわち国を憂えて国に干渉しようとすることはひとつの病理なのだ。
もしも人間性の尊厳というものがあるとすれば、それは、どんな不幸にも耐えられることであって、耐えられなくてヒステリーを起こすことではない。
北朝鮮の民衆だって、とりあえず必死に耐えている。国家権力に洗脳された彼らが「日本なんかろくなもんじゃない」といっても、とりあえず必死に窮乏という不幸に耐えているというそのことに、人間性の自然と尊厳がある。
言い換えれば人間性の自然には、耐えられなくてヒステリーを起こすことに対する幻滅がある。まあ、今どきのこの国の右翼の多くは、耐えられなくてヒステリーを起こす人種なのではないだろうか。
いや左翼だって革命というヒステリーを組織したがっているのかもしれないが、とりあえず選挙は、ささやかなヒステリーのはけ口になる。